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丸の内ビルディング
まるのうちびるでぃんぐ
東京都千代田区丸の内2−4−1
 昭和初期、歌にも歌われたように、丸ビルは、都会的なもの、モダンなものの象徴でした。丸の内のオフィスに通勤するホワイトカラーはエリート社会の代名詞でもあり、人々の羨望の的でもありました。
 「丸の内ビルヂング」、この何の変哲もないビルの名称が「丸ビル」と略されたところにも魅力を増大させる要因がありました。関東大震災直前の大正12年(1923)、近代都市・東京のオフィスビルとして誕生した丸ビルは、平成9年(1997)に解体されるまでの長い間、多くの人々に愛されてきました。
 平成14年(2002)「新しい丸ビル」が9月6日新装オープンし、道路をはさんだ向かい側には平成19年(2007)「新しい新丸ビル(新丸の内ビルディング)」もオープンしています。



東京駅から皇居前広場
千代田区丸の内



皇居
こうきょ
東京都千代田区千代田1ー1−1
 現在の皇居は、明治元年(1868)明治天皇が、江戸に行幸し、東の京都として東京と改称したとき、東京城(旧江戸城)が天皇の東幸中の行宮(行在所)と定められ、明治2年(1869)以来用いられています。
 東京城の御座所は明治初期には皇城(こうじょう)と称し、明治21年(1888)に宮城(きゅうじょう)と改称されました。戦後の昭和23年(1948)に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになりました。
 江戸城が築かれたのは長禄元年(1457)のことでした。扇谷上杉持朝の命で同家の執事太田道灌が築城しました。土塁と簡素な居館がある程度の小さな城だったようです。
皇居正門石橋
 道灌が城代をつとめましたが、文明18年(1486)道灌は主家の上杉定正により誘殺されます。永正2年(1505)には上杉朝良が入城し、大永4年(1524)に北条氏綱により陥落するまで扇谷上杉氏の本拠となりました。
 その後は北条氏が遠山氏を江戸城城代としていました。遠山景政の弟川村秀重が守っていましたが、豊臣秀吉の大軍に包囲され開城し北条氏は滅亡しました。
二重橋
 天正18年(1590)徳川家康はそれまで領有していた甲信駿遠三の五ヶ国から北条氏の旧領に移るように秀吉に命じられました。家康は江戸城を居城と定めて入城し、文禄元年(1592)からは拡張工事に着手しました。
 慶長8年(1603)家康は江戸に幕府を開き、江戸城は天下の府城となりました。その後3代家光の代まで普請を続け、寛永13年(1636)一応の完成を見ました。
 家光の代には5層の豪華な大天守がありましたが、明暦3年(1657)の振り袖大火でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失、以降明治に至るまで13回の火災を経験しました。
警視庁
 天守閣は基礎石積は44平方m600坪 高さ60mの金色のシャチを頂く壮大なものだったそうです。八代将軍吉宗によって石垣のみが再建され、建物は再建されませんでした。
 徳川幕府の大政奉還、有名な勝海舟と西郷隆盛の談判による江戸城の無血開城などがあり、東京遷都が実現しました。
桜田門



桜田門
さくらだもん
東京都千代田区霞が関2ー1ー1
Tel 03-3213-0095 皇居外苑管理事務所


 桜田門は寛永13年(1636)に修築され、大正12年(1923)の関東大震災で破損し、その際に鉄網土蔵造りに改修されました。桜田門は他の各門と同様に「桝形城門」という第1の門と第2の門との中間に桝形(4角形)の広場がある形式が採られています。
桜田門
 桜田門の桝形は15間×21間あります。現存している城門の中では最も広い規模を有していて形態が良く保存されています。桜田門は本瓦葺きの高麗門で、昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されています。
桜田門
  もともとこの門は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていましたが、江戸時代の寛永13年(1636)に、日比谷入り江を埋め立てて桜田門として作り直されたようです。
桜田門
 安政7年(1860)3月3日、ここで「桜田門外の変」が起こりました。水戸の尊攘激派の高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介らは脱藩し、薩摩の同志と連絡をとり、彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件です。
桜田門
 井伊直弼は安政の大獄で反対派を弾圧し、水戸に下された勅諚(ちょくじょう)の返納を迫りました。返納をめぐって尊攘派が2派に分裂して対立し、藩論は返納と決まりました。そして、反対派への弾圧が始まると、追い詰められた尊攘激派は脱藩し、薩摩藩尊攘激派の一部とともに、幕政批判と直弼弾劾を目的とする大老井伊直弼の暗殺を決行したのでした。
桜田門
 井伊直弼は彦根藩上屋敷から登城途中の桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃されました。最初はピストルで撃たれ、動けなくなったところを斬首されたそうです。幕府実権者の殺害事件は、幕府勢力弱体化が表面化し、江戸幕府終焉の発端となりました。
桜田門



日比谷公園
ひびやこうえん
東京都千代田区日比谷公園1
Tel 03-3501-6428
 近代日本文化の流れに起こった文明開化のあおりを受け、外国に負けない都市のシンボルとして日比谷公園は造られました。周辺には参謀本部や鹿鳴館、そして帝国ホテルと、豪華な洋風建築物が建ち並んでいました。
 日比谷見附の跡の石垣があります。江戸城外郭城門の一つで、日比谷御門の一部でした。
 園内北東部の心字池は江戸城に連なっていた堀の名残りです。日比谷公園造成の時に禅宗の日本庭園である「心」の字をくずした形で造られました。
 ここが「日比谷」といわれるようになったのは江戸時代です。当時はこのあたりまで海で海苔や牡蠣などを養殖する人々がいたそうです。海苔を育てるため海中に立てる道具を「ひび」と呼んだことから「ひびや」という地名がついたそうです。
 家康の時代、ここは徳川の領地となり、幕末まで松平肥前守等の大名屋敷がありました。明治に入り陸軍練兵場となり、明治22年(1889)の議定から14年に渡る計画・設計・造成を経て、明治36年(1903)、日本初の洋式公園として開園したのです。
 海外要人の歓迎会など、さまざまな国際交流の舞台となる一方、日露講和条約に反対する焼き討ち事件、関東大震災、第二次世界大戦、戦後の学生運動など、まさに激動の表舞台になりました。



日枝神社
ひえじんじゃ
東京都千代田区永田町2丁目10ー5
Tel 03-3581-2471
 日枝神社は武蔵野開拓の祖神・江戸の守護神として山王宮を祀っています。文明10年(1478)太田道灌が江戸に築城するにあたり鎮護の神として勧請しました。
 天正18年(1590)徳川家康が江戸城に居城するにあたり、徳川家の産土神としたことから江戸の市民に親しまれてきました。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)といい、古事記に登場する神話の神です。
 日枝神社の神使は古くより猿といわれていて、夫婦円満・殖産繁栄の神としても参拝者の信仰を受けています。また江戸三大祭りの一つ「山王祭」も有名です。

 日枝神社が所蔵する刀剣は歴代の将軍より奉納されたものです。5代将軍綱吉が奉納した「銘延房の太刀」は国の重要文化財に指定されています。この刀は宝物館に展示されています。
日枝神社の刀剣

 さざれ石がありました。
 石灰石が雨水に溶解して粘着力の強い乳状体となって地下で小石を集積して大きくなっていきます。岐阜県揖斐郡春日村で発掘されたものだそうです。
さざれ石



国会議事堂
こっかいぎじどう
東京都千代田区永田町1−7−1
Tel 03-3581-3111
 国会議事堂は、国会が開催されるところです。現在の国会議事堂は、大正9年(1920)建築開始で、昭和11年(1936)11月7日に完成しました。実に17年目にようやく完成したのです。
 11月29日は議会開設記念日だそうです。明治23年のこの日に日本で初めての議会である「第1帝国議会」が開かれたのです。この時は日比谷の経済産業省のあるあたりの木造の仮議事堂だったそうです。
 向かって左側が衆議院、右側が参議院です。構造は、地上3階、中央部4階、地下1階で、中央部に高さ65.45メートルの塔があります。外壁は花崗岩、内装は大理石の重厚な造りとなっています。
 鉄骨材は八幡製鉄所で作られました。組み立て工事中に関東大震災に襲われました。コンクリート杭を4000本以上打ち込んだ基礎のおかげでほとんど被害を受けなかったそうです。



帝国劇場
ていこくげきじょう
東京都千代田区丸の内3−1−1
Tel 03-3213-7221
 帝国劇場は帝劇の名で親しまれ、数々の名作が上演されてきました。日本初の洋風劇場として明治44年(1911)に建築されました。益田太郎、渋沢栄一、荘田平五郎、福沢桃介、日比翁助、田中常徳などが発起人となり、大倉喜八郎が采配を振って日本ではじめて設立された西洋式演劇劇場です。
 昭和41年(1966)には最新式の設備を持つ地上9階、地下6階のモダンな劇場になりました。収容人数は1897人、客席数1階が1209席、2階が688席でミュージカルや演劇が上演されています。9階には出光美術館があります。



日生劇場
にっせいげきじょう
東京都千代田区有楽町1−1−1
Tel 03-3503-3111
 日生劇場は日比谷公園に臨むように立つ日本生命ビルの中にあります。日本芸術院会員で文化勲章受賞者の建築家村野藤吾が設計しました。座席数は1330席。重厚な外観と幻想的な内装を持つ建物として高い評価を得ている建築物です。
 淡紅色の万成石による重厚な外装、その壁面のバルコニーのようにへこんだオリエント風の窓と黒の紋様の手摺があり、劇場へ至る足元には長谷川路可氏による大理石モザイクが続きます。劇場の一階は素通しガラスで囲まれ、玄関ホール(ピロティ)ではギリシア的な柱、白大理石の床、大きなアルミグリル照明等が目を楽しませてくれます。
 階段の手摺りは細めのステンレススチール、螺旋階段の側壁には木が張られ、繊細な美しさを見せてくれます。各階のホワイエの壁は白い大理石テッセラ貼りで、天井は白の石膏の孔のあいたボードとなっており、赤い絨毯との調和しています。



帝国ホテル
ていこくほてる
東京都千代田区内幸町1−1−1
Tel 03-3539-8237
 明治23年(1890) 帝国ホテルが海外からの賓客をお迎えする「日本の迎賓館」として開業しました。井上馨は隣にあった鹿鳴館と密接な関連を持ったホテルをと渋沢栄一と大倉喜八郎を説得して有限会社帝国ホテル会社を設立・建設させたものです。総建坪は1300余坪でドイツ・ネオ・ルネッサンス式の木骨煉瓦造3層の建物でした。
 大正4年(1915) アメリカの建築家F.L.ライトは帝国ホテル設計のために来日し、大正11年(1922)に帝国ホテルが竣工するまで日本に滞在し、帝国ホテルのあらゆる詳細部、装飾的な手ぎわや、中に入れる家具の一つ一つにまで監理しました。遠藤新をはじめ多くの日本人建築家に大きな影響を与えました。




銀座界隈
ぎんざかいわい
東京都中央区銀座
Tel 03-3562-2111 和光
 中央区銀座には老舗のデパートや専門店が集中しています。銀座和光は、宝飾品や時計、ハンドバッグ、服飾品、ルームアクセサリー、食品などの高級品を取り扱う専門店です。時計塔の建物は銀座4丁目のシンボルとして昔から親しまれています。かつては時計台は10カ所ありましたが関東大震災によって壊れ、和光の時計台のみとなっています。
和光ビル
 慶長8年(1603)、江戸に幕府を 開いた徳川家康は、それまで駿府(静岡)にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移転させました。これが銀座の起こりです。新両替町から銀座という町名に変わったのはは明治2年(1869)です。、明治10年(1877)には国策によってレンガ街が誕生します。このレンガ街を明治政府はビジネス街にしようとしたのです。
 銀座通りに日本初の街路樹が植えられたのは明治7年(1874)でした。銀座は元々、埋立地のため根腐れをおこさない柳が植えられるようになり風に揺れる風情のある緑がやがて銀座のシンボルとなり、歌や詩歌にも登場するほどになりました。
 数多くの百貨店やビルの合間に老舗の洋食店などが佇む銀座です。高級ブランドショップがひしめくとともに、伝統文化が今も息づいています。



歌舞伎座
かぶきざ
中央区銀座4−12−15
 古典芸能の殿堂で明治22年(1889)に劇作家福地源一郎氏らによる演劇改良運動の一環として開場しました。以来、百年以上の永きにわたって歌舞伎を上演し続けています。
 明治44年(1911)11月に純日本式の宮殿風に大改築しました。大正3年(1914)からは松竹合名社(現在の松竹株式会社)が興行の一切を受け持つようになります。
 震災と戦災に見舞われましたが昭和26年(1951)桃山様式の堂々とした現在の建物が完成しました。古典のみならず新作など数多くの名舞台を送り出しています。



築地本願寺
つきじほんがんじ
東京都中央区築地3丁目15ー1
Tel 03-3541-1131
 築地本願寺は京都の西本願寺の東京別院です。正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」といい、元和3年(1617)、西本願寺の別院として、東日本橋に建立されました。
 明暦の大火(振袖火事)で焼失、その後、旧地への再建が許されず、代替地として八丁堀沖の海上に許可がおりたそうです。そこで佃島の人が中心になり本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝7年(1679)に再建、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。
 築地という地名はこの埋め立てからきています。現在の古代インド様式(天竺様式)の伽藍は当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部教授・伊東忠太による設計です。昭和9年(1934)に完成しています。



築地場外市場
つきじじょうがいしじょう
東京都中央区築地4−10−16
Tel 03-3541-9466
 築地市場は魚介類や青果類を扱う東京都の卸売り市場です。場外市場では一般の人も買物ができます。鮮魚や乾物、野菜、肉、鳥、卵など生鮮食料品全般を扱い、東京都や近県の台所となっています。
 有名立ち食いラーメン店や厚揚げ玉子焼きの人気店、焼き海苔の専門店、本場の寿司店など、外国人観光客も押しよせています。
 築地市場の水産物の取扱量は我が国最大級を誇るそうです。青果も都内では第2位の取扱いだそうです。200m四方の広さに、鮮魚店・青果店・飲食店など約330軒がひしめきあい、威勢のよい掛け声が飛び交っています。



東京都庁
とうきょうとちょう
東京都新宿区西新宿2−8−1
Tel 03-5321-1111
 東京都庁は高さ243m、48階建ての超高層ビルです。平日は都民情報ルームで、東京の観光・スポーツなどの情報検索が簡単にでき、防災センターや都議会議事堂を無料で見学することもできます。都庁の駐車場もあります。都内では破格の低料金で身障者は無料です。
 双塔状、ゴシック調の新庁舎は昭和63年(1988)着工され、平成3年(1991)3月9日に落成しました。総工費は1569億円だそうです。日本を代表する建築家丹下健三の代表作のひとつです。
 東京を一望できる地上202mの展望室からは晴れていれば房総半島や富士山も見ることができる絶景スポットです。しかも無料です。
 南西方向には新宿パークタワー、東京オペラシティなどが見えます。北展望台と南展望台と2つの展望台があり、どちらからも、新宿新都心が見渡せます。
 
 年末年始などを除き、どの曜日もどちらかの展望台かが必ず夜の11時まで開いています。南と北のエレベーターは別々になっています。
 都庁は新宿の高層ビルの中でも一番高いビルで、東京都の行政の中心です。東京観光情報センターがあるので、東京観光の資料や情報もここで手に入ります。



明治神宮
めいじじんぐう
東京都渋谷区代々木神園町1−1
Tel 03-3379-5511
 明治神宮は大正9年(1920)11月1日に創建されました。明治天皇とそのお后である昭憲皇太后がお隠れになり、明治神宮の創建となりました。
 ここは肥後熊本藩主加藤忠広(加藤清正の子)の屋敷でした。今でも清正の井戸が残っています。改易にあい彦根藩井伊家の下屋敷となりました。、
 維新後皇室の南豊島御料地になりました。22万坪の境内には全国から献木された12万本の木が育っています。
 天皇はここで
 「うつせみの 代々木の里は しずかにて   都のほかの ここちこそすれ」
 と詠まれたそうです。
 鳥居の先の左手に若木があります。その先には御料地以来の菖蒲田があり6月にはたくさんの人で賑わいます。

清正井
 清正井は加藤清正が掘ったと伝えられている井戸です。この井戸はいまでも泉が湧く、都内有数の名泉です。そのあふれた水が菖蒲田を通って南池に流れ込み、せせらぎとなって南参道の神橋の下を流れます。
清正井



青山墓地
あおやまぼち
東京都港区南青山2丁目32ー2
Tel 03-3401-3652 青山霊園管理所
 青山の地名の由来でもある青山忠成の屋敷地の大部分が、現在では青山墓地となっ ています。明治5年(1872)に社寺などに帰属しない共同墓地第一号として作られました。
 大久保利通、尾崎紅葉、国木田独歩、後藤新平、乃木希典、北里柴三郎、犬養毅、斎藤茂吉、吉田茂、志賀直哉などが眠っています。敷地内には政治家や作家など、著名人の墓も多く、12万人以上が埋葬されています。
 忠犬ハチ公の碑もありました。霊園内には樹齢50年以上という桜もあり、春には桜見がてら散策する人も見られます。



乃木神社
のぎじんじゃ
東京都港区赤坂8丁目11ー27
Tel 03-3478-3001
 明治天皇の崩御に殉じた乃木希典将軍と静子夫人を崇敬する人々によって建てられました。乃木邸敷地内に建立されていて隣接した邸宅には夫妻の遺品などが展示されています。
 乃木希典(のぎまれすけ)は長府藩士で陸軍大将です。学習院長などを務め、祖国愛と忠孝の道義に徹した至誠の人で、大正元年(1912)9月13日明治天皇葬儀の時、夫妻で殉じました。
 「日本とは、日本人とは、我々一人々の精神(こころ)の中にある」という教えとして、人々の心の中に生き続けてきました。乃木夫妻が亡くなると、日本全国各地に乃木希典を祭る神社が建立されました。
 全国には函館乃木神社、室蘭乃木神社、那須乃木神社、滋賀乃木神社、伏見桃山乃木神社、善通寺乃木神社、長府乃木神社などがあります。 
 教育の碑
 いさをある人を をしえの親にして
 おほしたてなむ やまとなでしこ

 明治40年、学習院院長に任命されたときに明治天皇より賜った御製です。
 乃木大将は日露戦争の旅順攻略戦や203高地をめぐる戦いで活躍し、学習院院長として皇孫殿下(昭和天皇)との交流があったことでも知られます。
 乃木坂の駅のすぐそばにある乃木邸の外観は、黒に塗られた木造の日本瓦葺きの洋館です。控えめで簡素な造りです。
 軍人として生き、軍神として祭られる時代の英雄でした。明治を象徴する人物です。この質素な部屋で乃木大将夫妻は自決したのです。



六本木ヒルズ
ろっぽんぎひるず
東京都港区六本木6丁目10ー1
Tel 03-6406-6000


 東京の新名所です。発案より17年、民間主導の再開発事業として国内最大規模を誇る新しい街が平成15年(2003)4月に誕生しました。東京ドームの約8倍、11.6haもの面積の大空間です。ランドマークとなる54階建ての「六本木ヒルズ森タワー」を中心にホテル、映画館や商業施設、美術館、展望台などが集結しています。ここにしかないスペシャリティが集結しています。
 森タワーでは、ブランド街のショッピング・モール、オフィス、上層部は展望台の東京シティビューや文化施設や美術館などで構成され、森アーツセンター、森美術館などがあります。企業テナントではゴールドマン・サックスやFM放送局のJ-WAVEなどが入居しています。
 オープンからわずか1カ月で300万人もの人がここを訪れました。回転式のドアで男児が挟まれて亡くなったことから社会問題にもなりました。
 「六本木ヒルズ森タワー」の52階には展望台があります。ガラス張りの回廊のような室内をぐるりと一周すれば、海抜250mの高さからの東京の素晴らしい眺望を楽しむことができます。



日本橋
にほんばし
東京都中央区日本橋1・日本橋室町1
Tel 03-3546-6525 中央区観光協会


 日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られています。東海道をはじめ、中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道と、徳川幕府が定めた五街道の起点となっていて、ここから日本全国へ街道がのびています。
 日本橋は日本橋1丁目と日本橋室町1丁目の間の、日本橋川に架けられています。徳川家康が幕府をひらいた慶長8年(1603)に初代の橋が架けられたようです。日本橋川は江戸城大手口と隅田川を結ぶ重要な水路として江戸経済の中心となりました。
 橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれています。明暦3年(1657)の明暦の大火により全焼し、明治維新までの間に10回もの火事にあっています。
 明治初期に石造の日本橋が、肥後の石工である橋本勘五郎によって架けられました。明治後期には東京遷都30年を記念して橋の両端に杉細工の「緑門」と呼ばれる鳥居が建てられたそうです。現在の日本橋は東京市により、石造2連アーチの道路橋として明治44年(1911)に完成しました。
 橋長49m、橋幅28m、アーチ径間21mで、平成11年(1999)に国の重要文化財に指定されています。壁石は切石積み。翼壁上に湾曲形の袖壁をめぐらしています。装飾用材は全て青銅で、中央及び橋台部4隅に花形ランプ付方錘柱を建て、各柱座に蹲踞状の麒麟を配しています。ルネッサンス式橋梁本体に和漢洋折衷の装飾が調和しています。米元晋一が設計し、妻木頼黄が装飾を担当し、装飾の制作は渡辺長男です。
 日本橋の文字が刻み込まれたプレートは、徳川15代将軍慶喜の筆によるものです。橋の真中には、「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれています。昭和19年(1944)3月10日の東京大空襲の際の焼夷弾跡が残されています。技術的、意匠的に優れた明治期を代表する石造アーチ道路橋です。



日本銀行本店本館
にほんぎんこうほんてんほんかん
東京都中央区日本橋本石町2−1−1
Tel 03-3277-2815 日本銀行情報サービス局


 日本銀行は日本の中央銀行として、明治15年(1882)に日本銀行条例に基づいて設立されました。その後、日本銀行法が制定されて特殊法人になり、日本唯一の発券銀行、銀行の銀行、政府の銀行としての機能を果たしています。
 日本銀行本店本館は明治29年(1896)に建てられた石造りと煉瓦造りの建物です。地上3階地下1階建で、屋根は鉄板葺きと銅板葺きで、正面に回廊を廻しています。外装は石積で、窓は両開き硝子戸欄間付です。延床面積は1100平方mになります。
 この本店の旧館本館が昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。設計者は明治建築界の巨匠といわれ、東京駅などを手掛けた辰野金吾です。欧米各国の著名な銀行を約14カ月掛けて視察し、ベルギーの中央銀行を手本とし、英国流パラディオ様式を加味してデザインしたといわれています。
 旧館本館は大正12年(1923)にマグニチュード7.9の関東大震災に襲われ、昭和7年(1932)に起きた5・15 事件では手榴弾が投げ込まれました。昭和20年(1945)のB29爆撃機による東京大空襲などでも被災しました。幸い最小限の被害で済み、今もほぼ原型を保っています。
 現在の日本銀行の建物は増改築によって拡張されてきました。旧館本館のほか、長野宇平治の設計で昭和初期に増築された旧館2号、3号館(1号館は新館増築の際に解体されています)、昭和48年(1973)完成の新館、昭和59年(1984)完成の分館(貨幣博物館)の4つの時代の建物があります。



三井本館
みついほんかん
東京都中央区日本橋室町2−1−1
03-5777-8600 三井記念美術館


 三井本館は、越後屋の跡地に建てられた三井不動産保有のオフィスビルです。三井財閥を形成した三井合名会社、三井銀行、三井信託、三井物産、三井鉱山などの本社が入る、財閥の拠点的な機能を持つ建物として作られました。
 現在の建物は、明治35年(1902)竣工の旧三井本館が関東大震災で被災したため、昭和4年(1929)3月に建て替えられたビルです。複数の会社が入居する大規模なオフィスビルとして初めて、平成10年(1998)に国の重要文化財に指定されました。
 鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上5階(現7階)地下2階建、建築面積4559.6平方mです。アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所が設計しジェームズ・スチュワート社が施工しました。新古典主義様式の外観を持つ建物で、イタリア・ヴェネツィア産の大理石などが使用されています。
 現在でも三井不動産の本社、三井住友銀行日本橋支店、中央三井信託銀行日本橋営業部などが入居しているほか、7階には三井家の所蔵品を展示している三井記念美術館が平成17年(2005)に開館しています。隣には三井不動産が同年7月に竣工した超高層ビル「日本橋三井タワー」があります。



日本橋高島屋
にほんばしたかしまや
東京都中央区日本橋2−4−1
Tel 03-3211-4111


 日本橋高島屋は日本を代表する百貨店で、平成19年(2007)の朝日新聞のアンケートで、「好きな百貨店」の第1位に選ばれています。館内は地下2階・地上9階建てで、食料品売場・化粧品・ファッション・スポーツ用品・玩具・装飾品・家電・インテリア・レストランなど、様々なラインナップを取り揃えています。
 日本橋高島屋は昭和8年(1933)に竣工された建物で、平成21年(2009)に百貨店建築で日本で初めての国の重要文化財に指定されました。三井本館と並び称される荘厳な近代建築で、創建時の名称は日本生命館で日本生命東京総局がおかれていました。
 「東洋趣味ヲ基調トスル現代建築」という様式を求めた設計図案競技で1等に当選した、高橋貞太郎の案が採用され、重厚な西欧の歴史様式に、和風建築の意匠が随所に取り入れられています。大正11年(1922)に高島屋が借り受け、高橋の意匠を継承しつつ、近代建築の手法をふんだんに取り入れた百貨店へ、村野藤吾による増築が度々行なわれました。
 中央通りに面したエントランスから続く、1階と2階2層分の大理石の柱が並ぶ吹き抜けが特徴です。シャンデリアは、戦時中の金属類回収令により供出したため、現在のものは村野藤吾がデザインしたものになっていますが、創建時同様に豪華に輝やいています。
 高島屋の創業は天保2年(1831)に初代の飯田新七が、京都烏丸松原で、古着・木綿商を始めたのが最初です。屋号は、養父・儀兵衛が、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)出身であったので付けられたそうです。幕末には官軍に物資を調達し、明治31年(1898)に心斎橋に進出して財をなしました。



明治座
めいじざ
東京都中央区日本橋浜町2−31−1
Tel 03-3666-6666
 明治座は明治6(1873)年に誕生した「喜昇座」から135年以上の歴史と伝統を誇る日本で最も古い劇場です。その後、「久松座」「千歳座」と名称が変わり、明治26年(1893)初代市川左團次によって「明治座」と改称され今日に至っています。
 昔の明治座も近代的だったようですが、今の明治座も近代的な豪奢な建物です。 元々は近くの久松町にありましたが、関東大震災で消滅して今の場所に再建されました。
 戦災で再び焼け落ちましたが戦後復興しました。その後火災で焼失し、再建された後に、今のビルに改装されました。135年もの歴史を歌舞伎、新派、新国劇をはじめとする数多くの名舞台で演出してきました。
 新しい明治座は地上18階、地下2階、1368席の近代的なインテリジェントビルです。隅田川の流れをイメージした豪華なシャンデリア、金箔をちりばめた格天井、金蒔絵をあしらい安土・桃山調に統一された内装は観劇への期待を一層楽しく弾ませてくれます。



有章院霊廟二天門
ゆうしょういん れいびょうにてんもん
東京都港区芝公園3−3−1
 重要文化財の有章院霊廟二天門です。
現在の徳川家の霊廟は増上寺本堂の後ろにまとめられていますが、戦前まではいくつもの塔屋の並ぶ規模の大きな霊廟だったそうです。しかしそのほとんどが戦災で消失してしまいました。
 現在の東京プリンスホテル敷地には戦前6代将軍家宣の文照院霊廟と並んで、7代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の総門です。霊廟は8代将軍吉宗が享保元年(1716)に建立しました。
 この二天門は銅瓦葺き、切妻造りの八脚門で、左右に仏法守護の役目を持つ広目天、多聞天の二天が祀られています。日比谷通りに面して立つ旧台徳院霊廟惣門、旧有章院霊廟二天門などがかろうじて焼け残り、国の重要文化財に指定されています。



増上寺
ぞうじょうじ
東京都港区芝公園4−7−35
Tel 03-3432-1431


 三縁山(さんえんざん)増上寺は明徳4年(1393)に現在の紀尾井町付近に創建された浄土宗の大本山です。徳川将軍家の菩提寺として有名です。慶長3年(1598)の江戸城拡張に伴い現在の所に移転してきました。
 天正18年(1590)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけになったと伝えられています。また増上寺には檀林と呼ばれる学問所(及び養成所)もおかれ、関東18檀林の筆頭となりました。
 元禄14年(1701)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になり、忠臣蔵の仇討のきっかけになりました。
 太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けました。プリンスホテルが進出するにあたって、所沢にできた狭山不動尊に徳川2代将軍秀忠の台徳院霊廟の門だった勅額門や御成門、丁子門などを移築してしまったのは残念です。

 増上寺三解脱門は三つの煩悩を断ち切るという意味の門で増上寺の建立当時から残る貴重な建物です。木造では武蔵野でも最大級の山門で、見上げる者を圧倒する大きさです。この朱塗りの門は国の重要文化財に指定されています。
増上寺三解脱門

 現在の本堂は、以前の本堂が戦災で焼失したので昭和49年(1974)に再建されました。鉄筋コンクリート造りで、地下一階はコンサート等も出来るホールになっています
増上寺大殿

 境内にある水盤舎は3代家光の3男、甲府宰相綱重(清揚院殿)の御霊屋にあったものです。お参りする前にこの浄水で口をすすぎ、手を洗い、心身を清めるためのものです。
水盤舎

 大梵鐘は4代将軍徳川家綱の命により延宝元年(1673)、品川御殿山で椎名伊予守によって鋳造されたものです。高さ3m、重さ15トンの大梵鐘です。江戸の大半に響いたといわれ、川柳にも読まれています。
大梵鐘
 今鳴るは 芝か上野か 浅草か
   江戸七分 ほどは聞える 芝の鐘

 遠く木更津まで響いたといわれ江戸庶民に親しまれ多くの川柳を生んでいます。
大梵鐘



旧台徳院霊廟惣門
きゅうだいとくいんれいびょうそうもん
東京都港区芝公園4−8−2


 台徳院霊廟は増上寺の南側にありました。2代将軍徳川秀忠の廟所で、芝の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、地形の起伏を利用した壮麗な建築群を誇っていました。しかし、昭和20年(1945)の戦災に遭い、罹災を免れたのはわずかに惣門、勅額門、御成門、丁字門のみでした。
 西武グループ創業者、故堤康次郎は、空襲で焼けた増上寺の一部を買い取り、東京プリンスホテルを建てました。その際、増上寺にあった台徳院霊廟の勅額門、御成門、丁子門を所沢のユネスコ村に移築し、狭山不動尊の門になっています。いずれも国の重要文化財に指定されています。
 台徳院霊廟惣門だけは現地に残されて、港区芝公園にある、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地内にあります。三間一戸の八脚門で、入母屋造り、前後裾唐破風付、銅瓦葺きで、寛永9年(1632)に造営されています。昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。
 惣門の仁王像は阿形像が243.5cm、吽形像が247cmです。寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。18世紀前半以前に江戸の仏師によって造られ、戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺の仁王門に安置されていました。安政2年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和23年(1948)に西福寺の三重塔の修理と同時期に修理が行われ、東京浅草寺に移され、その後、この惣門に入ったそうです。
台徳院惣門仁王像



東京タワー
とうきょうたわー
東京都港区芝公園4−2−8
Tel 03-3433-5299


 昭和33年(1958)に開業した高さ333mの電波塔です。地上150mと250mの展望台からは関東一円を見まわせる360度の大パノラマが楽しめます。タワー自体も日没から24時までライトアップされています。
  東京タワーの役割は当時、開局していたNHKや開局予定のテレビ局の電波塔を一本化するためでした。つまり総合電波塔として建設されたのです。現在でも放送電波の受発信機能は日本一で、サ−ビスエリアは約150kmに及ぶそうです。
 世界でも珍しい鑑賞魚専門の水族館や、各国のスターやキャラクターが勢揃いしているろう人形館、トリックアートのギャラリーなどもあります。
 東京タワー入口にある南極観測で働いたカラフト犬の記念像です。東京スカイツリーに抜かされ、現在は日本で2番目に高い建造物になっています。



カレッタ汐留
かれったしおどめ
東京都港区東新橋1丁目8ー2
Tel 03-6218-2100
 カレッタ汐留は汐留の再開発地区汐留シオサイトの中心となる施設です。「スローライフ」をコンセプトにした複合商業施設で平成14年(2002)12月にオープンしました。
 ビルは約210mの高さを誇り、46・47階のスカイレストランからは高さ200mからの絶景を見ることができます。地下にはカレッタモールというショッピングモールがあり個性豊かなショップや本格レストランが並んでいます。
 日本で唯一のマーケティングと広告の専門図書館であるアド・ミュージアム東京や電通四季劇場「海」はカレッタ汐留内にあります。



月島もんじゃタウン
つきしまもんじゃたうん
東京都中央区月島西仲商店街
 月島仲通り商店街にはもんじゃ焼きのお店が60数件もひしめきあっていいます。しかもほとんどのお店に行列ができます。ひと昔前はもんじゃ焼きは子どもたちが集まる駄菓子屋で、おやつ代わりに焼いていたものだったそうです。
 もんじゃ焼きは小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴です。ここでは材料や作り方はほとんど同じなのに、それぞれの店の個性ある味が楽しめます。



有栖川宮記念公園
ありすがわのみやきねんこうえん
東京都港区南麻布5丁目7ー29
Tel 03-3441-9642
 港区を代表する自然公園です。この地は江戸時代旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷でした。この横の坂は「南部坂」と呼ばれています。
 日本の古き良き自然と人工美が見事に調和しています。明治29年(1896)有栖川宮御用地となり大正2年(1913)には高松宮御用地になりました。
 昭和9年(1934)1月5日有栖川宮威仁親王の命日に高松宮殿下がこの用地1万1千坪を当時の東京市に寄贈したものです。
 有栖川宮熾熾仁(たるひと)親王は有栖川宮家9代目の親王で明治維新、西南の役、日清戦争で活躍しました。福岡藩知事、元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長なども歴任されました。 



泉岳寺
せんがくじ
東京都港区高輪2ー11ー1
Tel 03-3441-5560
 東京都港区高輪にある泉岳寺は、慶長17年(1612)外桜田の地に今川義元の菩提のために門庵宗関和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が建立しました。
 「寛永の大火」によって焼失し、現在の高輪の地に移転しました。
 「泉岳寺」は、徳川に因み「源の泉、海岳に溢るる」の意から付けられたそうです。2万坪を有し七堂伽藍を完備していましたが、明治維新の廃仏毀釈により大打撃を受けました。泉岳寺40世円頓霊厳和尚の努力によって再興され、その後、震災で本堂などが消失しましたが戦後再興されました。
 赤穂浪士が葬られた寺として有名です。浪士は当初は47人で吉良邸に討ち入り、寺坂吉右衛門が引き上げの際に暇を出され、切腹したのは46名でした。泉岳寺に埋葬されたのは身内が遺骸を引き取った間新六郎をのぞく45名でした。墓石の出来たのは後のことです。

 赤穂藩主の浅野内匠頭の墓です。元禄14年(1701)3月14日、殿中松の廊下の刃傷で即日田村右京大夫邸で切腹、遺骸は菩提寺であるここ泉岳寺に埋葬されました。
浅野内匠頭の墓

 境内には首洗いの井戸があります。討入りをして本懐を果たした義士一行が、上野介の首級を井戸水で洗い主君の墓前に報告したことから「首洗い井戸」といわれています。
首洗いの井戸

 家老大石内蔵助の墓があります。赤穂浪士の中心人物、城代家老大石内蔵助の墓です。元禄15年(1702)12月14日、吉良邸に討ち入り主君の恨みをはらしました。
大石内蔵助の墓



お台場
おだいば
東京都港区台場2-4-8
 東京の新しい観光スポットとしてすっかり定着したフジテレビのビルです。屋内には、フジテレビ関連グッズショップやレストラン、地上100mから臨海パノラマを楽しめる25階の球体展望室が人気です。


レインボーブリッジ
 芝浦と台場、有明を結ぶ、全長798メートルの美しい大型海上橋「レインボーブリッジ」です。平成5年8月に開通した新名所です。上下2層の吊り橋で2階に首都高速11号線、1階に新交通システム「ゆりかもめ」が走り、橋の左右には遊歩道が設けられていて東京港一帯の巨大パノラマが楽しめます。



池上本門寺
いけがみほんもんじ
東京都大田区池上1丁目1ー1
Tel 03-3752-2331
 本門寺は日蓮宗の大本山で、山号は長栄山、院号は大国院といいます。全国に末寺200寺を持ち、日蓮入滅の地として知られています。
 本門寺の石段は加藤清正の寄進によって造営されたそうです。「法華経」宝塔品の偈文96字にちなんで96段あります。「此経難持坂(しきょうなんじざか)」と呼ばれています。
 日蓮は弘安5年(1282)9月に病を治療するため身延山を下りました。常陸国隠井の湯におもむく途中に池上衛門大夫宗仲の屋敷に立ち寄りました。しかし次第に病が重くなり、10月13日に現在大坊本行寺となっている宗仲邸で入滅したということです。
 日蓮の死後、宗仲が自分の邸(約7万坪)を寄進し、日蓮の直弟子の日朗を中心として寺院の建立が推進されました。日蓮の七回忌の頃に伽藍の整備も進み、本門寺ができあがったようです。
 中世においては関東の有力武士、近世では徳川幕府や加藤清正などの力を得て発展し、寛永の頃に大本山としての役割を持つようになりました。

 本門寺の大堂(だいどう)は「祖師」すなわち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいわれます。旧大堂は、慶長11年(1606)加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立しました。宝永7年(1710)焼失。享保8年(1723)8代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小の上再建されました。昭和20年(1945)4月の空襲により焼失し、昭和39年(1964)再建されました。鉄筋コンクリートで屋根は入母屋造り。高さ27mあります。
本門寺大堂

 本門寺の五重塔は高さ31.8mあります。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで関東の塔では最古の塔です。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、慶長13年(1608)に建立されました。全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になっています。国の重要文化財に指定されています。
本門寺五重塔

 宝塔は、文政11年(1828)日蓮の550遠忌を記念し、犬山城主・成瀬氏らが再建しました。木造建築の軸部は平面円形でやや伏鉢状になっていて、測柱8本を円形に配し、内部には4天柱を立てています。伏鉢部の上に12本の測柱および8本の柱を円形に配して上層を作っています。この宝塔は富山本法寺が所蔵している重要文化財の絹本着色法華曼荼羅図に描かれた多宝仏塔によく似ています。時代的には新しいものですが、宝塔形式の遺構はほとんど類例がないほど珍しいものです。国の重要文化財に指定されています。
本門寺宝塔

 経蔵は天明4年(1748)に再建されたものです。宝形造り、銅板葺き、方五間輪蔵形式の造りで、空襲による焼失をまぬがれた建物の1つです。輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていました。大田区の文化財に指定されています。
本門寺経蔵



池上梅園
いけがみばいえん
東京都大田区池上2丁目2ー13
Tel 03-3753-1658
 池上梅園は池上本門寺の西側に位置し、丘陵斜面を利用した梅園です。北側は戦前まで日本画家伊東深水氏の自宅兼アトリエの月白山荘でしたが戦災で焼失しました。
 戦後料亭経営者小倉氏が南側半分を拡張、別邸として使用していました。 小倉氏が亡くなると、東京都に譲渡され、昭和53年(1978)大田区に移管されました。
 面積は9,880平方m、区花である梅は紅梅220本・白梅150本、その他ボタン、ツツジ等50種500本の樹木があります。
 園内には和室及び茶室があり、 事前の申込みで利用することができます。普段は静かな庭園ですが、 梅の季節には大勢の人が訪れます。



東京湾アクアライン
 東京湾アクアライン「海ほたる」
神奈川県川崎市と千葉県木更津市の間15,1キロメートルを川崎側9,6キロメートルの海底トンネルと木更津側の残りを海上橋で結ぶ有料道路です。


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