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川崎大師 平間寺
かわさきたいし へいげんじ
神奈川県川崎市川崎区大師4−48
Tel 044-266-3420


 川崎大師は正式には金剛山金乗院平間寺 (こんごうさんこんじょういんへいけんじ) と号します。高尾山薬王院・成田山新勝寺とともに、真言宗智山派の関東三山といわれます。
 江戸の昔から、さまざまな厄除け大師として有名で、初詣には全国から300万人もの参拝者が訪れます。神奈川県では1番、全国でも3番目の人手になります。
 大治2年(1127)、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪で生国の尾張国を追われ、諸国流浪のあげく川崎に辿り着いて漁師として暮らしていました。ある日、高僧の夢のお告げで舟をだし、海中から弘法大師の尊像を引き上げました。
 42歳の厄年だった兼乗は、その尊像を祀り、草庵を建てて供養を怠りませんでした。のちに高野山の尊賢上人が諸国行脚の途中この地に訪れ、この話を耳にしました。大治3年(1128)自ら開山し、兼乗と力を合わせて正式に平間寺を建立したということです。
 文化10年(1813)に徳川幕府第11代将軍、家斉が厄除に訪れ、厄除け大師として広まりました。家慶、家定、家茂も厄除けに訪れ広く世間に知れ渡りました。
 大山門前の参道の仲見世通り門前町には名物の久寿餅やダルマ、飴などのお店が軒を並べています。久寿餅は江戸天保年間に大師河原村の職人・久兵衛が作り、古くから川崎大師の名物になりました。

大山門
 大山門は昭和52年(1977)開創850年の記念事業として落慶しました。京都の東寺の国宝・四天王像を真似て、門の四方には四天王像(持国天、増長天、広目天、多聞天)の像が安置されています。
大山門
 上層部分には薬師如来像を安置するほか、経庫になっており、同寺で行われる「写経会」で写経された経文や、奉納された写経が収められています。
大山門

大本堂
 弘法大師1000年御遠忌で天保5年(1834)建立された本堂は昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまいました。本尊厄除弘法大師像は第43世高橋隆超大僧上の決断により、空襲の2日前に横浜の観音寺に疎開していたので無事でした。
大本堂
 この本尊は大治2年(1127)に、平間兼乗が夢のお告げによって海中から拾い上げた弘法大師木像です。徳川家斉、家慶、家定、家茂などが厄除詣りしたことで厄除大師として信仰が広がっていったのです。
大本堂
 本堂は昭和39年(1964)5月に大本堂として再建されました。本尊厄除弘法大師を中心に不動明王、愛染明王、稚児大師、救世観音、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が奉安されています。毎日煩悩を焼き尽くす護摩(ごま)が焚かれています。
大本堂

不動堂
 現在の不動堂は昭和39年(1964)に再建されたものです。本尊の不動明王は成田山新勝寺の不動明王の本尊を勧請した御分躰の不動尊だそうです。
不動堂
 この不動堂は武相不動尊霊場第1番札所、関東36不動霊場第7番札所となっています。
不動堂

八角五重塔
 八角五重塔は昭和58年(1983)に造られた国内初の建築で、木造本瓦葺の本格的な仏塔です。弘法大師没後1150年を記念して建立されています。塔の八角は真言の様式にかなうよう、華麗にして格調ある形であり、最も円に近い建造物であるといわれ「包容力」、「完全性」が象徴されているそうです。
八角五重塔
 内部には弘法大師像などが安置されています。毎月第1日曜日と21日の縁日に限り内部が拝観できるそうです。
八角五重塔
 八角五重塔の2層に恵果和上像、弘法大師像、興教大師像、両界曼荼羅を安置。初層に真言八祖の図像、金剛界五智如来像、地下の大師地区慰霊堂には釈迦如来が奉安されているそうです。
八角五重塔

経蔵
 経蔵とは仏教の経典を納める庫のことです。ここには説法釈迦如来が奉安されていて、「乾隆版大蔵経(けんりゅうばんだいぞうきょう)」という中国最後の木版大蔵経が収蔵されているそうです。平成16年(2004)大開帳奉修を記念して建立され七堂伽藍が整ったそうです。
経蔵

中書院
 静かなたたずまいの中書院は昭和41年(1966)に落慶しています。。三笠宮妃百合子妃殿下が命名された南側「光聚庵」と茶道裏千家家元千宗室・現玄室宗匠が命名した北側「心月庵」、「静嘉軒」(立礼席)からなり茶道を楽しむ人の憩いの場となっています。
中書院

六字名号塔
 願いが叶ったときに神社に奉納する「南無阿弥陀仏」と刻んだ石標を六字名号塔といいます。銘文が塔身正面 ・裏面、台座につきますが、塔身部の年号寛永5年(1628)と台座の干支戌午が一致していないそうです。後に観心敞範なる僧によって台座が添えられたと考えられています。
六字名号塔

鐘楼堂
 寛政元年(1789)に建立されましたが、大正2年(1913)の震災のために倒壊、移築後、昭和20年(1945)の戦災により焼失しました。昭和23年(1948)に再建されたものです。梵鐘は寛政7年(1795)に再鋳されたもので大晦日の除夜の鐘として響かせています。
鐘楼堂

遍路大師像
 昭和48年(1973)弘法大師生誕1200年記念事業として造られ、5月に開眼法要が執り行なわれたそうです。像の周囲に新四国八十八ヶ所札所の石柱が立ち、貫首が四国遍路をした際の砂が埋設されているそうです。健康、健脚を祈願しています。
遍路大師像

 旧本堂の礎石です。
 天保5年(1834)に建立された本堂の礎石です。非常に規模の大きい堂宇でしたが、昭和20年(1945)の空襲によって焼失してしまいました。
旧本堂の礎石

 まり塚碑です。
 昭和26年(1951)1月に建てられました。
 毎年5月21日にまり塚祭りが催され芸能人より演芸が奉納されるそうです。
まり塚碑

 茶筅(ちゃせん)塚です。
 天保6年(1835)茶施翁の碑などが残されています。僧侶の読経斎唱のなか、大師が護摩を焚き、柄を白い紙で巻かれた茶筅を入れます。その後、代表の方々がひとつずつ入れて焚きます。
茶筅塚

 力石です。
昔、力比べに使っていたそうです。
力石


 降魔成道(ごうまじょうどう)釈迦如来像です。「降魔成道」とは、釈尊が「さとり」を開いたときの姿です。鶴の池に隣接する形でまつられ、浮御堂から参拝します。昭和52年(1977)開創850年記念事業として造られました。
降魔成道釈迦如来像
 釈尊が「さとり」を完成しようとして菩提樹の下に座っていた時、種々の悪魔が現れて誘惑しあるいは脅迫して妨害しようとしましたが、釈尊はこれをことごとく退けて「さとり」をひらいたそうです。この時、左手を膝の上におき、右手を伸ばして大地を指したそうです。
降魔成道釈迦如来像


自動車交通安全祈祷殿
 昭和38年(1963)創建されたそうです。昭和45年(1970)11月、現在のインド風の堂宇になりました。ヒンドゥー寺院かカンボジアの仏教寺院のようです。
自動車交通安全祈祷殿
 祈祷殿の中央大塔には「大法輪」が掲げられています。仏教のもつ偉大性・弘法大師ご誓願の庶民救済の一大信念が表現されています。弘法大師、不動明王、般若守護十六善神が奉安されています。
自動車交通安全祈祷殿



大師公園
たいしこうえん
神奈川県川崎市川崎区大師公園1
Tel 044-276-0050


  川崎大師平間寺に隣接する公園で、野球場、テニスコート、プール、芝生広場などがあります。公園の周りを小さな人工の小川が流れていて、噴水も 決まった時間に出るようになっています。瀋陽市から贈られた中国庭園「瀋秀園」も人気があります。


瀋秀園
しんしゅうえん
神奈川県川崎市川崎区大師公園1番地 大師公園内
Tel 044-276-0050
 昭和62年(1987)に川崎市・瀋陽市友好都市提携5周年を記念して瀋陽市から贈られた庭園です。「瀋」は瀋陽市の瀋、「秀」はきれいという意味で、瀋陽市の素晴らしくてきれいな景色を集めた庭園という意味になるそうです。

 最初の門の両側には雄々しい獅子の像が建っています。瑠璃瓦の屋根が端正で美しい線形を描いています。赤い柱とのコントラストが中国風です。
 4300平方mの日本で最大の広さを誇る中国庭園には、明や清の時代の伝統的な建物を再現。建物は石畳や回廊で結ばれ、湖をぐるりと一周できるようになっています。



総持寺
そうじじ
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2−1−1
Tel 045-581-6358 三寶殿
 総持寺の正式名は、「諸嶽山(もろおかやま)總持寺」といいます。末寺は13000余り、檀徒は数千万人といわれる曹洞宗の大本山です。石川県能登にあった諸嶽寺を元亨元年(1321)太祖瑩山禅師が諸嶽山總持寺と改められたのが始まりです。
 元亨2年(1322)に後醍醐天皇の勅により官寺となり、僧たちの賜紫出世の道場となりました。正平9年(1354)の後村上天皇、天文9年(1540)の後奈良天皇、同19年の後陽成天皇、正保2年(1645)の後光明天皇と5回も綸旨を受けたことから「五朝天皇綸旨」といわれています。
 室町時代には足利義満、義政からも寺領寄進され、徳川家康も元和元年(1615)千両を寄進して幕府の祈願所としています。同年、徳川幕府が五山十刹に対し法度を出したときに、永平寺とならんで総持寺も大本山となったのでした。
三松関
 盛時は16000余の末寺を従え、70余に及ぶ堂宇を構えていたそうです。明治31年(1898)本堂の一部より出火して七堂伽藍はほとんどが焼失しました。当時の住職が横浜鶴見に移転を決めました。
仏殿
 なお能登の鳳至郡櫛比の庄(ふげしぐんくしびのしょう)にあった総持寺は勧請を続け、現在は総持寺祖院と呼ばれ荘厳な伽藍を完成させました。元本山の威風と面目を今に保っています。
大祖堂
 明治44年(1911)に現在の地、横浜の鶴見に移転した総持寺は約50万平米の広大な敷地を有し、交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。
紫雲台
 境内には鶴見事故慰霊碑があります。昭和38年(1963)鶴見で起きた電車事故で161名の尊い命が犠牲になりました。境内には他に「桜木町事故慰霊碑」俳優・石原裕次郎の墓などがあります。境内には、鶴見大学、鶴見女子高もあり、学園キャンパスの役割も担っています。
待鳳館

三松関
 総持寺に入る最初の門が三松関(さんしょうかん)です。大正9年(1920)に落成されています。

三松閣
 三松閣(さんしょうかく)は平成2年に完成した檀信徒研修道場です。各種セレモニーの会場ともなっています。能登の祖院にあった3本の竜の形をした松にちなんで三松閣と名付けられたそうです。地下では精進料理を食することもできるそうです。

三門
 高さ37mの鉄筋コンクリート造りの総持寺の正門である三門です。寺院の山門としては全国最大級です。昭和42年(1967)に建てられたそうです。とにかく立派です。左右の仁王像も迫力あります。
 普通は山門と呼ばれるものですが、空(くう)・無想(むそう)・無作(むさ)の三解脱(さんげだつ)に入るという意味から「三門」といわれています。

勅使門
 勅使門は向唐門様式による気品高い造りです。総欅唐破風造りで桃山式の建物形式です。皇族の方が訪れた時には開けられるそうです。1年のうち、お正月、節分、その他重要なまつりごとの時も開けられるそうです。

金鶏門
 金鶏門の金鶏とは、星の中に住む想像の鳥です。あけの鳥といって朝を表しているとのことです。ここから中雀門、玉兎門へと長い百間廊下が続いています。

仏殿
 七堂伽藍の中心建物で大正4年(1915)に作られた入母屋・二重屋根の総欅(けやき)造りの殿堂です。正面の額には「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」と書かれています。
 中央には本尊の釈迦無尼如来(坐像、木彫)が祀ってあります。その左右には、お釈迦様の十大弟子の阿難尊者、迦葉尊者が脇侍として祀られています。

大祖堂
 大祖堂(瑞応殿)は日本一の大きさを誇る本堂で総持寺最大の建物です。高さ36m、間口30間(54.5m)、奥行き26間(47m)の鉄骨鉄筋作りです。
 大祖堂は開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿で中枢ともいうべき堂宇です。畳千畳敷きの広さのなかで、約200名の僧侶が修業したり、一切の法要が行なわれるそうです。

紫雲台
 紫雲台は相檜造りの大書院です。禅師が全国の寺院または檀信徒と正式に相見されるところです。「紫雲臺」の揮毫(きごう)は東郷平八郎大元帥のものです。

待鳳館
 待鳳館は徳川家書院を移築したもので参拝者の客間として使っているところです。総持寺の迎賓館にあたります。

放光堂
 明治31年(1898)2隻の大きな船によって山形県鶴岡市総穏寺の本堂が献納され運ばれてきました。放光堂は総持寺が能登から移転して最初に建立(移築)された記念すべき建物です。
 放光堂は長く本堂として使用してきましたが、現在は「位牌堂」になっています。檀信徒のお位牌を安置した供養の道場で、その奥に納骨堂の常照殿があります。

鐘鼓楼
 鐘鼓楼には鐘や太鼓があり修行の合図をするところです。

 雲水群像です。
 雲水(うんすい)とは禅宗の修行僧のことを指します。雲の行くまま水の流るるままの托鉢遍路をして精進する姿です。
雲水群像



生麦事件の碑
なまむぎじけんのひ
神奈川県横浜市鶴見区生麦1ー16
Tel 045-503-3710
 文久2年(1862)8月21日、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父である島津久光の行列が旧東海道の生麦を通過中、イギリス人4人が馬で行列に紛れ込んだため殺傷事件になりました。これが生麦事件です。
 斬られたイギリス人リチャードソンは重傷を負いながら南に700mのここまで馬で逃げてきたそうです。追ってきた薩摩藩士によりとどめを刺され亡くなくなりました。この碑は明治16年(1883)鶴見の黒川荘三氏が建てたそうです。

生麦事件発生現場
なまむぎじけんはっせいげんば
神奈川県横浜市鶴見区生麦
 事件のあった東海道筋は住宅地になっています。一角に、生麦事件現場の碑がありました。イギリスは謝罪と下手人の引き渡しを要求し軍艦を鹿児島湾に派遣し薩英戦争となりました。



横浜
よこはま
 横浜は鎌倉時代になると開発が進み、金沢では、北条氏により、称名寺や金沢文庫が建てられ、また小机では、佐々木泰綱により水田が開かれました。
 江戸幕府のもと金沢の六浦藩の大名領を除いて、大部分は旗本領、幕府直轄の天領になっていたそうです。19世紀になると宿場町神奈川などは人口も増え、城下町小田原と肩を並べるほどになっていたそうです。
 安政元年(1854)日米和親条約が結ばれ、安政5年(1858)日米修好通商条約が結ばれました。オランダ、ロシア、英国、仏国とも通商条約が締結され、横浜は安政6年(1859)開港しました。
 幕府はここに運上所を置き、これを境界として以南を外国人居留地にしました。以北が日本人居住地とされ更にそこを5区域に分割して、横浜町と名付け、各区域に名主を置き総年寄が町全体を統括したそうです。
 明治22年(1889)4月1日に市制が執行されました。開港当初、横浜からは生糸・茶・海産物が輸出され、絹織物・毛織物が輸入されました。貿易は外国商館の手に握られていましたが、次第に横浜商人は生糸改会社を設立したり生糸荷預所を造ったりして貿易の主導権を確立していきました。
 大正12年(1923)9月1日、関東大震災が襲いました。横浜市の家屋建築物はことごとく倒壊して、火の海と化しました。死者2万余人、全壊家屋6万戸を出しましたが、市民の懸命の努力で昭和4年(1929)には、ほぼ旧状に復したそうです。
 昭和20年(1945)太平洋戦争で米軍の空襲が続き、市街地は焦土と化しました。特に、5月29日の空襲では、死傷者・行方不明者あわせて14,157名、被災家屋79,017戸を出し、市街地の約半分が失われたのです。
 同年8月15日敗戦し、横浜は連合軍により港湾施設の90パーセント、市街地の27パーセントが接収され復興が遅れました。朝鮮戦争の特需により活況を取り戻し、人口は350万人になり東京に次ぐ大都市として発展し続けています。



横浜駅
よこはまえき
神奈川県横浜市西区高島二丁目
 明治5年(1872)5月7日、品川と横浜間が仮開業しました。この時の横浜駅は現在の根岸線桜木町駅付近だったそうです。同年9月12日新橋と横浜間が正式開業したのでした。その後、東海道本線が全線開通しました。
 大正4年(1915)高島町付近に赤レンガの二代目横浜駅が誕生しました。この赤レンガの駅は関東大震災で崩壊し、昭和3年(1928)現在の地に新横浜駅駅舎が完成しました。
 昭和55年(1980)現在の駅舎に改築され、現在の駅舎は4代目となっています。平成16年(2004)2月1日横浜高速鉄道みなとみらい線が接続されました。東急東横線とみなとみらい線の相互直通運転開始され便利になりました。



横浜ラーメン博物館
よこはまらーめんはくぶつかん
神奈川県横浜市港北区新横浜2−14ー21
Tel 045-471-0503
 平成6年(1994)JR新横浜駅近くに横浜ラーメン博物館がオープンしました。300円の入場料を支払って館内にはいると夕焼けのなかに昔の日本があります。

 昭和33年の下町をイメージした街並みの中に旭川から熊本まで有名な名物ラーメン屋を配置しています。

 紙芝居やじゃんけんオリンピックなども随時行なわれています。昔のお巡りさんの格好をした従業員が汗だくで熱演していました。



横浜中華街
よこはまちゅうかがい
神奈川県横浜市中区山下町118ー2
Tel 045-662-1252
 横浜中華街は神戸南京町や長崎新地中華街とともに三大中華街といわれています。日本最大の中華街で中華料理店だけでも200軒以上あるそうです。電柱までが赤く染められ、ここは衣食住のすみずみまでが中国です。
 横浜開港後、半年で来日した商人などの増加で外人居留地が不足してきたそうです。文久元年(1861)には居留地の拡張工事が行われ、横浜新田とその附近の沼地が整備され、それが現在の中華街になったそうです。
 中華街が日本人街の様に整然と区分けされず本町通リに対し斜めに区分けされているのは横浜新田の畦道の名残りだそうです。
 中国の広東・上海などから大勢の人がやってきました。広東は華僑の故郷といわれ、古くから海外に人々を送り出してきた所なのです。横浜華僑の多くは広東の出身で、今も中華街に広東料理が多いのはこのためです。

 横浜には世界各地から大勢の人が訪れたそうです。開港当時西洋人は日本語がわからず、日本人は西洋の言葉や商売についてほとんど知識がありませんでした。
 香港・広東・上海の西洋商館で働いていた中国人は西洋の言葉が話せ、また日本とは漢字で筆談ができました。そのため中国人が西洋人と日本人のあいだに立ち、生糸や茶の貿易で仲介者の役割を果たしたのでした。



関帝廟
かんていびょう
神奈川県横浜市中区山下町140
Tel 045-226-2636
 中華街大通りから1本はずれて、横浜中華学院の横にあるのが関帝廟です。中華街の鎮守として、三国時代の英傑・関羽が祀られています。明治6年(1873)居留民によって、山下町付近に日本で最初の小さな廟が創建されたのが始まりだそうです。 
 初代の関帝廟は関東大震災で全壊し、次代の関帝廟も昭和初期に第2次世界大戦の戦災により消失しました。昭和61年(1986)の元旦にも原因不明の出火により焼失して現在は第4代です。再建され、その姿は中国の物よりも立派だといわれているそうです。
 「関帝信仰」とは、三国志で活躍した武将「関羽」が神格化され崇拝されているものです。関羽の没後、仕えていた劉備一族により、その功績をたたえられ廟を建立したことが始まりとされています。
 「義」に厚く弱い者の味方でありつづけた関羽を、その後の「晋・唐・宋・元・明・清」の各朝廷も、その精忠・守義に感動し帝位 を授けたことから、護国の神明として中国全土に関帝廟が建立されるようになったそうです。
 武将であった関羽は「武神」としての崇拝の他に、生涯を通 して厳格に「忠義」を貫いたことから「約束を守る」ことのシンボルとなり、信用を重んじる商人の間で「商業神」として崇拝されるようになったのです。



横浜スタジアム
よこはますたじあむ
神奈川県横浜市中区横浜公園内
Tel 045-661-1251
 「ハマスタ」の愛称で知られる横浜ベイスターズのホームグラウンドです。明治9年(1876)開園した歴史のある公園「横浜公園」にあります。
 どんぶりを傾けたような外観で6基の逆三角形の照明塔は「横浜」のイニシャルの「Y」をかたどっています。「フィールド・ターフ」という新型人工芝も張られています。



みなとみらい21
神奈川県横浜市西区みなとみらい
 みなとみらい21地区には高層ビル、国際会議場、展示場などが建ち並んでいます。かつては造船所や鉄道用地で占められ関内と横浜駅周辺の市街地を分断していたそうです。
 横浜ランドマークタワー、クイーンズスクエア横浜、パシフィコ横浜、臨港パーク、みなとみらい32番館、三菱みなとみらい技術館、NTT横浜遊電池、ジャックモール、よこはまコスモワールドなど埋立でできたシーサイドタウンです。みなとみらい21地区は横浜市西区と中区にまたがる海に接している地域で都市景観100選を受賞しています。



日本丸メモリアルパーク
にほんまるめもりあるぱーく
神奈川県横浜市西区みなとみらい2−1−1
Tel 045-221-0280
 汽車道入口の左側が、日本丸メモリアルパークです。80年以上にわたり数千隻の船の修理にたずさわった石造りのドックに帆船日本丸を保存公開しています。地下には横浜マリタイムミュージアムがある公園です。
 帆船日本丸は日本丸メモリアルパーク内にあり、夜はライトアップされて本当にきれいです。その美しさから「太平洋の白鳥」といわれたそうです。
 日本丸は昭和5年(1930)に文部省の航海訓練所の練習帆船として神戸の川崎造船所で進水したそうです。航海した距離は183万キロ、地球45周したそうです。また育てあげた実習生は11500名に達するそうです。
 総トン数2278トン、全長97m、総帆数29枚のこの帆船は現在は横浜市が船主となり、船籍を横浜港に置き、みなとみらい地区に残された旧三菱重工業1号ドックに浮かべられているのです。
  戦時中は帆船から機船に改造されて緊急物資輸送に使われたそうです。戦後間もなくは引き揚げ輸送に従事していたそうです。昭和27年(1952)に帆船として復旧し、再び練習船として活躍しました。昭和59年(1984)日本丸U世が就来上がったため引退したそうです。



横浜マリタイムミュージアム
よこはままりたいむみゅーじあむ
神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目1ー1
Tel 045-221-0280
 日本丸メモリアルパークの地下にある博物館です。横浜港を中心として、港と船をテーマにしています。横浜市政100周年、横浜港開港130周年にあたる平成元年(1989)3月25日に開館しました。
 横浜港やいろいろな船に関する情報が集合しています。マリタイムミュージアムは一般的に海事博物館と訳されているようです。船を操るシミュレーションゲームなど人気があるようです。



クイーンズスクエア横浜
クイーンズスクエアよこはま
神奈川県横浜市西区みなとみらい2−3
Tel 045-682-0109
 クイーンズタワーは波をモチーフとした3つのシンボルタワーが連なっています。オフィスをはじめ約60ものショップやレストランを持つ専門店街、横浜港の眺望が楽しめる「パンパシフィックホテル横浜」、本格的コンサートホール「横浜みなとみらいホール」などがあります。クイーンズスクエア横浜はみなとみらい21の中心的存在になりつつある日本最大級の複合都市なのです。

 パンパシフィックホテル横浜は3つのタワーの横に建つ高層ホテルです。太平洋を囲む美しい都市や島々をひとつの環に結んできた、パン・パシッフィクホテルズ・アンド・リゾーツが日本に初めて建てたグループホテルなのです。緑あふれる公園と海を見下ろす絶好のロケーションです。



三菱重工横浜ビル
みつびしじゅうこうぎょうよこはまびる
神奈川県横浜市西区みなとみらい3−3−1
Tel 045-200-7351
 ランドマークタワーのすぐ北側にある地上33階建て、地下2階の高層ビルです。みなとみらい21地区は横浜ドックの名で親しまれていた三菱重工業横浜造船所や工場と国鉄の貨物線の跡地を沖合いに埋め立てたところにできたのです。昭和58年(1983)にここを離れ横浜市内の本牧及び金沢へ工場を移転させています。
 三菱重工横浜ビルには三菱みなとみらい技術館があります。環境、宇宙、海洋など6つのテーマに沿った科学技術に関する展示が見られます。宇宙ゾーンでは最新鋭のロケットエンジンの実物が見られます。ヘリコプターのフライトシミュレーション「スカイウォークアドベンチャー」では操縦体験が味わえます。



横浜ランドマークタワー
よこはまらんどまーくたわー
神奈川県横浜市西区みなとみらい2−2−1
Tel 045-222-5015
 横浜ランドマークタワーは高さ296mの日本一の超高層ビルです。1階から48階までがオフィスになっていて、49階から70階までが横浜ロイヤルパークホテルニッコーになっています。69階は展望フロアのスカイガーデンになっていて360度にわたって横浜市内や関東地方の各所が見渡せます。
 横浜ランドマークタワーの北側には5階建てのショッピングモール「ランドマークプラザ」があり、東側には平成9年(1997)に国の重要文化財に指定された「ドッグヤードガーデン」があります。
 「横浜ロイヤルパークホテル」は三菱地所の関連ホテルです。平成6年(1994)に三菱地所ホテルグループからロイヤルパークホテルズへ名称を変更しています。最上階70階にあるスカイラウンジ「シリウス」でゆっくりするほうがスカイガーデン利用よりも得かもしれません。


横浜ランドマークタワー展望フロア
スカイガーデン
すかいがーでん
 69階の展望フロア「スカイガーデン」へは、分速750mという世界最速のエレベーターで約40秒であっという間に到着します。ギネスブックにも登録されているそうです。
 昭和58年(1983)3月三菱地所は、三菱重工業(株)より造船所跡地31haの内、20haを買受け、民間最大の地権者として「みなとみらい21」に参画し、ランドマークタワー開発を計画したのでした。
 平成5年(1993)7月16日に横浜ランドマークタワーは開業したそうです。 デザインはアメリカのコンサルタントのヒュー・スタビンス氏の会社が受け持ったそうです。

ランドマークプラザ
 「ランドマークプラザ」は横浜ランドマークタワーの北側にある地下2階から地上5階のショッピングモールです。 

 巨大な吹き抜け空間を囲んで約170もの店舗やレストランが集まっています。1階には2カ所のイベントスペースがありピアノの演奏がされていたりします。




ドッグヤードガーデン
どっぐやーどがーでん
神奈川県横浜市西区みなとみらい2−2−1
Tel 045-222-5015(ランドマークプラザ)
 ドッグヤードガーデンは明治29年(1896)に完成した旧横浜造船所2号ドックを解体して復元したものです。英国人技師パーマーの提言に基づき、明治22年(1889)設立の「横浜船渠会社」が建設し、現存最古の民営石造乾船渠です。
 長さ約100m、深さ約10mあり、日本最古の石造りドックです。平成元(1989)年4月市指定歴史的建造物になり、平成9(1997)年12月には国の重要文化財に指定されました。



臨海パーク
りんかいぱーく
神奈川県横浜市西区みなとみらい1−1
Tel 045-221-2155
 みなとみらい21の北東端にあり、芝生広場を中心とした臨海公園です。横浜港やベイブリッジ、鶴見つばさ橋が一望できるところです。
 約9万3千平方mと広大な緑地がある公園で潮の満ち引きで水位が変わる潮入の池などがあります。そこにはステージも設けられていて、音楽演奏などのイベントも開かれています。



横浜美術館
よこはまびじゅつかん
神奈川県横浜市西区みなとみらい3−4−1
Tel 045-221-0300

 平成元年(1989)3月に横浜博覧会のパビリオンとして開館しました。博覧会が終わった11月に正式に開館しました。丹下健三氏が設計しました。

 下村観山、ピカソ、セザンヌや横浜ゆかりの作家の作品など、19世紀から現代に至る近・現代美術を展示しています。現代美術、写真を中心に約7800点を収蔵し企画展も開催しています。

 施設は地上3階で美術情報ギャラリーや美術図書室など、展示室以外のスペースも充実しています。
 ミュージアム・ショップ、レストランなどの施設もある美術館です。市民のアトリエ、子供のアトリエでは、デッサン講座なども開催しています。



よこはまコスモワールド
よこはまこすもわーるど
神奈川県横浜市西区新港2−8−1
Tel 045-641-6591
 よこはまコスモワールドはみなとみらい21地区にある遊園地で水路を挟んで3つのゾーンに分かれています。世界で初めての画期的な都市計画から生まれた未来志向の都市型立体遊園地なのだそうです。
 世界最大の時計型大観覧車「コスモクロック21」や世界初の水中突入型ジェットコースター「バニッシュ」、マイナス30度の極寒が体感できる「アイスワールド」などの楽しいアトラクションがいっぱいです。
 平成11年(1999)にリニューアルされ、夜景の眺めが素晴らしい大観覧車「コスモクロック21」が夜のスポットの中心になりました。




パシフィコ横浜
ぱしふぃこよこはま
神奈川県横浜市西区みなとみらい1丁目1ー1
Tel 045-221-2155
 パシフィコ横浜は「波と風と光」をテーマに、ヨットの帆や貝の形を象った世界最大級の複合コンベンションセンターです。約5千席の世界最大級の国立大ホール、会議センター、展示ホール、ホテルが集結しています。
 1000名規模の会議が3つ並行して開催できる充実した設備とスケールです。国際会議はもちろん、学術会議、シンポジウム、セミナーなどにも使われます。



ヨコハマグランドインターコンチネンタツホテル
よこはまぐらんどいんたーこんちねんたるほてる
神奈川県横浜市西区みなとみらい1-1-1
Tel 045-223-2222
 ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルです。ヨットの帆をイメージした外観です。ウォーターフロントならではの開放感あふれるインターナショナルホテルです。
 異文化が交錯する国際都市・横浜の新都心みなとみらい駅より徒歩約2分の立地です。平成3年(1991)にオープンしています。横浜港、ベイブリッジ、山下公園などエキゾチックな街並みを望む大型シティホテルで複合コンベンションセンター「パシフィコ横浜」に位置し、ビジネスの拠点としても最適です。



ぷかりさん橋
ぷかりさんばし
神奈川県横浜市西区みなとみらい1丁目地先
Tel 045-223-2121 横浜港振興協会
 パシフィコ横浜を通り抜けた先、インターコンチネンタルホテルの海岸に「ぷかりさん橋」があります。横浜駅東口、赤レンガ倉庫、山下公園へのシーバスや海上観光船のターミナルや待合室になっています。
 平成3年(1991)ゆらゆらと波に揺れる白い洋館風の建物は完成しました。緑の屋根に時計台をのせた瀟洒な洋館風の外観は可愛らしい雰囲気です。



横浜ワールドポーターズ
よこはまわーるどぽーたーず
神奈川県横浜市中区新港2−2−1
Tel 045-222-2000
 横浜ワールドポーターズは約130の店舗と約40軒のレストランがある国際派複合商業施設です。横浜市がFAZ(輸入促進地域)に指定されたことから平成11年(1999)に輸入促進のための施設としてオープンしたそうです。
 世界各国の輸入品を扱うショップを中心にレストランや赤レンガを模した映画館フロア、ブランドが揃うファッションワールド、世界の食材市場「フードワールド」「ワールドフードコート」「南大門市場」「東大門市場横浜」など多彩です。



横浜赤レンガ倉庫
よこはまあかれんがそうこ
神奈川県横浜市中区新港1−1−1
Tel 045-227-2002
 横浜赤レンガ倉庫は新港埠頭が横浜港最初の本格的な近代港湾として明治32年(1899)着工されたのに伴い、その付属施設として建設されました。日本最大級の赤レンガ建造物です。

 横浜赤レンガ倉庫は明治40年(1907)に着工され大正2年(1913)完工されましたが、関東大震災で3分の1が焼失し現在は当初の半分の大きさだそうです。

 「あぶない刑事」の撮影現場としても使われていました。横浜市が国から取得し、総工費は1号館、2号館あわせて62億円もの大金をかけたそうです。

 平成14年(2002)春に横浜赤レンガ倉庫1号館・2号館が文化、商業施設としてオープンしたのです。1号館はギャラリー、ホールや展示室が置かれ文化施設としての役割を果たしています。
 2号館はおしゃれな生活雑貨や家具などが充実した個性派ショップや、一流の音楽が体感できるライブレストランなどが集合しています。



横浜税関本館庁舎
よこはまぜいかんほんかんちょうしゃ
神奈川県横浜市中区海岸通1−1
Tel 045-212-6053 税関広報広聴室
 横浜税関本館庁舎はみなと大通りと海岸通りが交差する角に建っています。昭和9年(1934)に建設された鉄筋5階建てのビルです。「クイーン」の愛称で呼ばれています。
 イスラム寺院の風建築で、上部の緑青色のドームが特徴的な気品ある塔です。関東大震災後、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき」として失業者救済を兼ねた建築事業として建てられたそうです。
 「クイーン」の高さは51mあります。神奈川県庁本庁舎の「キング」は49m、横浜市開港記念会館の「ジャック」は36mです。国の建物が県のものに負けられないとして47mの設計図を書き直し、51mにしたという話も残っています。
 開港からの横浜港の歴史や貿易の変遷、輸出入通関の流れ、偽ブランド商品、麻薬・拳銃などの密輸の手口などを実物の展示や映像で紹介しています。



日本郵船歴史博物館
にほんゆうせんれきしはくぶつかん
神奈川県横浜市中区海岸通3−9
Tel 045-211-1923
 海岸通りに面して16本のコリント式円柱列を見せているビルは昭和11年(1936)に建てられた横浜郵船ビルです。内部は、日本郵船歴史博物館となっています。
 日本郵船は明治18年(1885)創立の歴史のある日本を代表する海運会社です。日本郵船歴史博物館では日本郵船の歴史を通し、日本の近代海運史や海と船の歴史を学ぶことができます。
 優雅な客船時代のモデルシップやディナー を再現しています。また制服なども展示されています。



横浜銀行協会
よこはまぎんこうきょうかい
神奈川県横浜市中区本町3ー28
Tel 045-201-9853
 昭和11年(1936)7月に建てられた横浜銀行協会の建物です。縦長の窓を並べてその間を突出させることで、正面に列柱分の表情を持たせています。正面車寄せが1本柱であるのが特徴です。昔は横浜銀行集会所だったそうです。
 素朴な外観にアクセントをつけるテコラッタがついています。これは装飾模様の焼き物タイルでアール・デコの特徴です。違和感がある4階部分は昭和40年(1965)に増築された部分です。



旧富士銀行横浜支店
きゅうふじぎんこうよこはましてん
神奈川県横浜市中区本町4-44
Tel 045-671-2023 都市整備局
 昭和4年(1929)10月に建てられた旧富士銀行横浜支店の建物です。その前身は旧安田銀行横浜支店だったそうです。昭和23年に安田銀行から富士銀行へと改称されました。 外壁はルスティカ積みで、正面ファサードにトスカナ式大オーダーの円柱、その間には半円形の窓が見受けられます。
 鉄筋コンクリート造りの2階建てです。 設計は安田銀行営繕課、施工は大倉土木、今の 大成建設が行なったそうです。銀行の移転により一時期使用されていませんでしたが、平成14年(2002)3月に横浜市が建物を取得したそうです。



旧横浜銀行本店
きゅうよこはまぎんこうほんてん
神奈川県横浜市中区本町5ー47
Tel 045-221-0325 ヨコハマ創造都市センター
 旧横浜銀行本店は平成21年(2009)5月よりヨコハマ・クリエイティブシティー・センターとなりました。今はなき本店は、昭和4年(1929)に第一銀行横浜支店として建築されました。その後、日本債券信用銀行を経て横浜銀行本店となったそうです。
 建物の大半は地区再開発の際に取り壊されてしまったそうですが、バルコニー部分だけは、銀行建築の象徴的なデザインとしての価値があるとして市が中心になり保存が決まったそうです。



神奈川県立歴史博物館
かながわけんりつれきしはくぶつかん
神奈川県横浜市中区南仲通5−60
Tel 045-201-0926
 神奈川県立歴史博物館は明治37年(1904)旧横浜正金銀行本店本館として建てられたドイツ・ルネッサンス様式の古典建築です。青銅のドームが特徴で、国の重要文化財に指定されています。
 設計は明治建築界の三巨頭のひとりである妻木頼黄(つまきよりなか)です。横浜で唯一の本格的な石造りのドイツ・ルネッサンス様式です。正面および両側隅部に大きなペディメントを設け、壁面は窓ごとに大オーダーの柱形を出してバロック的効果を強調しています。
 神奈川県立歴史博物館では中世鎌倉、戦国後北条、開国と文明開化など、日本の歴史の主要舞台となった横浜の歴史を、古代から現代まで5つに分けてわかりやすく展示しています。 



 下岡蓮杖顕彰碑
しもおかれんじょうけんしょうひ
 歴史博物館の向かい側に日本写真の開祖といわれる下岡蓮杖顕彰碑があります。下岡蓮杖は長崎の上野彦馬とともに日本の商業写真師の草分けとして知られており、この碑は彼の写真館が弁天町にあったことから彼の功績を記念してここに設置されているものです。



三井住友銀行横浜支店
みついすみともぎんこうよこはましてん
神奈川県横浜市中区本町2−20
Tel 045-211-0031
   昭和6年(1931)に建てられた三井住友銀行横浜支店のビルです。2階建てで設計は当時のアメリカの名門事務所、トロウブリッジ&リヴィングストン建築事務所です。
 この建築事務所は三井本館の設計も担当したそうです。この建物はいわば三井本館の縮小版といえるものです。正面の4本のイオニア式円柱が最大の特徴だが、内部にもコリント式柱頭をもつ列柱が見られ、クラシックな雰囲気を漂わせています。



横浜市開港記念会館
よこはましかいこうきねんかいかん
神奈川県横浜市中区本町1−6
Tel 045-201-0708
 横浜市開港記念会館は横浜開港50周年を記念して大正6年(1917)に建てられた建物です。平成元年(1989)に国の重要文化財に指定されています。
 赤レンガと白い花崗岩の重厚な外壁はネオ・ルネサンス様式です。東南隅に立つ36mの時計塔は「ジャック」と呼ばれ、横浜のシンボルとして親しまれています。関東大震災で内部を焼失しましたが、復元工事を重ね、現在の姿になっています。
 西南隅には八角ドーム、西北隅には角ドームをあげています。建築当時は貴賓室やビリヤード場も備え、単に公会堂としてだけではなく、 横浜政財界のサロンとしても用いられ、 また演奏会が催されるなど文化施設としての役割も担っていたそうです。
 安政6年(1859)の開港当時の歴史的な資料をはじめ、黒船やペリーの遠征記など、文明開化の頃の横浜に関する貴重な資料を収蔵展示しています。旧館の建物は、昭和6年(1931)に建造され、英国総領事館として昭和47年(1972)まで使われていたそうです。
 館内には、 宇野沢辰雄氏の製作によるといわれる開港当時を描いたステンドグラスや、 和田英作画伯の色彩鳥瞰図などが保護保存されています。時計塔「ジャック」は、 神奈川県庁本庁舎(キング)、 横浜税関本関庁舎(クイーン)と共に、 横浜の3塔として市民に親しまれています。



神奈川県庁本庁舎
かながわけんちょうほんちょうしゃ
神奈川県横浜市中区日本大通1
Tel 045-210-1111
 神奈川県庁の3代目の庁舎は赤坂迎賓館の設計者の片山東熊の手によるものでしたが関東大震災による火災で大きな被害を受け、建て直しすることになりました。公開設計競技の結果小尾嘉郎の案が採用されました。
 外壁のスクラッチタイル貼りと高さ48.6mの「キング」の愛称がある中央の高塔が特徴です。横浜税関本関庁舎「クイーン」、 横浜市開港記念会館「ジャック」と共に、 横浜の3塔として親しまれています。
 鉄骨鉄筋コンクリート造 地上5階・地下1階の本庁舎は大林組が施工して昭和3年(1928)10月に建てられたそうです。帝冠様式といわれる天守閣の様な塔屋を中央に載せていて昭和初期に流行した先駆けになったそうです。



横浜都市発展記念館
横浜ユーラシア文化館

神奈川県横浜市中区日本大通12
Tel 045-663-2424
 昭和4年(1929)に建設された旧横浜市外電話局を改修して横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館が平成15年(2003)3月15日に開館しました。
 装飾を控えた堅実なデザインでありながらも細部にはそれまでの古典主義様式を残し、当時の逓信省独自の様式が見られます。横浜という都市の形成・発展の歴史について、さまざまな資料を紹介しています。明治時代のレンガ造下水道マンホールの模型といった珍しい展示物もあります。



横浜海岸教会
よこはまかいがんきょうかい
神奈川県横浜市中区日本大通8
Tel 045-201-3740
 昭和8年(1875)に再建された横浜海岸教会です。明治5年(1872)にアメリカの宣教師サミュエル・R・ブラウンとJ.H.バラによって設立されました。初代の建物は関東大震災で崩壊しています。日本で最初のプロテスタント教会です。なお現存する最古の教会は元治元年(1864)建立の長崎大浦天主堂です。
 白い壁でエレガントな尖塔があり、教会らしくゴシック風です。 明治8年(1875)鋳造の鐘は今も開港広場に鳴り響いています。明治12年(1879)日本人による初めてのクリスマスミサがこの美しい教会で行なわれたそうです。



横浜開港資料館
よこはまかいこうしりょうかん
神奈川県横浜市中区日本大通3
Tel 045-201-2100
 開港広場に建つ横浜開港資料館は昭和56年(1981)6月2日の開港記念日に、日米和親条約が結ばれた由緒あるこの地に開設されたそうです。
 1階には、「開港への道」と題して、ペリー来航とその前後の情勢や横浜の様子などが展示されています。長い鎖国をつづけた日本は、黒船をひきいるペリーの来航によって、 大きく変貌しました。日本の開国と横浜開港の意味、横浜の役割なども明らかにしています。
 2階では特別幕末から明治・大正期までの横浜の歴史に関わる人物や 事件などに焦点をあて、年4回の特別・企画展示が開催されています。



日米和親条約調印の地
にちべいわしんじょうやくちょういんのち
開港広場
かいこうひろば
神奈川県横浜市中区日本大通3
 安政元年(1854)日米和親条約がここで調印されました。今は開港広場になっています。中央に噴水やミラーのオブジェのほか、明治初期に設置された近代下水道の遺構も保存され、地球をかたどった日米和親条約締結の地の石碑が建っています。
 嘉永6年(1853)久里浜でアメリカのフィルモア大統領の親書を伝えたペリーは翌年再来日し、ここで日米和親条約を締結しました。
 条約は下田、箱館(函館)の開港、アメリカ船に石炭・薪水・欠乏品を供給することなど12条からなっていました。
 この条約締結によって日本の鎖国体制は崩れ、幕藩体制は揺らいでいくことになります。幕府大老の井伊掃部守直弼は条約反対派を弾圧して安政の大獄を実施し、水戸浪士によって桜田門外で殺害されてしまいました。



野毛山公園
のげやまこうえん
神奈川県横浜市西区老松町63−10
Tel 045-231-1307 野毛山動物園
 野毛山公園一帯は明治10年代に原善三郎や茂木惣兵衛らが大邸宅をかまえていたそうです。関東大震災で壊滅後、横浜市に寄贈され大正14年(1925)和・洋・折衷の3様式をもつ野毛山公園として開園したそうです。
  太平洋戦争中は陸軍が使用し、戦後は昭和22年(1947)までアメリカ軍に接収されていたそうです。
 みなとみらい21地区や横浜港が一望できる展望台やプールなどの施設が点在しています。また桜をはじめ四季折々の花が咲く公園としても知られています。
 野毛山公園内には佐久間象山碑があります。開国100年を記念して、昭和29年(1954)に建てられた顕彰碑だそうです。象山は信州松代藩に生まれ天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎の塾に入門、朱子学の再興を主張して天保10年(1839)神田に塾を開きました。時の老中阿部正弘に「急務十事」を上申して横浜開国を主張しました。



野毛山動物園
のげやまどうぶつえん
神奈川県横浜市西区老松町63−10
Tel 045-231-1696
 野毛山公園内にあり、昭和26年(1951)にオープンした横浜最初の動物園です。3.3ヘクタールの園内にはキリンやは虫類、レッサーパンダなど約110種の動物が飼育されています。
 ライオンやキリンなどの大型動物をはじめ、フンボルトペンギンなどのかわいらしい動物もいます。しかも入園料は無料です。同じ横浜市営のズーラシアができたため、あまり混んでいないみたいです。



横浜市中央図書館
よこはましちゅうおうとしょかん
神奈川県横浜市西区老松町1
 300万冊以上ある蔵書の中からコンピューターで読みたい本を探して借りることができる横浜市中央図書館です。磁気誘導システム専用の白杖や車椅子を用意している図書館です。



伊勢山皇大神宮
いせやまこうたいじんぐう
神奈川県横浜市西区宮崎町64
Tel 045-241-1122
 伊勢山皇大神宮は明治初期、横浜が国の貿易の要として開港されると、国家鎮護を祈るために開かれました。
 明治3年(1870)に創建されました。当時は江戸時代にかけて流行になった「お伊勢参り」の名残りから、遥拝所の目的で伊勢神宮の御祭神である天照皇大神の御分霊を勧請したのが始まりとされます。
 石段を上がって、大鳥居をくぐると、正面に鎮座する神明檜造りの本殿があります。本殿左には杵築宮が並んでいます。現在は横浜の総鎮守として、また「関東のお伊勢さん」の名称で親しまれています。
 もともとは戸部村の海岸伊勢の森と称する山上に鎮座していましたが、明治3年(1870)野毛山の現社地に移されたということです。現在では年間150万人もの人々が参拝に訪れるそうです。
 社殿は何度か改築されてきましたが、関東大震災で焼失、空襲で戦火にあい、現在は3代目だそうです。横浜の全地域を見晴す風光明眉な所で桜の名所としても知られています。



神奈川県立図書館・音楽堂
かながわけんりつとしょかん・おんがくどう
神奈川県横浜市西区紅葉ヶ丘9−2
 神奈川県立音楽堂は紅葉坂を登ったところにあります。日本でも有数の音楽ホールで日本初の音楽専用ホールです。音響設計はロンドンのLoyal・Festival・Hallを参考にしたそうです。



横浜能楽堂
よこはまのうがくどう
神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘27−2
Tel 045-263-3055
 横浜能楽堂は掃部山公園の隣にあります。ここに納められている能舞台は明治8年(1875)に旧加賀藩主邸に建てられ、後に旧高松藩主邸に移築された「染井能舞台」を復元したものだそうです。関東に現存する最古の能舞台です。

 481の観客席があり、能や狂言などの公演が行なわれています。装束(しょうぞく)、楽器といった能や狂言に関する品々を展示している無料スペースなども併設されています。




掃部山公園
かもんやまこうえん
神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57
 掃部山公園は神奈川奉行所の跡地だった所だそうです。日米修好通商条約の調印をした大老、井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)ゆかりの公園です。
 彦根藩士有志がこの地を買い取り記念碑を建てたのが明治14年(1881)で、明治42年(1909)に井伊大老の銅像が建立されたそうです。
 井伊直弼は彦根城で生まれましたが庶子であり、養子の口も無く17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みという暮らしだったそうです。弘化3年(1846)兄の井伊直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、嘉永3年(1850)に兄の井伊直亮の後を継いで彦根藩主となった人です。
 彦根藩時代は藩政改革を行い名君と呼ばれ、アメリカ合衆国のペリー艦隊来航に伴う江戸湾防備に活躍しました。孝明天皇の勅許無しでアメリカと日米修好通商条約を独断で調印、反対派を安政の大獄により多数粛清したため、安政7年(1860)3月3日水戸藩浪士により桜田門付近で暗殺されてしまいました。



横浜
 豪華客船が停泊している大さん橋、海に隣接する山下公園、横浜港を一望するマリンタワー、老舗ホテルや洋風建築の邸宅・・・
 夜景の名所の横浜ベイブリッジ、氷川丸の勇姿、遠くにはラウンドタワーやヨコハマ・グランド・インターコンティネンタルに代表されるMM21の高層ビル群・・・ 新と旧が調和している町「横浜」です。


シルク博物館
しるくはくぶつかん
神奈川県横浜市中区山下町1
Tel 045-641-0841
 昭和34年(1959)、開港当初英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)のあったところにシルクセンタービルができ、その階上にあります。
 「絹のあゆみ」ゾーンでは、古代から現代までの日本のそれぞれの時代の特徴ある衣装等が展示され、世界の民俗衣装の多くが絹を使って作られていることを見せてくれます。


横浜マリンタワー
よこはままりんたわー
神奈川県横浜市中区山下町15
Tel 045-664-1100
 山下公園の向かいに立つ高さ106mのタワーです。世界一高い灯台としてギネスブックにも認定されました。現在、灯台の機能は平成20年(2008)9月1日に廃止されています。
 マリンタワーは昭和36年(1961)1月15日、開港100周年を記念して作られた10角形の灯台です。4階にバードピア、3階に機械仕掛けのおもちゃ館などがあります。
 ピーク時には100万人も超えた入場者でしたが、平成17年(2005)には年間27万人にまで減少し、運営会社の「氷川丸マリンタワー株式会社」横浜市に譲渡しました。 
  横浜市は開港150周年にあたる平成21年(2009)、外観のリニューアルや屋内の改装が行われ、5月23日にリニューアルオープンしました。



山下公園
やましたこうえん
神奈川県横浜市中区山下町279
Tel 045-681-1860
 昭和5年(1930)3月に開園した山下公園は、横浜の公園の中で一番知られている公園です。修学旅行生やカップル、家族連れやグループ、休日はもちろん平日であっても多くの人出で賑わっています。
 氷川丸の前のあたりと、「世界の広場」の東側あたりには花壇があって、季節毎の花々が美しく咲いています。
 山下公園は関東大震災の復興事業のひとつとして瓦礫を埋め立てて造成された公園なのです。
 第2次世界大戦後はアメリカ軍によって接収されましたが、昭和29年(1954)から少しずつ返還され、整備、改良を経て、昭和36年(1961)には再整備が完了してほぼ現在の姿となりました。
 昭和63年(1988)に行われた横浜博覧会の際に東側の地下駐車場とその上部の「世界の広場」などが整備されました。
 山下公園西側に残っていた旧臨港鉄道高架跡を利用して、平成14年(2002)春に「山下臨港線プロムナード」が整備されました。これによって山下公園と新港地区とが遊歩道で結ばれ散策がしやすくなりました。

氷川丸
ひかわまる
横浜市中区山下町山下公園地先
 氷川丸は昭和5年(1930)三菱横浜造船所で造られました。総トン数1万2千トン、全長163.3mの豪華客船です。アール・デコ様式のインテリアも取り入れられたこの船は「北太平洋の女王」と呼ばれたそうです。船名は、氷川神社からとったそうです。
 戦前、戦後を通じ北太平洋を238回横断し、延べ2万5千人余の乗客を運んだ氷川丸は、昭和35年(1960)10月、現役生活を引退しました。運航終了後は横浜市山下公園前の横浜港に係留されています。
 氷川丸を運営していた氷川丸マリンタワーは平成18年(2006)運営を終了し、船体を日本郵船に譲渡しました。日本郵船は船体の修繕・内装の修復を行い平成20年(2008)から博物館船として公開を再開しました。

ガールスカウトの像
 山下公園には、アメリカのガールスカウト50周年と、日本の世界連盟正式加入を記念して建てられた「ガールスカウトの像」があります。

かもめの水兵さん
 かもめの水兵さん ならんだ水兵さん
 白い帽子 白いシャツ 白い服
 波にチャップ チャップ うかんでる
 童話作家の武内俊子が詞を書き、河村光陽がこれに曲を付けました。昭和12年(1937)光陽の娘で童謡歌手の河村順子が歌いました。

水の守護神
 昭和35年(1960)姉妹都市であるアメリカのサンディエゴから贈られたモニュメント「水の守護神の像」です。

赤い靴の女の子の像
 野口雨情の詩になる童謡"赤い靴"をはいていた女の子の像です。
 赤い靴 はいてた 女の子
 異人さんに つれられて いっちゃった
 横浜の 埠頭から 船に乗って
 異人さんに つれられて いっちゃった



神奈川県立県民ホール
かながわけんりつけんみんほーる
横浜市中区山下町3-1
 神奈川県立県民ホールは港ヨコハマの中心に位置し山下公園・中華街・元町などに囲まれた好立地にあります。
 約2500名収容の大ホールをはじめ、小ホール・大小会議室を備え全国規模の学術会議や各種大会等に幅広く利用されています。


ヘボン博士邸跡
へぼんはくしていあと
神奈川県横浜市中区山下町245
 ヘボン博士邸跡の記念碑は、横浜人形の家のすぐ隣、地方合同庁舎の前にあります。ヘボン博士が日本語を勉強をしながら作ったのが、日本で最初の和英辞書、そして綴るために作られたのがヘボン式ローマ字だそうです。
 ヘボン博士は開港とともに来日した宣教師の1人です。神奈川成仏寺に3年住んだ後、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転し、聖書の翻訳、和英辞典の編纂、医術の普及などに力を尽くしました。昭和24年(1949)10月に記念碑が邸跡に建てられました。



横浜人形の家
よこはまにんぎょうのいえ
横浜市中区山下町18
 横浜人形の家は「横浜発・世界の人形ふれあいクルーズ」がコンセプト。館長に石坂浩二氏、プロデューサーに北原照久氏を迎え、世界141ヵ国約3500点以上の人形を展示しています。



港の見える丘公園
みなとのみえるおかこうえん
神奈川県横浜市中区山手町114
Tel 045-711-7802
 港の見える丘公園は横浜を代表する公園の一つです。横浜港と横浜ベイ・ブリッジを一望でき、夜景スポットとしても人気があります。園内には大佛次郎記念館、神奈川近代文学館、山手111番館や元英国総領事官公邸だったイギリス館などもあります。
 フランス山やローズガーデンの散策もできます。この公園は終戦直後の昭和23年(1948)にヒットした流行歌「港が見える丘」にちなんで命名され、昭和37年(1962)にオープンしました。
 港の見える丘公園はかつて横浜開港期にイギリスとフランスの軍隊が駐屯した場所としてよく知られています。フランス領事館が置かれていた跡地を「フランス山」区域として公園に加えたそうです。
 明治29年(1896)フランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山には井戸水を汲み上げるための風車が設置されたそうです。
 レンガ造りの井戸はフランス領事館竣工時に上水道がなかったため敷設されたものです。深さは30mあるそうです。

 小高い丘の上は展望台がある広場になっています。平成14年(2002)から平成16年(2004)にかけて段階的に整備が行われ大勢の人が訪れています。
展望広場

 展望台とその南側の一角はこの公園の中心となる部分です。花壇なども整備されていて端正な美しさを持っています。
展望台
 一望のもとに横浜ベイブリッジや横浜港を見下ろすことができます。マリンタワーやみなとみらい21地区のタワーもよく見えます。
展望台



大佛次郎記念館
おさらぎじろうきねんかん
神奈川県横浜市中区山手町113 港の見える丘公園内
Tel 045-622-5002
 横浜出身で横浜をこよなく愛した小説家、大佛次郎を記念して昭和53年(1978)に建てられました。
 建物はフランスの民家風の赤レンガ造りの瀟洒な2階建てです。彼の晩年の書斎を館内に復元しています。
 「鞍馬天狗」「幻橙」「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」などの自筆原稿や愛用品、フランス史文献、政治風刺画などが展示されています。

 大佛次郎記念館から神奈川近代文学館につながる霧笛橋です。明治初期の横浜を舞台にした大佛次郎の小説「霧笛」にあやかっています。
霧笛橋



神奈川近代文学館
かながわきんだいぶんがくかん
神奈川県横浜市中区山手町110 港の見える丘公園内
Tel 045-622-6666
 大佛次郎記念館の裏手にあります。白亜の地下3階、地上2階建ての建物です。神奈川県にゆかりの深い文豪、川端康成や谷崎潤一郎らの遺品を収集、保管しています。

 志賀直哉や北原白秋、夏目漱石、武者小路実篤、三島由紀夫の書、芥川龍之介「蜘蛛の糸」の原稿、中島敦の描いた絵画、国木田独歩の恋文などもあります。



山手111番館
やまて111ばんかん
神奈川県横浜市中区山手町111 港の見える丘公園内
Tel 045-623-2957
 山手111番館は大正15年(1926)に米国人ラフィン氏邸として建てられたスペイン風の洋館です。設計者は東京の丸ビル建設のために大正9年(1920)に来日したアメリカ人建築家のJ・H・モーガンでした。横浜山手聖公会やベーリックホール、根岸競馬場観覧席なども設計しています。
 地階は鉄筋コンクリート、地上2階は木造の寄棟造りで、ホールは開放的な吹き抜けになっています。日本を愛したモーガンは横浜に移り住み、数多くの建物の設計を手がけました。山手111番館は横浜市の文化財に指定されています。



噴水広場
 イギリス館と山手111番館に挟まれた噴水広場には横浜創設水道記念噴水塔の複製が設置されています。
 レトロなバスが運行していました。



イギリス館
いぎりすかん
神奈川県横浜市中区山手町115−3 港の見える丘公園内
Tel 045-623-7812
 イギリス館は横浜市の文化財に指定されている元英国総領事館邸です。昭和12年(1937)に英国人設計家によって建てられたコロニアルスタイルの洋館です。
 昭和45年(1970)からは横浜市の公共施設になりました。イギリス館の建つ場所から道路を挟んで岩崎博物館の建つあたりまで、幕末から明治初期にかけてイギリス軍が駐屯したところだそうです。
 平成14年(2002)からは一般公開も行われるようになりました。2階には英国の歴史などに関する各種資料も展示されています。復元された寝室や各種資料の展示などで昭和初期の英国総領事の生活がわかります。


ローズガーデン
 イギリス館の前の約8千平方mの土地には約80種1800株のバラが植えられています。ローズガーデンに薔薇が咲く5月と11月、薔薇に包まれるようにして建つイギリス館の姿が一番美しいようです。



ゲーテ座跡
 ゲーテ座跡です。本町通りゲーテ座に替わり、明治18年(1885)フランス人建築家サルダによって建てられた山手ゲーテ座の跡地です。日本で初めてシェイクスピア劇を上演したところでもあります。



岩崎ミュージアム
いわさきみゅーじあむ
神奈川県横浜市中区山手町254
Tel 045-623-2111
 昭和55年(1980)岩崎学園がゲーテ座跡地に建物を復元して服飾の博物館にしたそうです。
 古代エジプトから現代までの服飾の変遷が2分の1の縮尺で再現されていたり、ガラス工芸品なども陳列されているようです。



外人墓地
がいじんぼち
神奈川県横浜市中区山手町96
Tel 045-622-1311
 港の見える丘公園の正面にある外国人専用の墓地です。安政4年(1854)アメリカのペリー戦艦ミシシッピ号上で事故死した水兵ロバート・ウィリアムスがここに葬られたのが始まりだそうです。
 始めは日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が設けられましたが、度々変えられて、慶応2年(1866)現在の場所にほぼ現在の墓域まで拡張されたそうです。
 文久2年(1862)9月の生麦事件の犠牲者英国商人チャールズ・リチャードソン、旧国鉄の初代技師長モレル、電話技師メーソン、フェリス女学院創立者キダーら文明開花の功労者などもここに埋葬されています。
 異郷の地・横浜で没した外国人、40カ国余り約4600人が1万8千平方mの敷地に眠っています。



山手十番館
やまてじゅうばんかん
神奈川県横浜市中区山手町247
Tel 045-621-4466
 山手十番館は山手の高台に建つ瀟酒な洋館です。昭和42年(1967)明治100年を記念して建てられました。シンボルであるとんがり屋根の時計台からは赤い靴のメロディが鳴り響き、山手の象徴にもなっています。
 1階はティールーム、2階はレストランになっています。外国人墓地周辺の景観をひときわエキゾチックにしています。この周辺は神奈川の景勝50選に選ばれています。



山手資料館
やまてしりょうかん
神奈川県横浜市中区山手町247
Tel 045-621-4466
 山手資料館は明治42年(1909)に建築された当時のまま保存されている貴重な木造洋館です。横浜の木造洋館の中でここだけが、関東大震災での倒壊、焼失を免れた貴重な建物です。
 この建物は、横浜・戸部の大工によって中澤邸として本牧に建てられ、昭和4年(1929)に横浜・諏訪町の園田邸に移された後、 昭和52年(1977)に現在地に移築され明治から大正時代の横浜を今に伝える資料館となりました。
 開港当時の生活を伝える家具や食器などのコレクションも豊富にあります。エメラルドグリーンの壁、白い出窓のバランスが美しい建物です。



ブリキのおもちゃ博物館
ぶりきのおもちゃはくぶつかん
神奈川県横浜市中区山手町239
Tel 045-621- 8710
 お宝探偵団に出演している収集家・鑑定士である北原照久氏のおもちゃ博物館です。収集したブリキのおもちゃを展示する博物館を作ろうと、古い洋館を改装して昭和61年(1986)にオープンしました。
館内は入口がミュージアムショップ、奥が博物館となっています。コレクションは、1890年代から1960年代に日本で作られたものを中心に、ブリキ製の人形、車、飛行機などぎっしり展示されています。



山手聖公会
やまてせいこうかい
神奈川県横浜市中区山手町234
Tel 045-622-0228
 元町公園の向かいに建つ中世の城のような大谷石造りの教会です。文久2年(1862)に横浜在住の英国人が山下町に設立したクライスト教会が前身で、その後山手に移ったそうです。現在の建物は昭和6年(1931)に建てられたものです。お色直し中でした。



山手234番館
やまて234ばんかん
神奈川県横浜市中区山手町234−1
Tel 045-625-9393
 昭和2年(1927)ごろ建設された外国人向けアパートメントハウスです。典型的な洋風住宅の造りで、震災後に居住した外国人の生活を伝える貴重な建物です。
 4つの同一形式の住戸が中央部の玄関ポーチをはさんで対称的に向かいあい、上下に重なっています。また住戸は洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓やよろい戸などは簡素な仕様になっているのが特徴です。




エリスマン邸
えりすまんてい
神奈川県横浜市中区元町1丁目77−4
Tel 045-211-1101
 元町公園内の山手本通りに面した白い洋館です。スイス人貿易商エリスマンの邸宅です。大正15年(1926)現代建築の父と言われるレーモンドの設計で建てられたそうです。
 平成元年(1989)に元町公園の敷地内に移築復元され、「エリスマン邸」として公開されました。山手本通りに並ぶ洋館のひとつとして観光客を集めています。
 邸内には資料展示室のほか、暖炉のある応接室やサンルームなどが見られます。エリスマン邸の西側には路地を挟んでベーリックホールが建っています。



元町公園
もとまちこうえん
神奈川県横浜市中区元町1-77-4
 外国人墓地の西に隣接し、山手本通り沿いの斜面に広がる公園です。明治初期には、この一帯から湧き出る天然水が外国船の飲料水として売られたため、「水屋敷」と呼ばれていたそうです。



山手カトリック教会
やまてかとりっくきょうかい
神奈川県横浜市中区山手町44
Tel 045-641-0735
 学校群に囲まれる山手の街で、フェリス女学院の向かいに薄緑色の尖塔を持つゴシック建築のカトリック山手教会があります。
 文久2年(1862)フランス人神父ジェラールが居留地88番地に建てた開港後の日本で初めてのキリスト教会堂である横浜天主堂が前身です。
 明治39年(1906)にここ山手44番館に移ったそうです。双塔を持つ煉瓦造りのゴシック風の教会堂は、「とんがりやそ」と日本人の間で呼ばれ、親しまれていたそうです。関東大震災で崩壊しましたが、昭和8年(1932)に再建されたそうです。
 鐘とマリア像はフランスから贈られたものだそうです。横浜市認定歴史的建造物に指定されているそうです。



山手公園
やまてこうえん
神奈川県横浜市中区山手町230
Tel 045-671-3648
 フェリス女学院大学の先にある公園です。女学生の歌う賛美歌の中を通り過ぎるとテニスの球を打つ音が聞こえてきます。
 明治3年(1870)外国人専用遊楽場として造られた日本初の庭園だそうです。
 明治9年(1876)に日本で初めてローンテニスが行なわれ「日本庭球発祥之地」と刻まれた記念碑が建っています。
 明治11年(1878)居留人女性たちが造ったヨコハマ・インターナショナル・テニスクラブがあります。

横浜山手テニス発祥記念館
よこはまやまててにすはっしょうきねんかん
神奈川県横浜市中区山手町230
Tel 045-671-3648
 横浜山手テニス発祥記念館は山手公園内にあり、日本におけるテニスの歴史を展示しています。木造2階建てで1階が展示室、2階が資料作業室になっています。1870年代のテニス用品、テニスウエアなどが並んでいます。
山手テニス発祥記念館



外交官の家
がいこうかんのいえ
神奈川県横浜市中区山手町16
Tel 045-662-8819
 山手イタリア山庭園にあるアメリカン・ヴィクトリアン調の洋館です。ここの庭園は平成2年(1990)一部公開した庭園で敷地面積約1万3千平方mあります。イタリアで多く見られる庭園様式を模し、水や花壇を幾何学的にデザインした公園です。
 明治13年(1880)から明治19年(1886)までイタリア領事館が置かれていたことから、「イタリア山」と呼ばれているこの場所は、みなとみらい21地区や関内周辺の市街地を一望することができます。
 「外交官の家」は、ニューヨーク総領事を務めた明治政府の外交官・内田定槌の私邸だったそうです。明治43年(1910)東京渋谷の南平台に建てられいたものです。 
 平成9年(1997)ここ山手イタリア山庭園に移築復原されました。設計はJ.M.ガーディナーです。アメリカンビクトリア様式の建物は重厚で、内部のステンドグラスは当時の様式を映しています。
 食堂、客間、書斎、寝室など、当時の様子を忠実に再現していいます。国の重要文化財に指定されています。



ブラフ18番館
ぶらふ18ばんかん
神奈川県横浜市中区山手町16
Tel 045-662-6318
 山手イタリア山庭園入口の右側に建つ建物はブラフ18番館とよばれています。大正末期に建てられた外国人住宅で、戦後は山手カトリック教会司祭館として平成3年(1991)まで使われていたそうです。
 平成5年(1993)ここに移築復元されました。木造2階建てにフランス瓦、よろい戸を持つ典型的な外国人住宅です。当時使用されていた横浜家具の復元展示をするなど、実際に当時の暮らしを体験することができます。



三渓園
さんけいえん
神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1
 三渓園は、横浜市の南東部、本牧海岸に沿った山や谷などの美しい自然の起伏をそのまま生かした、広大な純日本式庭園です。
 面積は17万5千平方m(約53,000坪)にも及ぶこの庭園は、生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原富太郎の手によって精魂込めて造られました。
 富太郎の号が三渓だったため三渓園という名前になりました。美術愛好家として知られ、才能ある多くの芸術家の援助、育成に力を注ぎ日本画壇に多大な影響を与えました。
大池と三重塔
 国宝、孔雀明王像(くじゃくみょうおう)の仏画をはじめとする彼の古美術のコレクションは国内有数を誇りました。その上、古建築の逸品を庭園に配する野望を実現させたのです。
蓮池
 園内には10棟の重要文化財を含む17棟の歴史的建築物が、四季折々の自然の景観の中に巧に配置されています。いずれも京都や鎌倉などから集めた寺塔、殿舎、楼閣、茶室などの名のある古建築の逸品ばかりです。
石棺
 原三渓は原善三郎に婿に入った人物で岐阜県柳津町佐波の豪農青木家の長男でした。早稲田の前身の東京専門学校の学生だったころ、跡見花蹊氏に見込まれ、跡見女学校の先生になれといわれて、習字と歴史、漢文を教えていたそうです。
 そこで原善三郎のひとり娘・屋寿子さんと知り合い大恋愛の末、養子に入ったそうです。原善三郎は横浜開港後3ヶ月後、山林等売り払い埼玉より横浜の地に出て生糸に目を付け郷里や生糸産地を駆け巡り生糸を集め、投機商として頭角を現し財政の基盤を確立した人でした。そして原三渓はそれを大きくした人物でした。
大漁地蔵


鶴翔閣
かくしょうかく
 睡蓮池の山手には鶴翔閣(旧原家住宅)があります。原三渓が明治30年代に自邸として建てた住宅です。近年の復旧整備事業により創建当初の姿に戻されました。
鶴翔閣
 鶴翔閣は楽室棟・茶の間棟・書斎棟・客間棟・仏間棟・倉などの建物群で構成されています。延べ床面積950平方メートルにも及ぶ広大な規模の建物です。横浜市の有形文化財に指定されています。
鶴翔閣
 この建物は居住用と来客用の機能をあわせ持ち、横浜市域の近代和風建築を代表しています。三渓と交流のあった横山大観など多くの文化人が度々出入りした場所として知られています。
鶴翔閣


御門
ごもん
 松並木が続く石畳の道を進んでいくと御門と呼ばれる薬医門があります。この門は京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営されたものです。大正初期に三渓園に移築されました。横浜市の有形文化財に指定されています。
御門


白雲邸
はくうんてい
 御門を入っていくと塀の向うに白雲邸があります。この建物は、原三渓が大正9年(1920)、隠居所として建てた数奇屋風建築です。明治以降における近代和風建築を代表するものといわれています。
白雲邸
 建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を兼ね備えた配置や間取りになっているそうです。原三渓は亡くなるまでの約二十年間ここに住んでいたそうです。横浜市の有形文化財に指定されています。
白雲邸


三渓記念館
さんけいきねんかん
 三渓記念館では、三渓園の創設者である原三渓の業績やゆかりの美術品などを紹介しています。また三渓園に関する資料や美術工芸品等も展示しています。
三渓記念館
 「この明媚な自然の風景は創造主のものであって私有物ではない」として、明治39年(1906)から広く一般に公開されるようになったそうです。
三渓記念館
 ロビーでは「三渓園の四季」等のビデオを上映しています。三渓園は現在では財団法人三渓園保勝会の手に移されて復旧工事や保存されているそうです。
三渓記念館


臨春閣
りんしゅんかく
 臨春閣は、紀州徳川家初代の頼宣が、慶安2年(1649)に和歌山の紀ノ川沿いに建てた夏の別荘の一つの厳出御殿といわれています。
臨春閣
 別称桃山御殿ともいわれ豊臣秀吉が築いた聚楽第の別殿で千利休がたずさわったといわれていましたが最近の調査では厳出御殿説が有力なようです。
臨春閣
 徳川8代将軍吉宗は幼時期、この巌出御殿に育ち、享保元年(1716)に将軍になりました。数奇屋風書院造りの別荘建築として、宮家別荘・桂離宮と共に別荘建築の双璧といわれているそうです。
臨春閣
 大正6年(1917)に、三溪園に移築されました。国の重要文化財に指定されています。広い日本庭園の中に建物が3つ連なったような数寄屋橋風書院が構えています。
臨春閣
 外苑は花を楽しむ構成になっていますが、ここ内苑にある臨春閣では古建築と瀟洒な庭が魅力的です。京都・桂離宮とよく対比されるそうです。昭和33年(1958年)の公開まで、原家の私庭だったところです。
臨春閣
 3練の建物のうち第一屋は玄関にあたります。鶴の間、しょう相の間、花鳥の間、台子の間の4部屋あります。
 第二屋は謁見の間です。謁見の控えの間(琴棋書画の間)、謁見下座(浪華の間)、謁見上座(住之江の間)の三部屋があります。右は浪華(なにわ)の間です。狩野永徳が描いています。
臨春閣
 第三屋は家族の部屋になります。2層で上層は矩折寄棟造り、檜皮葺き、下層はこけら葺きです。天楽の間、次の間、三の間、二階の間があります。
臨春閣
 天楽の間です。欄間には本物の雅楽器の、笙,ひちりき、竜笛 大少二本が飾られています。このことから天楽の間と呼ばれているのです。楽器を欄間に飾るとは驚きです。
臨春閣
 次の間です。鎌倉時代、中国から伝えられた禅宗建築には炎の形をした火灯窓が使われました。屋内の壁等にこの形の出入り口を作り火灯口と呼ばれる様になりました。二階に上がる階段口になります。
臨春閣


亭樹
 臨春閣と旧天瑞寺寿塔覆堂の間に架かる橋の中央に「亭樹」があります。檜皮葺きの唐破風の屋根を持った優雅な橋です。パンフレットには亭樹となっていますが元々は「亭しゃ」といわれていたようです。「しゃ」という字は木ヘンに「射」という漢字です。
亭樹


旧天瑞寺寿塔覆堂
きゅうてんずいじじゅとうおおいどう
 天正20年(1592)豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を祈願して京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、天瑞寺に石造の寿塔を建てました。寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。この建物はその寿塔の覆堂です。近年の修理で天正19年の墨書名が発見され、寿塔創建の年代と一致して秀吉の建立したものであることが明らかとなりました。
旧天瑞寺寿塔覆堂
 明治維新の際、天瑞寺は廃寺になり覆堂は洛北の瑞光院、大徳寺黄梅院を経て、明治35年(1902)三渓園に移築されました。なお寿塔は総高9.65尺の石造宝塔で今も大徳寺内、竜翔寺(旧天瑞寺)にあります。 国の重要文化財に指定されています。
旧天瑞寺寿塔覆堂


月華殿
げっかでん
 臨春閣の西側に月華殿があります。この建物は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室にあてたものと伝えられています。この建物も国の重要文化財に指定されています。
月華殿
 元和6年(1620)伏見城取り壊しの時、宇治の茶匠上村三入に与えられ後に上村家が京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院に寄贈し客殿として使われていたものです。大正7年(1918)に三渓園に移築されました。
月華殿


金毛窟
きんもうくつ
 月華殿の奥に続くようにして金毛窟があります。大正7年(1918)原三渓氏によって造られたたった一畳の茶室です。扁額は明治の数寄者、三井の益田鈍翁の書です。
金毛窟
 床柱に京都徳大寺の三門である金毛閣の高欄の手すりをこの茶室の床柱に使っていることからこの名が付いたそうです。
金毛窟


天授院
てんじゅいん
 月華殿の奥、南西に天授院があります。この建物は、鎌倉の建長寺の塔頭である心平寺(しんぺいじ)という廃寺跡にあった地蔵堂といわれています。
天授院
 昭和39年(1964)に解体修理を行い、その際慶安4年(1651)の墨書銘が発見され、健立の年が明らかとなりました。
天授院
 大正5年(1916)に三渓園に移築され、原家ではこれを持仏堂として使っていたそうです。国の重要文化財に指定されています。
天授院


聴秋閣
ちょうしゅうかく
 小さな石橋を渡っていくと聴秋閣があります。臨春閣の西、月華殿の南にあたります。二層の楼閣建築で上層は寄棟造り、下層は入母屋造りです。総こけら葺きです。国の重要文化財に指定されています。
聴秋閣
 この建物はもと三笠閣と呼ばれ、元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛に際し、佐久間将監に命じて、京都二条城内につくらせたものといわれています。
聴秋閣
 その後この建物は乳母である春日局(かすがのつぼね)に賜り、局はそれを夫の稲葉候の江戸邸内に移したそうです。明治14年(1881)牛込若松町の二条公邸に移築され、大正11年(1922)三溪園に移築されました。
聴秋閣

 瓢箪文手水鉢(ひょうたんもんちょうずばち)です。豊臣秀吉が愛用していたと伝えられる手水鉢です。
瓢箪文手水鉢


春草濾
しゅんそうろ
 聴秋閣の南には春草盧という茶室があります。この建物は、もと京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院にあった月華殿に付属して立てられていた茶室です。原三渓が荒廃していた月華殿と共に奈良の骨董商を通じて買い取ったものです。
春草廬
 織田信長の弟・織田有楽斉が建てたものと伝えられ三畳の茶室です。窓が9つあるため九窓亭と呼ばれていたそうです。座敷造りから茶屋造りへ移る過渡期のものとして注目されます。国の重要文化財に指定されています。
春草廬


蓮華院
れんげいん
 竹の中の小径に蓮華院があります。旧天瑞寺寿塔覆堂の南東になります。大正6年(1917)に原三渓が建てた田舎風茶室です。井上馨や小林古径も訪ねたそうです。
蓮華院
 六畳と二畳中板の茶室があります。土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子があります。軸は江戸後期の名僧、仙黒Mの写しで「これ喰ふて茶にまゐれ」と書かれています。大徳寺高桐院の剛山和尚の筆によるものだそうです。
蓮華院


南門
 海岸門とも呼ばれる南門です。長く閉鎖されていましたが平成11年(1999)11月に出入りできるようになりました。
南門


松風閣
 結構急な坂道を登って、鬱蒼とした笹藪をくぐり抜けると、二階が見晴台になっている松風閣があります。それほど景色は良くなく石油コンビナートの煙突と大小タンクの林立でした。
 松風閣から旧燈明寺の三重塔へいく山道の途中に出世観音の石仏が鎮座していました。


旧燈明寺三重塔
きゅうとうみょうじさんじゅうのとう
 三溪園のシンボルのように中央の山上に建つ三重塔は、燈明寺にあったものを、大正3年(1914)3月に移築したものです。燈明寺は聖武天皇の勅願により僧行基によって天平7年(735)に開創されたといわれていますが現在は廃寺となっています。近年まで京都府相楽郡(そうらく)加茂町に所在した日蓮宗の寺院だったそうです。
旧燈明寺三重塔
 燈明寺は貞観5年(863)に清和天皇の勅願寺となり、南北朝の動乱で荒廃後、康正3年(1457)に天台宗の寺院として再興したようです。三重塔もその時に再建されたようです。瓦葺の三重塔で、純粋な和洋からなっていて、禅宗様の影響は全く受けていません。関東地方では最古の塔です。国の重要文化財に指定されています。
旧燈明寺三重塔
 寺号は当初竜王国山観音寺だったそうです。東明寺と改めましたが、寛文元年(1661)に日蓮宗へ改宗した際、東明寺から燈明寺に改めたそうです。鬼瓦は各重、各隅で異なりますが、瓦の先端の紋様は東明寺になっています。
旧燈明寺三重塔
 尾垂木、通肘木、組み物等の部材は太くがっしりとした作りになっています。終戦間近い昭和20年(1945)6月の空爆により至近弾を受け爆風や弾片で損傷を受け昭和29年(1954)に修復されています。
旧燈明寺三重塔
 園内ほぼ中央の小高い山の頂上に切石積の基壇を築きさらに縁を設け建てられています。園内各所から見られ、まさに三渓園のランドマークになっています。
旧燈明寺三重塔


初音茶屋
はつねちゃや
 旧燈明寺三重塔から下ってくると初音茶屋があります。茶屋の真ん中には囲炉裏が有り、昔はここで香煎や白湯を振る舞っていたそうです。現在では観梅会の期間中のみ古釜で沸かした麦茶が出されるようです。
初音茶屋
 インドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らもここを訪れて書きしるされています。芥川は、大正4年(1915)ここでの印象を
  「ひとはかり うく香煎や 白湯の秋」
 と俳句に残しています。
初音茶屋


旧東慶寺仏殿
きゅうとうけいじぶつでん
 東慶寺は弘安8年(1285)北条時宗の妻覚山尼が創建しました。駆込寺あるいは縁切寺として有名だったそうです。明治40年(1907)に東慶寺の仏殿は三渓園に移築されました。国の重要文化財です。
旧東慶寺仏殿
 仏殿の建立年代は明らかではありませんが、寺は永正6年(1509)に火災にかかり焼失しました。仏殿の形式手法は室町時代のものなのでその直後に再建されたものと推定されています。
旧東慶寺仏殿
仏殿の基本的な形式は、中世の中規模禅宗様仏殿と同じですが、組物は簡略化され、また、内部は一面に格天井を張るなど、江戸期の好みも随所に見られます。しかし、全体的に室町期の様式を色濃く残しています。
旧東慶寺仏殿


旧矢箆原家住宅
きゅうやのはらけじゅうたく
 岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にあった合掌造の家です。江戸時代の宝暦年間(1751〜1764)飛騨3長者の一人といわれた庄屋の矢篦原佐助の家として使われていたものだそうです。
旧矢箆原家住宅
 御母衣ダムの建設によって湖底に沈む運命になりましたので、所有者矢箆原家から三渓園に寄贈され、昭和35年(1960)に移築されました。国の重要文化財に指定されています。
旧矢箆原家住宅
 屋根の木組は"さす"と呼ぶ丸太を掌を合わせたように左右から組んでつくるので、合掌造りといわれています。建物は左半分が式台玄関をもつ書院造り、右半分が一般農家の造りです。代官などの賓客を迎える客座敷もあります。部屋との境には櫂に錨、扇面散らしなど、くだけた透彫の欄間彫刻がはめられています。
旧矢箆原家住宅


横笛庵
よこぶえあん
 寒霞橋を渡った所に横笛庵があります。古材を寄せてつくられた田舎風の茶亭です。横笛は高倉天皇中宮、建礼門院に仕えました。平重盛の家臣、滝口入道(斎藤時頼)との悲恋は有名です。
横笛庵
 横笛は寺にこもって入道から送られた千束の恋文をもって己の像をつくりました。その像がこの庵に安置されていたのです。第2次大戦中に被害を受け失われてしまったそうです。高山樗牛の明治中期における浪漫主義文学を代表する小説「滝口入道」も有名です。
横笛庵
 横笛の舞を見たことがきっかけで恋に落ちた斎藤時頼は親にも反対され出家して「滝口入道」になり、京都の滝口寺で修業します。在り処を聞きつけ横笛が訪ねてきます。
 入道は居留守を使い追い返します。横笛が立ち去ろうとする時、血で歌を書いた「歌石」に「山深み思い入りぬる芝の戸のまことの道に我れを導け」と言い残します。横笛も出家し、法華寺の尼になったとも、大堰川に身を投げたともいわれています。
寒霞橋


旧燈明寺本堂
きゅうとうみょうじほんどう
 燈明寺は聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。燈明寺は現在廃寺となっていますが近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院だったそうです。
旧燈明寺本堂
 建武の兵乱で廃絶しましたが、康正年間(1455-1456)、天台僧忍禅が復興し、本堂と三重塔を建立したようです。この本堂は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されています。
旧燈明寺本堂
  明治34年(1901)川合芳太郎が燈明寺を買収しました。そして大正3年(1914)三渓園に移転したのです。堂内の春日厨子は国内最大のものだそうです。国の重要文化財に指定されています。
旧燈明寺本堂


三渓園天満宮
さんけいえんてんまんぐう
 三渓園天満宮はもとは間門天神といわれていました。三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものだそうです。昭和52年(1977)三渓園に移されたそうです。
三渓園天満宮

 大池に架かる観心橋からは涵花亭がみえます。欄干から下を見てみるとたくさんの亀がのんびり泳いでいました。
観心橋
 三重塔が美しく映える大池には船が一隻ぽつんと浮かんでいました。鴨たちが無人の船を操っているようでした。



弘明寺
ぐみょうじ
神奈川県横浜市南区弘明寺町267
Tel 045-711-1231
 弘明寺(ぐみょうじ)は、瑞応山蓮華院と号し、横浜市南区にある市内最古といわれる真言宗の寺です。
 境内から天平瓦が発掘されたり、寛徳元年(1044)に本堂が再建された記録が残っていることから、平安時代またはそれ以前の創建と推定されています。
 本堂には国の重要文化財に指定されている木造十一面像が安置されています。行基の作と伝えられています。地元の人たちに「観音さま」と呼ばれ親しまれています。
 境内には身代(みがわり)地蔵菩薩があります。人々の身体の疾病や心の悩みを救済してくれるそうです。
 寺伝によれば1200余年前の養老5年(721)にインドの善無畏三蔵法師により開設されたと伝えられています。鎌倉時代には源家累代の祈願所とされたそうです。
 七つ石(福石)と呼ばれる石があります。 善無畏三蔵法師は弘明寺に霊域を感じて七つの盤石を埋めたそうです。七つ石、福石といわれ吉事を授けてくれる霊石として信仰されているそうです。
 江戸時代には板東観音三十三カ所の14番札所として信仰を集め年2回の市が立ち、大変賑わったそうです。
 本尊の木造十一面観音立像は関東に残る鉈彫り(なたぼり)の典型的な作例として有名なもので、平安時代(11〜12世紀)の作だと伝えられています。かつては国宝だったそうです。
 弘明寺は広い寺有地を持っていましたが、廃仏毀釈による公有地化で、北の寺有地の大半を横浜市に譲渡しました。現在は「弘明寺公園」として整備されています。



金沢八景
かなざわはっけい
神奈川県横浜市金沢区
 鎌倉時代の金沢は、海上ルートで鎌倉と房総を結ぶ要地でした。金沢の景観は素晴らしく、平安時代の絵師巨勢金岡があまりに景観が良いので感激して筆を捨てたと伝えられています。
 金沢八景の名前の由来は延宝年間に(1673-1681)に水戸徳川家に召されていた明の僧心越禅師が金沢に来た時に能見堂から見る眼下の美しさにうたれ武州能見堂八景の詩を詠んだことに発します。
 「小泉の夜雨」、「内川の暮雪」、「称名の晩鐘」、「野島の夕照」、「洲崎の晴嵐」、「干潟の落雁」、「乙舳の帰帆」、「瀬戸の秋月」の8箇所となっています。安藤広重が錦絵を描いたことで庶民にも知られるようになったようです。


琵琶島神社
びわじまじんじゃ
横浜市金沢区瀬戸


 平潟湾に突き出して境内があります。琵琶に似た小さな島上に琵琶島神社の小さな社が祀られています。
 この神社は、市杵島姫を祀るもので、治承4年(1180)源頼朝が瀬戸神社を開いた際に妻の政子が弁財天を祀ったものとされています。弁財天像は琵琶を持たない立像で、別名で「立身弁財天」とも呼ばれ立身出世の神様として信仰されているそうです。



野島公園
のじまこうえん
神奈川県横浜市金沢区野島町
Tel 045-781-8146  野島青少年研修センター
 野島はかつて独立した孤島であったものが、乙舳(おっとも)海岸の砂州が伸びだして、州崎村と陸続きになったものです。島の約半分の約18万平方m海浜公園化したのが野島公園です。
 海抜55メートルの山頂付近には、縄文時代早期の野島式土器が発見された野島貝塚があります。貝塚からは石器や骨角器も出土していますから、約8000年以上も前から漁民の生活があったことになります。



伊藤博文別荘跡
いとうひろぶみべっそうあと
神奈川県横浜市金沢区野島町
 公園内には明治30年(1897)に建てられた伊藤博文の別荘跡があります。公開されていませんが憲法の最終草案を作成した所なのです。
 明治19年(1886)伊藤博文、金子堅太郎、伊東巳代冶、井上毅の4人は今の金沢区洲崎にあった旅館東屋で憲法審議を始めました。しかし翌年草案の入ったトランクが盗まれてしまいました。
 陸軍の砲台用地で無人島の夏島に別荘を建ててあった伊藤博文は用心のためここに場所を移し極秘裏に草案を練ったのでした。草案はここで完成して明治22年(1889)発布されたのでした。



海の公園
うみのこうえん
神奈川県横浜市金沢区海の公園
Tel 045- 701-3450 海の公園管理センター
 昭和54年(1979)9月に完成した砂浜公園です。乙舳(おつとも)海岸を再整備して拡張した海浜公園で、横浜市で唯一海水浴が楽しめる場所です。金沢八景の「乙舳の帰帆」はこのあたりになります。
 砂浜の長さは約千m、幅は200mで満潮時には60mになるそうです。砂浜の拡張にあたっては、千葉県の浅間山の土砂を用い、採掘した土砂を海底に5年間馴染ませてから活用するといった気の長い作業も行なったそうです。
 春から初夏にかけてアサリやマテガイなどの潮干狩り、夏場は海水浴やウインドサーフィンなどマリンスポーツ、バーベキューも楽しめます。八景島シーパラダイスもよく見えます。



八景島シーパラダイス
はっけいじましーぱらだいす
神奈川県横浜市金沢区八景島
 八景島シーパラダイスは「自然と海と人とのかかわり」をテーマとした施設活用型レクリエーションの拠点として平成5年(1993)5月オープンしました。

 シーパラダイスの中でアクアミュージアムと並んで人気があるのが海をテーマにした14種のスリルランドが楽しめるプレジャーランドです。ブルーフォールも見えます。
 地上107mの高さまでユルユルと登り「ガクンッ」という衝撃で頂上に到着。景色を見るどころでない間に垂直に猛スピードで落下します。

 日本初の海上走行ローラーコースター「サーフコースター」はプレジャーランドの目玉アトラクションです。海に突き出したループを駆け抜け、海へダイビングするような気分が味わえます。

 人気の高い日本最大級の水族館は「アクアミュージアム」です。オープンしたてのイルカの水族館「ドルフィンファンタジー」では結婚式をすることもできるそうです。
 ドーナツ状キャビンの中で椅子に座ったまま90mの高さまで上昇する「シーパラダイスタワー」などもあります。7分半かけて3回転半周りながら上下し、360度のパノラマを見る事ができます。

 東京ドームの約18倍はあるといわれる島全体が、水族館、遊園地、レストラン、ショップ、ホテル、公園などが集まった、一つの大きなアミューズメント施設になってます。



称名寺(金沢文庫)
しょうみょうじ(かなざわぶんこ)
神奈川県横浜市金沢区金沢町212−1
Tel 045-701-9573
 称名寺は北条氏の一族である金沢北条氏の祖、北条実時の創建です。寺全域が国の史跡に指定されています。称名寺の赤門は昭和7年(1932)金沢文庫駅への道路開設にともない7〜8m後退して現位置に建てられたものです。
称名寺赤門
 赤門は徳川幕府から御朱印をもらった証として門を赤く塗ったことから付けられたようです。明和年間(1764〜1772)に再建されています。
称名寺赤門
 境内入口に江戸時代後期に称名寺の五つの塔頭の一位を占めていた光明院の表門があります。横浜市指定有形文化財に指定されています。
光明院表門
 この表門は、小規模な四脚門ですが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠となっています。寛文5年(1665)に建てられています。
光明院表門
 参道をまっすぐに行くと仁王門があります。文政元年(1818)に再建されたもので、間口5間半(10m)奥行3間半(6.3m)の楼門です。
称名寺仁王門
 左右に安置された金剛力士像は、元亨2年(1322)の鎌倉時代に制作された関東最大の仁王像で、国の重要文化財に指定されています。大仏師、院興の作といわれています。
称名寺仁王門
 称名寺境内には阿字ヶ池を中心に朱色の反橋が架かり浄土式庭園が造園されています。配置は平安時代中期以降盛んになった浄土曼荼羅の構図に基づき造られた梵字アをかたどっています。
称名寺庭園
 庭園は金沢貞顕の時代の文保3年(1319)から、翌年の元応2年にかけて造られたそうです。性一法師が作庭したようです。昭和62年(1987)復元されました。
称名寺庭園
 元亨3年(1323)に描かれた重要文化財の「称名寺絵図並結界記」によって、伽藍や庭園の配置などが描かれていたのを再現したのです。
称名寺庭園
 称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には重要文化財で鎌倉時代に造られた木造弥勒菩薩立像が安置されています。
称名寺庭園
 知識人であった北条実時は京都や遠く中国から沢山の書物を取り寄せて学問に励んだようです。これらの大量の書物を所蔵していたのが称名寺におかれた金沢文庫だったのです。その時期は実時が病で没する直前の建治元年(1275)頃といわれています。
北条実時
 文庫には、政治、歴史、文学、仏教など多岐に渡る書籍が収められていたようです。金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられましたが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸したそうです。
新宮跡
 戦国時代は上杉謙信軍の略奪にあいました。江戸時代には徳川家康が江戸城内の紅葉山文庫を造ったため多くの蔵書を持ち出されてしまい荒廃したのでした。
新宮跡
 明治になって伊藤博文は、明治30年(1897)に称名寺の参道東側に金沢文庫を再興しましたが、関東大震災で被災してしまいました。
新宮跡
 境内には中世の隧道(すいどう)が残っています。称名寺と金沢文庫の間に立ち塞がる岩盤をくり抜いたトンネル跡です。鎌倉時代に描かれた「称名寺絵図」にもその存在が記されているそうです。
中世隧道跡
 北条実時によって創建された日本最古の武家文庫は書籍の蒐集を目的とするもので、今のような閲覧を目的とする図書館のようなものではなかったそうです。
 諸堂宇の中心にある現在の金堂は元和元年(1681)に再建されたものだそうです。中に安置されている本尊の弥勒菩薩立像は、建治2年(1276)の銘があり、鎌倉時代のものです。国の重要文化財に指定されています。
称名寺金堂
 称名寺は北条実時が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したといわれています。その後、伽藍が整備され、実時の子、顕時の時には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立されました。
称名寺金堂
 顕時の子、貞顕は伽藍の再造営を行い、元亨三年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させたのです。
称名寺釈迦堂
 金堂に隣接する釈迦堂には、徳治3年(1308)銘の釈迦如来立像が安置されています。これは鎌倉時代のもので国の重要文化財に指定されています。
称名寺釈迦堂
 釈迦堂の前にある鐘楼には、金沢八景の一つ「称名の晩鐘」として知られた梵鐘が吊されています。実時が父母の追善のため鋳造したのですが欠損し、貞顕が物部国光と依光に改鋳させたもので国の重要文化財に指定されています。
称名寺鐘楼
 本堂前に「青葉楓(かえで)」と呼ばれる木があります。室町時代の佐阿弥の作の謡曲「六浦(むつら)」は梅、松、藤などを人格化して草木の精として扱ったところから有名になっています。称名寺を訪れた冷泉為相が全山の紅葉に先駆け、本堂前のこの楓だけが紅葉することに感動して「いかにしてこの一本に時雨けん、山に先だつ庭のもみじ葉」と詠んだそうです。
青葉楓
 楓は非常に光栄に思い「功なり名を遂げて身しりぞくはこれ天の道なり」との古句にならい、その後は紅葉せず常緑樹(ときわぎ)になったということです。
青葉楓
 紅葉することをやめため楓は「青葉楓」と呼ばれるようになったそうです。草木にはみな心があることを語っています。この楓は近世の地誌類にも金沢の名木としてしばしば取り上げられましたが、その後、枯れてしまいました。この木は新植されたものです。
百観音
 金沢山を登っていくと百観音があります。かつて三重塔付近に西国1番を置き、顕時の墓前を通り、金沢山に登り、稲荷山、日向山を経て金堂迄の18町にわたって置かれたものだそうです。
百観音
 八角堂は金沢山の市民の森山頂にあります。北条660年忌を記念して、博文館社主であり金沢文庫の再興に貢献した大橋新太郎氏が百観音とともに寄進したものだそうです。
八角堂
 八角堂には一時期、海中出現観音が祀られてあったそうです。その後心ない者に壊され現在に至っているということです。
 八角堂付近の平らなところは八角堂広場と呼ばれています。ここからの展望は素晴らしく、横浜中心部を鳥瞰できます。左は八景島、野島方面の眺望 です。
 八角堂は小説の中にも現われます。内田康夫の「横浜殺人事件」です。岡松物産社員が金沢八景の一つ、金沢山山頂の八角堂の中で死んでいるのが発見されたというストーリーです。

 金沢は鎌倉の外港として栄えた六津湊(むつらみなと)が開かれ貿易港として賑わった所です。北条泰時3代執権は重要視して、弟の北条実泰を地頭にして直轄地としました。実泰以後、実時、顕時、貞顕、貞将と続きました。これが金沢北条氏なのです。
 金沢山の市民の森山頂から少し下って尾根伝いに稲荷山通りを行くと稲荷山休息所があり、その先に石段があります。
 ここが北条実時廟です。正面には金沢北条一門の墓があります。墓地中央の宝篋印塔が、実時の墓と伝えられています。左手に3基、右手に2基の一門の墓があります。
北条実時の墓
 実時は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時の孫で引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永3年(1275)には越訴奉行をつとめています。鶴岡八幡宮の流鏑馬の時でも本を読んでいたという読書家だったようです。

 昭和14年に植えられた楷樹(かいじゅ)です。「トネリバハゼノキ・ランシンボク」一般には楷の木とよばれています。昔、中国で孔子の墓の傍に植えられていたので孔子木と呼ばれ、日本でも最初は、学問と関係のある所だけに植えられたそうです。孔子信仰と関係のある湯島聖堂、足利学校などに植樹されたそうです。
楷樹



金沢文庫
かなざわぶんこ
神奈川県横浜市金沢区金沢町142
Tel 045-701-9069
 金沢文庫は、北条実時が設立した武家の文庫です。日本初の私設図書館です。明治30年(1897)に伊藤博文らによって再建されましたが関東大震災で失われ、昭和5年(1930)に神奈川県の運営する文化施設として復興したのでした。
 平成2年(1990)に改装され、鎌倉時代を中心とした歴史博物館と、国宝や重要文化財を含む金沢文庫の蔵書を分析・研究する施設が現在は設置されています。国宝の「文選集注」、北条実時以下4代の肖像画、顕時の墓から見つかった青磁壷など約2万点の史料が収集されていて、一部が展示されています。
金沢文庫


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