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柴又帝釈天(題経寺)
しばまたたいしゃくてん(だいきょうじ)
東京都葛飾区柴又7丁目10ー3
Tel 03-3672-2661
 柴又帝釈天は寛永6年(1629)、日忠上人が開いたといわれる日蓮宗のお寺です。正式な名称は経栄山題経寺といいます。日蓮上人自刻の帝釈天板本尊を祀ることから「柴又帝釈天」と呼ばれています。
 題経寺の中興の祖とされているのが9世の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧でした。板本尊は長年行方不明でしたが、安永8年(1799)本堂再建の際に発見され、この日が庚申の日だったため、以来庚申の日を縁日の日にしたそうです。
 天明3年(1783)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませました。すると不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったそうです。
 映画「男はつらいよ」シリーズで渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として毎回登場したことから全国的に有名になりました。
 境内には、「瑞龍の松」や寅さんが産湯をつかったといわれる御神水、そのかたわらには、浄行菩薩があります。また、回廊式の庭園・邃溪園も人気を集めています。
 駅前から帝釈天まで続く約200m程の参道の、団子屋や土産物屋、煎餅屋などが並ぶ下町の商店街は、大勢の人でにぎわっています。



矢切の渡し
やぎりのわたし
東京都葛飾区柴又7丁目18
Tel 047-363-9357
 柴又公園の目の前に江戸川土手が広がります。ここから、矢切の渡しの乗船場がみえます。江戸幕府はここに関所を作り、江戸の出入りを取り締まっていたため、周辺に住む農民が川を渡る手段としてのみ、この渡しを利用することが出来たそうです。
 矢切の渡しは都内に残る唯一の渡し舟です。江戸川をはさんで葛飾区の柴又と松戸市の下矢切の間を結んでいます。伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、昭和57年(1982)のヒット曲「矢切の渡し」生んだ渡し場です。



亀戸天満宮
かめいどてんまんぐう
東京都江東区亀戸3−6−1
Tel 03-3681-0010
 昔は東宰府天満宮、本所宰府天満宮、亀戸天満宮は「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」として親しまれています。明治6年(1873)に東京府社となり亀戸神社となり昭和11年(1936)からは亀戸天神社としています。
  祭神は菅原道真で、大宰府天満宮で神官をつとめていた菅原信祐が霊夢を見て全国に社殿建立の志を立て諸国を巡り、寛文元年(1661)に江戸へ到着、本所亀戸村にあった小祠に神像をまつったのが起源とされています。
 徳川4代将軍家綱が土地を寄進し、寛文2年(1662)大宰府天満宮に模して社殿・楼門・回廊などが建てられたそうです。
 境内には一本の樹に紅梅と白梅が咲く有名な「五賢の梅」があります。横には5歳の菅公の銅像があります。
 「美しや 紅の色なる 梅の花
   あこが顔にも つけたくぞある」
という歌が書かれています。



錦糸公園
きんしこうえん
墨田区錦糸4-15
 錦糸町駅北口から歩いて1分ほどの桜のきれいな多目的運動公園です。毎月一回フリーマーケットが評判です。



東京スカイツリー
とうきょうすかいつりー
東京都墨田区押上
Tel 03-6658-8012
 東京スカイツリーは東武伊勢崎線・東京地下鉄半蔵門線・京成押上線・都営地下鉄浅草線の押上駅と東武伊勢崎線の業平橋駅の間に挟まれる、東武鉄道の本社隣接地で所有地でもある貨物駅跡地に建設されています。
 完成すれば高さ634mとなり電波塔としては世界一、人工の建造物としてはブルジュ・ハリファの828mに次ぐ世界第2位の高さとなります。平成20年(2008)7月14日に着工し、平成23年(2011)の冬に竣工。平成24年(2012)の春に開業予定です。



旧古河庭園
きゅうふるかわていえん
東京都北区西ケ原1−27−39
Tel 03-3910-8440
 旧古河庭園は銅山王と呼ばれた古河市兵衛の旧宅にあり、国の名勝に指定されています。和風庭園と西洋庭園が同居する和洋折衷の珍しい庭園です。洋風庭園と和風庭園は、それぞれ設計者が異なっているのです。
 洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士です。博士は明治から大正にかけて日本に住み、鹿鳴館や旧帝国博物館など数十件の設計を手がけ、わが国建築界の発展に多大の貢献をしました。
 洋館は英国貴族の邸宅にならった古典様式で、天然スレートぶきレンガ造り、外壁は真鶴産の赤味をおびた小松石(安山岩)でおおわれています。
 一方、和風庭園は、京都の著名な庭師、植治こと小川治兵衛が作りました。この庭園は、明治の元勲、陸奥宗光の邸宅でした。宗光の次男が古河財閥の養子となったため古河家所有になりました。そして第2次大戦後に国のものとなったそうです。



六義園
りくぎえん
東京都文京区本駒込6−16−3
Tel 03-3941-2222
 六義園は元禄15年(1702)五代将軍徳川綱吉のお側用人だった柳沢吉保が7年もの歳月をかけて築園しました。
 六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した、繊細で温和な日本庭園です。小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられています。
 庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の詩の六義、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。
 約2万7千坪の敷地の中にさまざまな景勝を取り込んだ日本式の回遊式山水庭園です。中之島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。
 六義園は大和郡山藩柳沢家の下屋敷として明治維新を迎えました。明治になり三菱創設者の岩崎弥太郎の別邸となり、昭和13年(1938)に東京市に寄付され一般公開されました。昭和28年(1953)に国の特別名勝に指定されました。
 六義園のシダレザクラです。高さ13m、幅17mでエドヒガンという品種から変化したものです。50年以上たっています。枝いっぱいに見事な花を咲かせた薄紅色の滝のような姿は圧巻です。
 六義園は躑躅(つつじ)の花が特に有名です。地元では「駒込と言えばツツジの花の咲く街」と謳われるような象徴的な存在となっています。また庭園入口近くにある枝垂桜も名木として有名です。この枝垂桜の最盛期と紅葉の最盛期にはライトアップされます。



とげぬき地蔵(高岩寺)
とげぬきじぞう(こうがんじ)
東京都豊島区巣鴨3−35−2
Tel 03-3917-8221
 「とげぬき地蔵」は巣鴨にある曹洞宗のお寺です。正式には、萬頂山高岩寺(こうがんじ)といいます。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)です。とげぬき地蔵の通称で親しみを持って呼ばれ、多くの熱心な信者を持っています。
 高岩寺は慶長元年(1596)神田明神下同朋町(現在の外神田二丁目)に建立されました。 明暦3年(1657)明暦の大火で、下谷(現在の岩倉高校のある場所)に移転し明治24年(1891)現在の巣鴨の地に移転したそうです。
 正徳5年(1715)毛利家の御殿女中が、折れた針を誤って飲み込んでしまい、おおいに苦しみました。西順という僧が、霊験あらたなる地蔵尊の御影があると御影一枚を水で飲ませたそうです。
 しばらくすると女中は腹中のものを吐き、その中に御影があったそうです。水で洗ってみると、四分ばかりの針が御影を貫いて出ていたというのです。この評判は江戸市中に広がりました。
 高岩寺の延命地蔵に祈願すればもろもろの病気のトゲが抜けると庶民の信仰を集めたそうです。
 本尊は秘仏の延命地蔵菩薩ですが行列をして祈願しているのは、境内にある石像の観音菩薩像です。
 本堂は昭和32年(1957)に建立された鉄筋コンクリート造りの建物で、設計は東北大学教授の横山秀哉です。平成21年(2009)、国の登録有形文化財に登録されました。



上野恩賜公園
うえのおんしこうえん
東京都台東区上野公園5ー20
Tel 03-3828-5644
 上野恩賜公園は都内だけでなく、日本でも有数の都市公園です。ここは江戸城の丑寅(北東)の方角にあたり鬼門を封じるため家康の意志を汲んだ三代将軍家光が寛永寺を建てたのが始まりです。
 この公園には東京都立恩賜上野動物園、寛永寺・東京国立博物館、東京都美術館、東京文化会館、上野の森美術館、国立西洋美術館、国立科学博物館などの文化・芸術が集合しています。
 江戸時代末期、15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷たちは、慶応4年(1868)大政奉還して上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を募りました。
彰義隊の墓
 そこに新政府への不満武士なども加わり彰義隊と名乗りました。やがて新政府軍と対峙して上野の山を拠点として旧暦5月15日上野戦争が起こりました。戊辰戦争の始まりでした。新政府軍、大村益次郎が指揮を執り半日で彰義隊を壊滅させました。寛永寺の伽藍は焼失し一帯は焼け野原と化しました。
彰義隊
 明治3年(1870)、医学校と病院を建設するため、焼け野原だった上野の山を視察した蘭医ボードウィンは、公園として残すよう日本政府に働きかけました。その結果、明治6年(1873)ここが日本で初めての公園として指定されました。ボードウィンは、上野公園生みの親と称されています。

西郷隆盛の銅像
 上野公園内に西郷隆盛の銅像があります。慶応2年(1866)の薩長連合密約から王政復古クーデターに活躍、明治4年(1871)出仕して参議に就任し廃藩置県にたずさわりました。岩倉遣外使節団出発後、留守政府の責任者となりますが、朝鮮派遣の征韓論争、明治6年(1873)の政変で下野し、西南戦争で敗れ、鹿児島の城山で自決しました。
西郷隆盛の銅像
 銅像は明治31年(1898)に完成しました。高村光雲が西郷像を、後藤貞行が犬の像を制作したそうです。日本で最初の「除幕式」の際、西郷未亡人が夫に似ていないと言ったことが話題になりました。
西郷隆盛の銅像

清水観音堂
東京都台東区上野公園1ー29
 清水観音堂は寛永8年(1631)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄7年(1694)に現在地へ移転した建物です。堂宇は桁行5軒、梁間4間、単層懸造り(かけづくり)、本瓦葺きです。昭和21年(1946)国の重要文化財に指定されています。
清水観音堂
 江戸時代に不忍池に臨む観音堂の舞台造りは浮世絵に競って描かれました。清水観音堂に通ずる坂は「清水坂」といわれています。坂の名はその堂の名前に由来しています。
清水坂

不忍池
しのばずのいけ
 上野恩賜公園の南側に位置する周囲約2kmの池です。東京湾の名残りで、周囲が埋め立てられて現在の形となりました。弁天橋より北側は上野動物園の敷地内で、水上動物園として利用されています。
不忍池
 不忍通りから半円を描くように囲まれた部分はボート池と呼ばれ、貸ボートがあります。弁天橋より南にある浮島には寛永寺弁天堂が建っていて、「蓮池」と呼ばれるほど、池一面にハスが生い茂っています。
不忍池
 天海僧正が吉野山より江戸時代に移植したことで始まった「上野の桜」は3月下旬から4月上旬にかけて上野の山や不忍池畔で咲き乱れます。 

寛永寺弁天堂
東京都台東区上野公園2ー1
 不忍池の弁天島に建つ弁天堂は寛永寺の境外祠堂で寛永年間(1624-1644)に常陸下館城主水谷伊勢守が中島を築き堂を建てて弁財天を祀ったのが始まりといわれます。弁天堂本尊は慈覚大師の作と伝えられます。八臂(はっぴ)の大弁才天です。天海僧正が建立したお堂は戦災で消失し、現在の堂は昭和33年(1958)に再建されましたものです。
不忍池弁天堂
 不忍池弁天堂に鳥塚があります。
 平成16年(2004)4月10日、ここで鳥供養が営まれました。鳥インフルエンザ感染の影響で、京都府などで大量に処分された鶏の霊を慰めました。
弁天堂鳥塚
 不忍池弁天堂には包丁塚もあります。
 不忍池弁天堂は琵琶湖竹生島宝厳寺の大弁才天を勧請しています。水の神様ということで、境内には様々な水にまつわる動物・ものを奉った塚があるのです。
弁天堂包丁塚

大仏山
 かつて大仏が建立されていたこの地は大仏山と呼ばれています。寛永8年(1631)の初代大仏は、正保4年(1647)の地震で倒壊。万治年間(1660頃)に青銅製の2代目大仏が建立され、元禄年間(1690 頃)には大仏殿も完成しました。 今はミャンマー、ビルマ形式の仏塔パゴダが建っています。
大仏山
 上野の大仏は関東大震災でも 被災し頚部が崩れ、頭が落ちてしまいました。顔だけが長く寛永寺に保存されていました。関東大震災50回忌となった昭和47年(1972)に 、お身体のあった所にパゴダが建てられ、顔だけ戻りました。
大仏山

東京都立恩賜上野動物園
東京都台東区上野公園9ー83
Tel 03-3828-5171
 明治15年(1882)に開園された日本初の日本一の動物園です。総面積13万平方mという広大な園内に400種以上2000頭以上の動物を飼育しています。
上野動物園
 パンダのいる動物園として有名です。雄の「リーリー(力力)」と、雌の「シンシン(真真)」は平成23年(2011)4月に公開されました。東園のゴリラとトラのすむ森も人気です。自然のままの状態で、のびのびと過ごしている姿が見られます。
上野動物園
 西園と東園があり、上野駅公園口から入るとすぐが東園です。ここにはゾウ、ゴリラ、パンダ、サル山など、人気のある動物がそろっています。
上野動物園
 西園の方にはアフリカの動物のカバやシマウマ、キリンなどがいます。仲良し広場や子ども動物園などがあります。
上野動物園
 東園から西園に行くにはモノレールが便利です。旧寛永寺の五重塔がきれいに見えます。
上野動物園
 上野動物園は博物館(現東京国立博物館)の付属施設として造られたようですが、今や年間300万人が訪れる人気スポットになっています。
上野動物園

小松宮彰仁親王銅像
 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8王子です。慶応4年(1867)鳥羽伏見の戦いに征東大将軍として参戦しました。日本赤十字社の総裁として貢献しました。
小松宮彰仁親王銅像

竹の台の噴水広場
 大噴水の辺りは昔は「竹の台」と呼ばれ、根本中堂を中心とした数多くの堂塔伽藍が点在していた場所だったそうです。
竹の台の噴水広場



東京国立博物館
とうきょうこくりつはくぶつかん
東京都台東区上野公園13ー9
Tel 03-5777-8600


 明治5年(1872)、湯島聖堂で文部省博物局による最初の博覧会が開催され、これを契機に博物館が創立されました。明治14年(1881)には上野公園内にジョサイア・コンドル設計の博物館が建設され、翌年、付属動物園(現上野動物園)とともにオープンしました。
 明治22年(1889)に帝国博物館と改称し、総長に九鬼隆一、美術部長に岡倉天心が就任しました。明治33年(1900)には東京帝室博物館と改称され、明治42年(1909)には大正天皇のご成婚を記念して表慶館が開館しました。ネオ・バロックの様式で重要文化財に指定されています。
 大正12年(1923)に起きた関東大震災で旧本館は大破し、翌年まで休館になり、その後も表慶館のみで再開されました。昭和12年(1937)、旧東京帝室博物館本館が再建されました。懸賞で募集し、一等になった渡辺仁案を原案として、 宮内省内匠寮が設計したものです。
 昭和22年(1947)には宮内省から文部省に移管され、国立博物館と改称し、昭和27年(1952)には現在の名称である東京国立博物館となりました。現在は本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館がメインになっています。
 東京国立博物館には11万件以上収蔵品があり、国宝91件、重要文化財600件以上という日本を代表するものが数多く含まれています。 日本と東洋の美術・工芸品などを中心に展示しています。収蔵品の数は日本最大規模を誇っています。

 東京国立博物館の本館は旧東京帝室博物館本館として平成13年(2001)に国の重要文化財に指定されています。昭和12年(1937)に完成し、現在も現役で博物館の顔になっています。
東京国立博物館本館
 鉄骨鉄筋コンクリート造り、2階建、地下2階、正面玄関ポーチ付、本瓦葺きで建築面積は6601.8平方mと大きな建物です。中庭を2つ設けた日の字型平面で、正面中央前方に車寄を張り出しています。和風を基調としていて、意匠の完成度が高く、昭和初期の日本近代建築の完成された形で高い価値があります。
東京国立博物館本館
 東京国立博物館の表慶館は明治42年(1909)、東宮皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚を祝う目的で開館しました。設計は宮廷建築家の片山東熊(とうくま)です。昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されています。
東京国立博物館表慶館
 石造り及び煉瓦造り、2階建、銅板葺きで、建築面積は2049.4平方mです。ネオ・バロック様式の建物で、中央と南北両端にドームがあり、中央のドームは吹き抜け、南北のドームの下は階段室になっています。中央ホールのモザイクタイルを張った床は見応えがあります。
東京国立博物館表慶館
 東京国立博物館の東洋館には、中国、朝鮮、東南アジア、西域、インド、西アジア、エジプトなどの美術、工芸、考古遺物を展示しています。明治洋風建築を代表する表慶館(重要文化財)や旧因州池田屋敷表門(重要文化財)のほか、本館北側には日本庭園もあります。
東京国立博物館東洋館
 平成11年(1999)「平成館」がオープンしました。建物は地下1階地上3階建て。1階は日本の考古遺物などの常設展示室になっており、2階は特別展示専用となっています。
東京国立博物館平成館



旧因州池田屋敷表門
きゅういんしゅういけだやしきおもてもん
東京都台東区上野公園13−9 東京国立博物館構内
Tel 03-5777-8600 東京国立博物館


 旧因州池田屋敷表門は大名小路(現在の丸の内3丁目)にあった因州(鳥取県)32万石池田藩の江戸屋敷表門です。明治24年(1891)に芝高輪台の東宮御所の正門として移建され、高松宮家に引き継がれました。昭和29年(1954)に現在の国立博物館正門の西に移されました。
 創建の年代は明らかではありませんが、江戸末期の建築と推定されています。入母屋造り、総本瓦葺き、1重の長屋門で、左右に唐破風造りの番所を備えています。両出番所は10万石以上の大名にだけ許される格式のある構えで、大名屋敷門の堂々とした姿を見せています。
 東京大学にある赤門に対してこちらは黒門とも呼ばれています。東京国立博物館の屋外展示のひとつとなっていて、昭和26年(1951)に国の重要文化財に指定されています。


旧十輪院宝蔵
きゅうじゅうりんいんほうぞう
東京都台東区上野公園13−9 東京国立博物館構内
Tel 03-5777-8600 東京国立博物館


 旧十輪院宝蔵は東京国立博物館、法隆寺宝物館前にあります。奈良・十輪院の宝蔵であったものです。桁行1間、梁間1間、校倉(あぜくら)、宝形造り、本瓦葺きの小さな宝蔵ですが、昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。
 旧十輪院宝蔵は奈良・元興寺の別院、十輪院から明治15年(1882)にここに移築されました。鎌倉時代の前期に造られた宝蔵で、一間四方の小さな校倉に、大般若経が納められていた経蔵でした。
 十輪院の開基とされる朝野魚養の筆になる大般若経六百巻(天平時代)が納められていたそうです。大般若経は明治の廃仏毀釈のとき奈良・薬師寺の所有となり、その後、奈良国立博物館、藤田美術館などにも分蔵されました。「魚養経」といわれ、一部は国宝に指定されています。



旧東京音楽学校奏楽堂
きゅうとうきょうおんがくがっこうそうがくどう
東京都台東区上野公園8ー43
Tel 03-3824-1988


 旧東京音楽学校奏楽堂は上野公園の一角、東京藝術大学前にあります。明治23年(1890)に建てられた日本最古の木造の洋式音楽ホールで、昭和63年(1988)に国の重要文化財に指定されました。
 東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だった奏楽堂は、木造総二階建、玄関ポーチ付、桟瓦葺きで、建築面積は785.4平方mで、中央家と翼家からなっていました。奏楽堂とは、本館中央家2階にあるオーディトリウム(演奏会場)のことを指していました。
 現在の奏楽堂は建物そのものの名称となっています。昭和47年(1972)、老朽化のため大学構内から愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されることになりましたが、日本建築学会、音楽家グループ、市民らの反対により撤回され、昭和58年(1983)に台東区に譲渡されました。
 昭和59年(1984)に解体され、翼家の部分の一部を省略して芸術大学敷地内から昭和62年(1987)にこの地に移築されました。中にはパイプオルガンのある音楽ホールと資料室があり、今でも演奏会が開催されています。



国立国会図書館支部上野図書館
国際子ども図書館

東京都台東区上野公園12ー49
Tel 03-3827-2053
 国立国会図書館支部上野図書館は明治5年(1872)湯島の聖堂内に開館した書籍館の伝統を受け継いでいます。明治30年に旧帝国図書館となりました。この建物は明治39年(1906)に建築されました。ほぼ創建時のままでネオ・ルネッサンス調の風格ある建物で明治を現代に残しています。
国立国会図書館支部
 旧帝国図書館は、東京都選定歴史的建造物に指定されています。
 昭和36年(1961)、永田町の国会議事堂隣接地に国立国会図書館の中央館(東京本館)が新築開館されると、上野図書館の蔵書のほとんど全てが中央館へと移され、国立国会図書館の東京本館へと統合され、国際子ども図書館に移行しています。
国立国会図書館支部
 国際子ども図書館は平成14年(2002)5月5日にオープンしました。国内外の児童書を収集公開しています。国際子ども図書館には東京本館から18歳未満を主たる読者の対象とする資料が移管され、上野図書館で旧来所蔵してきたコレクションは東京本館に戻されています。
国際子ども図書館

黒田記念館
 正式には「東京国立文化財研究所美術研究室」といい、洋画家「黒田清輝」の意志により建てられたので、通称「黒田記念館」と呼ばれています。黒田清輝の油彩画、素描などを公開しています。昭和3年(1928)に建てられた建物です。
黒田記念館



国立科学博物館上野本館
こくりつかがくはくぶつかんうえのほんかん
東京都台東区上野公園7−20
Tel 03-3822-0111


 国立科学博物館上野本館(現日本館)は旧東京博物館上野新館だった建物で、平成20年(2008)に国の重要文化財に指定されました。国立科学博物館は上野恩賜公園の中にあり、自然史・理工学・科学技術などに関する資料の収集・展示や研究などを行っています。
 前身は明治10年(1877)に設立された文部省の教育博物館でした。大正10年(1921)に東京博物館と改称し、大正12年(1923)の関東大震災で施設と資料のすべてを焼失してしまいました。現在の本館(現日本館)は昭和6年(1931)に上野新館として竣工されたものです。
 その翌年には東京科学博物館と改称され、東京市の施設となりました。昭和20年(1945)には建物が軍に徴用され、終戦まで高射第1師団の司令部となっていました。昭和24年(1949)に国に移管され、現在の国立科学博物館となりました。
 太陽系と宇宙、生命の誕生から人類への進化、動植物の多様な世界など、自然科学に関する様々な展示を行っています。新館ではテーマを映像や照明を駆使して展示しています。
国立科学博物館
 1階は生命を誕生させた海がテーマ。2階は身近な科学。遊び道具のような実験道具で、楽しみながら科学に親しめます。3階の発見の森は雑木林のジオラマを散歩しながら自然の不思議を見つけだす体験型の展示です。地下1階は大型恐竜の迫力の骨格見本です。
国立科学博物館

 国立科学博物館の日本館と呼ばれる本館は鉄筋コンクリート造り、一部鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上3階地下1階建、正面中央塔屋及び屋上に赤道儀室があり、正面に車寄せがあります。建築面積は1949.46平方mの建物です。平成20年(2008)に国の重要文化財に指定されました。
国立科学博物館日本館



国立西洋美術館
東京都台東区上野公園7ー7
Tel 03-3828-5131
 フランスの建築家ル・コルビュジエ氏の設計による白いモダンな建物が国立西洋美術館です。美術館前の庭には、「考える人」や「地獄の門」などロダン作の58の彫刻やフランスの近代彫刻の数々が所蔵されています。
国立西洋美術館
 本館はキリスト教を主題とする宗教画がメインです。新館はモネ、ルノワール、ゴッホ、ピカソなど有名な画家の作品をはじめとする19世紀から20世紀初頭の西洋絵画を収蔵、展示しています。
国立西洋美術館




寛永寺
かんえいじ)
東京都台東区上野桜木1−14−11
Tel 03-3821-4440
 寛永寺の旧本坊表門は慶応4年(1868)5月の上野戦争の兵火を唯一免れた建物です。寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館の地に建立されていました。現在はその表門だけが往時の姿を留めています。門には官軍の攻撃による弾痕が数多く残っています。国の重要文化財に指定されています。
 江戸時代、現在の上野公園に寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていました。現在の噴水池周辺に、本尊薬師如来を泰安する根本中堂があり、その後方に本坊があり「東叡山の山主である」輪王子宮法親王が居住していたそうです。
 開山堂は開山した天海僧正(慈眼大師)と2代目慈恵大師を祀っています。天海僧正は天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営し、幕府の天台宗制覇を実現する意図があったようです。
 寛永寺全体の表門というべき黒門は荒川区南千住の円通寺に移築され現存しています。現在、上野公園にあるのは、丸の内にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門が移築されたものです。

殉死者の墓
上野公園内 現竜院墓地内
 慶安4年(1651)4月20日、徳川3代将軍家光が他界しました。後を追って老中堀田正盛、阿部重次らが殉死しました。4代将軍家綱の時代寛文3年(1663)幕府は武家諸法度を改正し殉死を禁止しました。




常憲院霊廟勅額門
じょうけんいんれいびょうちょくがくもん
東京都台東区上野桜木1ー14ー11
Tel 03-3821-4440 寛永寺


 常憲院霊廟勅額門は徳川5代将軍綱吉の霊廟の勅額門で、上野の寛永寺にあります。宝永6年(1709)に建立されたもので、水盤舎とともに、昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。
 勅使門は、切妻造り、前後軒唐破風付、銅瓦葺きの四脚門です。歴代将軍の霊廟の中でも、もっとも整ったものの一つです。この奥に徳川家定と天璋院も葬られています。
 徳川将軍家霊廟は、8代吉宗公以降は倹約のためもあり、大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された程度でした。
 初代家康は日光東照宮、2代秀忠は台徳院霊廟(増上寺)、3代家光は大猷院霊廟(日光・輪王寺)、4代家綱は厳有院霊廟(寛永寺)、6代家宣は文昭院霊廟(増上寺)、7代家継は有章院霊廟(増上寺)にあります。



上野アメ横
うえのあめよこ
東京都台東区上野4−6
Tel 03-3832-5053
 アメ横はアメヤ横丁の通称です。JR東日本の御徒町駅から上野駅間の山手線の高架橋西側と高架下に沿った商店街です。およそ400mの中に400軒以上の店がひしめき合っています。
 名前の由来は諸説あるようです。アメリカ軍の払い下げ物資を安く売りさばく店が多く集まったという説、小遣い稼ぎに物資を持ち込んだアメリカ兵により同国の製品が大量に出回ったという説、飴を販売する店が軒を連ねたという説などです。
 魚介類や乾物、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中しています。特に年末には威勢のいい呼び込みのダミ声の中、正月用の生鮮食品などを買い求める人たちでごった返します。



浅草寺
せんそうじ
東京都台東区浅草2−3−1
Tel 03-3842-0181
 金龍山浅草寺は昔から「浅草の観音さま」として親しまれ、老若男女、外国人観光客が入り交じり、お参りの人々で賑わいをみせています。都内では最古の寺院として知られています。坂東33カ所観音霊場の第13礼札所としても知られています。
 雷門からの境内には宝蔵門、本堂のほかに本坊の伝法院、五重塔、二天門(国重文)、淡島堂、滝廉太郎作曲の「鳩ポッポ」歌碑等があり、訪れる人々を楽しませてくれます。
  浅草といえば浅草寺。参道の入り口にある雷門は浅草の代名詞であり、下町のシンボル雷門から宝蔵門までの浅草寺への参道は、一般には仲見世通りとして多くの人々に親しまれています。
 約300mの道沿いには江戸時代から商いを続ける老舗を含め、雷おこし、人形焼、江戸玩具、べっこう細工等90余の店が軒を連ねています。
 大化元年(645)僧勝海が現在地に堂を建て、天慶5年(942)安房国守、平公雅により再建されました。下総から鎌倉に向かう源頼朝が参詣し寺領を寄進しています。戦国時代には北条氏綱によって再建されています。
 天正18年(1590)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を与えました。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631)、同19年(1642)に焼失、3代将軍徳川家光により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建されました。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めました。
 年間約3千万人の人々が訪れる浅草寺は、ほおずき市など風情のあるイベントが多い所です。3月と10月の18日にある金龍の舞、毎年12月17−19日の羽子板市などで賑わいます。

 二天門は本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建っています。元和4年(1618)の建築で、第2次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物です。切妻造り、本瓦葺きの木造朱塗りの八脚門で、増長天・持国天を祀っています。「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美の筆です。国の重要文化財に指定されています。
二天門

 伝法院は浅草寺の院号で住職の居住する本坊の称号に用いられています。客殿、玄関、使者の間、大台所などは安永6年(1777)の建造物です。
伝法院
 玄関上の瓦には菊のご紋章があります。上野の宮様(公遵法親王)が浅草御殿とされて約3年間にわたり宿坊とされたことから使われています。
伝法院



旧岩崎家住宅
きゅういわさきけじゅうたく
東京都台東区池之端1ー3ー45
Tel 03-3823-8340


 旧岩崎家住宅は旧岩崎邸庭園として都立庭園の中にあります。三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したものです。園内にある洋館・撞球室・和館大広間・袖塀など屋敷全体が国の重要文化財に指定されています。
 旧岩崎邸の敷地は、現在の旧岩崎邸庭園よりもかなり広く湯島合同庁舎、湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでいました。江戸時代には越後高田藩榊原家の中屋敷でした。明治時代初期、旧舞鶴藩主・牧野弼成の屋敷だったものを明治11年(1878)に岩崎弥太郎が買い取ったものです。
 現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代・岩崎久弥によって明治29年(1896)に建てられました。大正12年(1923)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放されたそうです。
 洋館は、鹿鳴館やニコライ堂などを代表作にもつ英国人のジョサイア・コンドル博士が設計を手がけました。日本で初めて設計事務所を開いた人で、門下生には東京駅を設計した辰野金吾などがいます。完成当初は1万5千坪の敷地に20棟以上の建物があったそうです。
 木造2階建・地下室付きの建物で、17世紀に英国で流行したジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラムのモチーフ、米国・ペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージなどを採り入れています。岩崎家の集まりや大切なお客様を招いて行うパーティーなどに使われたそうです。
 洋館と結合されるかたちで「和館」が建っています。岩崎家の人々の居住スペースとして使用されていました。明治時代に数多くの住宅を手がけた、大河喜十郎が施工を手がけたと伝えられています。完成当時は建坪550坪で洋館よりも大きな建物でしが、現在は一部しか残されていません。
 昭和20年(1945)終戦の際、GHQにより接収され、昭和22年(1947)財産税として物納、国有財産化されました。昭和36年(1961)洋館・撞球室が国の重要文化財に指定され、和館大広間・袖塀が追加指定、平成11年(1999)屋敷全体と実測図が追加指定されました。平成13年(2001)東京都に移管され、都立旧岩崎邸庭園として公開されました。



護国寺
ごこくじ
東京都文京区大塚5−40−1
Tel 03-3941-0764


 神齢山護国寺は真言宗豊山派大本山です。天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招lいて創建した祈願寺です。桂昌院念持仏の如意輪観世音菩薩像を本尊としています。
 元禄7年(1694)、綱吉と桂昌院ともども護国寺に参詣し、寺領は300石から加増され600石となりました。その翌年、将軍の信頼が厚い快意僧正が第3世になり、元禄10年(1697)には現在の本堂である観音堂が造営されました。
 観音堂は元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは江戸隋一といわれました。以来、護国寺界隈は護国寺の隆盛と共に賑わい、寺領も1200石と加増され、境内には多くの建造物が甍を併べた大殿宇となりました。
 常陸筑波山の別院知足院の隆光僧正は綱吉から信頼を得て、神田橋外に巨刹を興し護持院と改称し、将軍家祈願の任に当っていました。寺領1500石で、新義真言宗で最も格式の高いお寺でした。享保2年(1717)、護持院は火災に遭い、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も堂塔一宇残らず焼失したのでした。
 その後、幕命により護持院を護国寺に合伴し、観音堂の方を護国寺に、本彷の方を護持院とし、護持院の住職が護国寺住職を兼ねることとなりました。以後、両寺領併せて2700石の寺領となり、幕府祈願の任を勤め、江戸時代の名所として人々に親しまれてきました。
 明治時代初頭に出された神仏分離令により、護持院は廃寺となりましたが、護国寺は残りました。明治16年(1883)、大正15年(1926)に火災があり、堂宇の多くを失いましたが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝え、国の重要文化財に指定されています。

 護国寺の本堂は元禄10年(1697)に建てられた大きな建物です。桁行7間、梁間7間、1重、入母屋造り、向拝3間、瓦棒銅板葺きです。元の本堂は、大正の大火で焼失したため、同時期に建てられた観音堂を移築して本堂としたそうです。大きな流れ向拝を付した大建造物で、元禄文化の様相を伝える貴重な建物で、昭和6年(1931)に国の重要文化財に指定されています。
護国寺本堂
 護国寺の月光殿は本堂に向って左側にあります。書院造りの建物は大津市の三井寺塔頭の日光院客殿でした。桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を施しています。昭和3年(1928)、品川御殿山を経て護国寺に移築されました。桁行7間、梁間6間、1重、入母屋造り、妻入、正面軒唐破風付、桟瓦葺きです。昭和6年(1931)に国の重要文化財に指定されています。
護国寺月光殿
 丹塗りの仁王門には「神齢山」と書かれた扁額が掲げられています。桁行11.5m、梁間6m、切妻造りの重厚な八脚門です。表側両脇間に金剛力士像が、背画両脇間には増長天、広目天が安置されています。建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂(現本堂)よりやや時代が下ると考えられています。
護国寺仁王門
 護国寺の石段手前には手水舎が建っています。手水舎に置かれた「唐銅蓮葉形手洗水盤」は桂昌院の寄進したものです。元禄10年(1697)頃の鋳造で、江戸鋳物師椎名伊豫良寛が造りました。江戸名所図絵にも描かれていたそうです。
護国寺手水舎
 護国寺の石段の途中には中門があります。京都の鞍馬山の山門を模して昭和13年(1938)、三尾邦三の寄進により建立されたそうです。梁に掲げられた額には「不老」の文字が書かれています。徳川家達の手によるもので、そのためこの中門は、「不老門」と呼ばれています。
護国寺不老門
 護国寺多宝塔は石段を上がった左側に建てられています。滋賀県にある石山寺の多宝塔を模し、昭和13年(1938)に建立されたものです。二重の宝塔で、初重は三間四方、上層部の軸部が円柱形になっています。
護国寺多宝塔
 護国寺薬師堂は月光殿の右奥、本堂の左手に建てられています。元禄4年(1691)に建立した一切経堂であったものを移築して薬師堂としたそうです。三間四面の棧瓦葺き、宝形造りで屋根に青銅製の宝珠を載せています。本尊の薬師如来は草創期に蟹ケ池より出現した霊像で、薬師如来像の胎内に収められているそうです。
護国寺薬師堂
 護国寺鐘楼は本堂に向って右側に建てられています。桁行3.5m、梁間3.2mで、現在では珍しい形式とされる袴腰付重層入母屋造りです。江戸時代中期に建立されたものといわれ、「江戸名所図会」にも描かれていたそうです。鐘楼には、天和2年(1682)銘の梵鐘が掛かっています。
護国寺鐘楼
 護国寺の大師堂は鐘楼から一段下がった左側に建てられています。元禄14年(1701)建立の薬師堂を、大正15年(1926)に大修理して移建したのが今の大師堂です。棧瓦葺きの寄棟造りに流れ向拝を付した、シンプルな建物です。中には、弘法大師、興教大師、本覚大師が安置されています。
護国寺大師堂



東京ドーム
とうきょうどーむ
東京都文京区後楽1−3−61
Tel 03-3811-2111
 東京ドームは昭和63年(1988)3月竣工されました。面積は115200平方mで日本で初めて造られた全天候型多目的ドーム施設です。内外の圧力差によって自立する、空気膜構造になっています。
 読売ジャイアンツのホームグラウンドですが、コンサートや様々なイベント会場として親しまれています。ドームシティは地上43階建ての超高層ホテル東京ドームホテル、天然温泉施設LaQua、東京ドームアトラクションズなどアミューズメントスポットして人気があります。



小石川後楽園
こいしかわこうらくえん
東京都文京区後楽1−6−6
Tel 03-3811-3015
 徳川御三家のひとつ、水戸藩初代藩主徳川頼房が江戸上屋敷の庭園として造園を指示、2代目藩主光圀(水戸黄門)が完成した江戸初期の代表作的庭園です。
 光圀は造成に当たって、明から亡命した朱舜水の意見を広く取り入れて造園を行い、豪壮にして繊細な趣のある大名庭園を完成させました。
 中国の名所、西湖の堤を模した切石積の石堤、西湖堤や中国伝来の様式である円月橋が有名です。庭の様式は池泉回遊式で、海、河、山、野の4つの風景が楽しめるようになっています。
  後楽園の由来は、宋の范文正の「岳陽楼記」の中の一節にある「士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から取ったそうです。一般の憂いを先取りし、庶民を楽しませ、自らはその後に楽しむという意味を込めたようです。
 岡山にある後楽園の由来は、庭園の場所が岡山城本丸の北の対岸で、城が背後にあるため「御後園」と呼ばれたのが変化したものだそうです。
  小石川後楽園は、かつて「後楽園」と呼ばれていました。大正11年(1922)現在の3大名園の1つ岡山の後楽園が名勝に指定され「後楽園」としました。翌年、東京の後楽園も史跡及び名勝に指定されました。そのため、岡山と区別するために「小石川後楽園」となったそうです。
 昭和27年(1952)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されています。



湯島聖堂
ゆしませいどう
東京都文京区湯島1丁目4−25
Tel 03-3251-4606
 元禄3年(1690)5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟です。もともとは寛永9年(1632)徳川幕府の政治顧問であった林羅山が上野忍が岡(現在の上野公園)に建てた孔子廟「先聖殿」を移築したものです。
  綱吉は先聖殿を「大成殿」と改称し孔子像と四賢像を安置し、またそれに付属する建物をひっくるめて「聖堂」と総称しました。建物全体は朱塗りにして青緑に彩色したと記録に残されています。聖堂の西側に御成殿や学寮が設けられました。
 老中松平定信は寛政の改革を通じて、聖堂は林大学頭家の施設であることから脱し、幕府の教育機関としての性格を強くさせていきました。
 そして、寛政9年(1797)聖堂及び林家の学塾は幕府に収公されて、以後「昌平坂学問所」と称し幕臣教育を受け持つことが布告されたのです。
 建物は4回もの江戸の大火、関東大震災などで焼失、再建を繰り返し、現在の建物は昭和10年(1935)に再建したものです。宝永10年(1704)に建てられた入徳門だけがそのまま残っています。
 湯島聖堂の「偕の木」は有名ですが「すだじい(ぶな科)」の大木があります。椿山荘にもこの「すだじい」がありました。



湯島天満宮
ゆしまてんまんぐう
東京都文京区湯島3−30−1
Tel 03-3836-0753
 湯島天満宮は江戸時代より梅の名所として有名です。雄略天皇2年(458)の創建と伝えられ、正平10年(1355)、湯島の郷民が菅原道真公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請し、あわせて奉祀しました。
 太田道灌が再興し、天正19年(1591)には徳川家康から朱印地5石を与えられています。菅原道真を祭るこの神社は、学問の神様として別名湯島天神としても広く知られています。
 江戸時代には谷中感王寺(天王寺)、目黒不動と並び「江戸の三富」と呼ばれ、幕府公認の富くじ(富突き)を発行しました。毎月16日に行われた富籤興業は、一獲千金を夢見る人々でごった返したそうです。
 江戸時代、毎月10日と25日に縁日が開かれたそうです。境内には茶店や休処が常設され、楊弓場では宮芝居や大相撲本場所が行われたこともあったそうです。
 明治18年(1885)に改築された天神社殿も老朽化が進み、平成7年(1995)には後世に残る総尾州檜の権現造りで立派な新社殿が造営されました。
 泉鏡花作の新派の名作「婦系図」の舞台としても有名です。、新派の記念碑や鏡花の筆塚もあります。湯島を舞台にした悲恋の長篇小説で明治40年(1907)に「やまと新聞」に連載され、翌年春陽堂から出版されました。
湯島の白梅



赤門(旧加賀屋敷御守殿門)
あかもん(きゅうかがやしきごしゅでんもん)
東京都文京区本郷7ー3−1
Tel 03-3812-2111
 日本の最高学府は東京大学です。そのシンボルが朱色に塗られたこの赤門です。表門の黒門に対して赤門と呼ばれたのです。昔ここは加賀藩前田家上屋敷でした。屋根の上の棟瓦には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢があります。
 文政11年(1828)11代将軍家斉の娘溶姫が前田家13代斉泰に嫁入りしました。その際の迎え入れのための門だそうです。この赤門(旧加賀屋敷御守殿門)は国の重要文化財に指定されています。
 江戸時代において、三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の子女、あるいはその居住する奥御殿を御守殿(ごしゅでん)あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を丹塗(にぬ)りにしたところから俗に赤門と呼んだそうです。



東京大学
とうきょうだいがく
東京都文京区本郷7−3−1
Tel 03-3812-2111
 赤門をくぐると東京大学の敷地です。明治10年(1877)に創設された国立大学で旧東京帝国大学です。全国の大学のトップに立つ学問の殿堂で、現在10学部、約1万5000人の学生が学んでいます。
 大学内にはイチョウ並木、朱塗りの赤門、安田講堂、夏目漱石の小説「三四郎池」に由来する三四郎池など歴史ある名所があります。



根津神社
ねづじんじゃ
東京都文京区根津1−28−9
Tel 03-3822-0753


 根津神社は、1900年ほど前に日本武尊が千駄木に創祀したといわれている古社で、「根津権現」とも呼ばれていました。東京十社に入っており、明治時代には准勅際社・府社に列格していました。本殿、幣殿、拝殿、唐門、楼門、西門、透塀が国の重要文化財に指定されています。
 文明年間(1469-1487)に太田道灌により社殿が造営されました。現在の根津神社の地は、江戸時代には5代将軍綱吉の兄である甲府中納言・松平綱重の山手屋敷(別邸)で、6代将軍綱豊(家宣)が生まれたところでした。
 宝永2年(1705)、将軍綱吉は養嗣子にした家宣のための産土神として根津神社に屋敷地を献納しました。翌年、千駄木にあった根津神社をこの地に移し、社領500石を与え、拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなる権現造りのり立派な社殿を造営しました。
 拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいます。唐門前方の楼門を含め、権現造り神社の建築様式の本来の形を踏襲しています。境内はツツジの名所として知られ、森鴎外や夏目漱石が近辺に住んでいたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されています。

 根津神社の本殿は桁行3間、梁間3間、1重、入母屋造り、銅瓦葺きです。幣殿は桁行4間、梁間1間、1重、両下造り、銅瓦葺きです。拝殿は桁行正面7間、背面9間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面千鳥破風付、向拝3間、軒唐破風付、銅瓦葺きです。内部の長押には、森村宣永画伯奉納の三十六歌仙画が掛かっています。
根津神社本殿・幣殿・拝殿
 根津神社の本殿、幣殿、拝殿は宝永3年(1706)に建立され、昭和6年(1931)に国の重要文化財に指定されています。昭和20年、米軍の東京空襲により本殿に焼夷弾が命中して炎上、幣殿、拝殿も延焼しました。昭和25年(1950)から12年を費やして大修理して昔と変わらない荘厳な姿を見せています。
根津神社本殿・幣殿・拝殿
 根津神社の中門は神社の正門にあたります。宝永3年(1706)に建立された唐門です。1間1戸平唐門で、銅瓦葺きです。両妻に唐破風を備えています。天井には、藤原立信の墨江の龍が画かれていたそうです。昭和31年(1956)に国の重要文化財に指定されています。
根津神社中門
 根津神社の楼門は宝永3年(1706)に建立されています。3間1戸楼門、入母屋造り、桟瓦葺きです。左右に随身が安置されていま。右側の随身は水戸光圀がモデルと伝えられています。昭和31年(1956)に国の重要文化財に指定されています。
根津神社楼門
 根津神社の西門は宝永3年(1706)に建立されています。昭和31年(1956)に国の重要文化財に指定されています。透塀と調和しています。
根津神社西門
 拝殿前に一対ある青銅灯篭は伊勢国津藩の第5代藩主・藤堂和泉守高敏が奉納したものです。鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休の銘が残されています。昭和6年(1931)に国の重要文化財に指定されています。そばには大正元年(1912)に建立された狛犬があります。
青銅灯篭
 透塀とは社殿周囲を囲んでいる塀で、格子部より向こう側が見えることからこのように呼ばれます。総延長200mもあります。唐門東方は34間、唐門西門間21間、西門北方は長53間あり、銅瓦葺きです。昭和31年(1956)に国の重要文化財に指定されています。
根津神社透塀



神田明神
かんだみょうじん
東京都千代田区外神田2−16−2
Tel 03-3254-0753
 神田明神は天平2年(730)に創建された由緒ある神社です。元和2年(1616)には江戸城の鬼門の守護神となり、江戸総鎮守として江戸の庶民に親しまれてきました。
 神田明神は聖橋を渡ったところにあります。社殿の近くに銭形平次と刻まれた碑があります。野村胡堂の時代小説「銭形平次捕物控」の主人公、明神下の平次こと目明し銭形親分で有名になりました。
随心門
 一の宮では大己貴命(大国主命・だいこくさま)、ニの宮では少彦名命(恵比須・えびすさま)、三の宮では平将門命を祀っています。 社殿は鮮やかな朱塗りで、祭神は、家庭円満、縁結び、商売繁盛、事業繁栄の守護神だそうです。
 江戸時代、新橋と浜松町を結ぶ江戸城の南は、浅い海の底にだったそうです。城の北東に隆起していた神田山(のちの駿河台)の南は低地になっていて古くから田が広がり農家や町屋が点在していたようです。
 神田山は家康の死後、晩年を暮らした駿府城を守っていた駿河衆が移り住んだため駿河台と呼ばれるようになったそうです。
 神田祭の山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、一名「天下祭」ともいわれ、江戸三大祭りの一つに数えられています。また「神田囃子」は無形文化財に指定されています。



田安門
たやすもん
東京都千代田区北の丸公園1−1
Tel 03-3213-0095 皇居外苑管理事務所


 田安門は北の丸地区北側の靖国通りに面した位置にあり、北の丸公園への出入り口、武道館へ入るところにあります。江戸城でももっとも桜の美しい場所です。
 田安門は、北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。寛永13年(1636)に建てられています。江戸城遺構のうち、宮内庁所管以外のもので、昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されています。
 昔、この付近に田安大明神が祀られていたので田安という名前が付けられたようです。江戸城が造られてからは、北丸といわれ、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所になりました。千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあったそうです。
 享保15年(1730)、8代将軍吉宗の第2子・宗武は、ここに一家を創立して田安家を興しました。また宗武の子・定信はこの地で生まれました。久松松平家の白河藩主・松平定邦の養子になり松平定信(白河楽翁)となり、寛政の改革を行いました。



清水門
しみずもん
東京都千代田区北の丸公園1−1
Tel 03-3213-0095 皇居外苑管理事務所


 清水門は北の丸の東門です。寛永元年(1624)に助役大名になっていた浅野長晟により建てられた江戸城北丸にある枡形の城門です。桜田門、田安門とともに昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されています。
 清水門は、昔この辺りに清水が湧き出ていたから付けられたようです。また、他説ではこの辺りに清水寺があったというものもあります。宝暦9年(1759)に9代将軍家重の第2子・重好が日本武道館付近に清水家を興しています。田安門から南北に分けると西側一帯が田安家、東側一帯を清水家が所有していたそうです。
 内堀通りから高麗門に入る道は、土橋となっています。高麗門に向かって右が「牛ヶ淵」、左が「清水濠」です。牛ケ淵と清水濠の水位が違うため、土橋にダムの役割を持たせているのです。
 雁木坂と呼ばれる石段は敵の侵入を遅らせるため、段差がきつく不ぞろいでとても登り降りしにくくなっています。文久元年(1861)の本丸炎上の時には、将軍家茂と夫人和子(静寛院宮)は一時ここに移っていたそうです。


北の丸公園
きたのまるこうえん
東京都千代田区北の丸公園
Tel 03-3211-7878 北の丸公園管理事務所
 竹橋と一番町を結ぶ代官通りと、千鳥ヶ淵・牛ヶ渕・清水濠に囲まれたところが旧北の丸です。竹橋門内に住んだ秀頼の妻で2代将軍の娘千姫は「北の丸様」と呼ばれたそうです。
 江戸時代御三卿の屋敷などがあったこの地は明治になって近衛兵の兵営が置かれたそうです。昭和30年代後半に旧近衛連隊等の多くの建物を撒去し、森林公園として造成されました。
 昭和44年(1969)に公園として開放され、多くの文化施設が集まっています。日本武道館、科学技術館、国立公文書館、東京国立近代美術館、東京国立近代美術館工芸館などです。
 日本武道館は東京オリンピックの柔道の会場として建設されました。現在は武道の試合の他、コンサートや各種イベントが開催されています。



靖国神社
やすくにじんじゃ
東京都千代田区九段北3−1−1
Tel 03-3261-8326
 明治2年(1869)明治維新政府が幕末から戊辰戦争にかけての犠牲者や戦没者を慰霊するために招魂社(しょうこんしゃ)を九段坂上の火除地3番丁原に設け設けました。これが靖国神社のが始まりです。
 明治12年(1879)靖国神社と改称されました。神社の場所は、幕末時代の歩兵屯所のあった所で、広大な敷地の中には馬場もあったそうです。
 「靖国神社」は、「国を安らかでおだやかな平安にして、いつまでも平和な国につくりあげよう」という気持ちを込め、明治天皇によって命名されたということです。
 靖国神社の御祭神は、嘉永6年(1853)以降(戊辰の役、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変、第二次世界大戦)の戦死者・殉職者、246万6500余柱といわれています。
 靖国神社は、明治以来国営化されていましたが、第2次世界大戦での敗戦以降、新たな宗教法人として全国遺族、崇敬者の手によってお祀りされるようになりました。
 参道のほぼ中央にある大村益次郎の銅像は明治26年(1893)の設立です。日本で最初の西洋式銅像でした。上野の山にたてこもる彰義隊討伐に際して江戸城から指揮を執る勇姿と伝えられています。
 大村益次郎は緒方洪庵の適塾で蘭学を学びます。安政3年(1853)に宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)に招聘され、宗城の参勤にしたがって上京し、麹町に鳩居堂という学塾をひらきました。
 その後桂小五郎、周布政之助らの知遇を得、長州藩へ帰り出仕します。四境戦争の折には石州口の参謀を務め、約700人の兵で7500人の幕府軍を破ります。戊辰戦争時は軍防事務局判事として江戸の治安回復を命じられました。
 明治新政府では兵部大輔を務め、新政府軍の軍政・軍令を統括し、天皇直属の中央常備軍編成に尽力しました。明治2年(1869)に、兵制改革に反対する長府藩士神代直人らに京都で襲われ重傷、敗血症で46歳の生涯を閉じました。



ニコライ堂
にこらいどう
東京都千代田区神田駿河台4−1−3
Tel 03-3295-6879
 御茶ノ水駅の近くの、駿河台の丘の上にニコライ堂があります。この聖堂は、正式には日本ハリストス正教会東京復活大聖堂といい、東方正教会とも呼ばれるキリスト教の教会です。高さ35mの玉葱型ドームは日本ではないような異国情緒を醸し出しています。
 ニコライ堂は箱館のロシア領事館付きの司祭としてやってきたニコライが、明治24年(1891)に建てたビザンチン様式の教会です。ロシア人建築家シチュールポフの設計図面を基に、 コンドルが実施設計・監督を行いました。 駿河台は東京市中を見下ろす高台で、大聖堂は東京の大部分の場所から眺められ、東京のランドマークとなりました。
 大正12年(1923)の関東大震災によりドームが崩壊しました。昭和4年(1929)に岡田信一郎の設計によって修復され、今にいたっています。震災前のものに比べると、建物の構造を強化するためにドーム部分に変更が加えられ、鐘楼の屋根は尖塔だったものがドーム屋根になりました。国の重要文化財に指定されています。



吉良邸跡
きらていあと
東京都墨田区両国3−13−9
 吉良邸跡は吉良上野介義央の上屋敷跡です。赤穂浪士が主君の浅野内匠頭の仇討ちを果たした場所で、赤穂浪士が吉良の首を洗ったという首洗いの井戸があります。
 現在は「本所松坂町公園」になっています。昔の吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち、約8400平方mの大屋敷でしたが、昭和初期、周辺は住宅化が進みました。旧吉良屋敷跡を保存するため、地元有志が土地を購入、周囲をすなまこべい長屋門石壁造りに復元保存し、東京市に寄贈し本所松坂町公園ができました。



回向院
えこういん
東京都墨田区両国2−8−10
Tel 03-3634-7776
 回向院は赤穂浪士が討ち入り後、追っ手に備えようと入ろうとして拒否されたところです。また、このお寺では旧国技館ができるまでは公共社会事業の資金集めのための寄付相撲、いわゆる勧進相撲興行が行われていたところでもあります。
 この回向院で大相撲が行われていたのです。境内には力塚と刻まれた碑や、相撲石碑が残されています。
 回向院は明暦3年(1657)の大火の犠牲者を弔うために建てられた浄土宗のお寺です。
 この大火の焼死者を集めて築いた万人塚が始まりで、海難溺死者、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために開かれました。その後の安政大地震、関東大震災、海難、水死、焼死、牢病死で亡くなった全ての無縁仏を祀っています。
 力塚は昭和11年(1936)に落成されました。巨大な石に「力塚」と書かれた石碑で、揮毫は徳川家達です。相撲関係者の霊を祀っています。 著名埋葬者としては、猿若勘三郎(江戸歌舞伎)、加藤千蔭(大岡越前守配下の与力 賀茂真淵門下の国学者)、奥村市蔵(明治理髪の元祖)などがあります。

 江戸時代、義賊と唱われた鼠小僧次郎吉の墓もあります。ギャンブルの御守りとして墓の欠片を持ち帰る者が後を絶たないそうです。
鼠小僧次郎吉の墓



聖路加病院
せいろかびょういん
東京都中央区明石町9−1
おもいっきりテレビのカメラでよく登場する聖路加病院です。創設者はドクター・トイスラー宣教医師で明治33年(1900)でした。



水上バス
東京都中央区晴海5−10先
 隅田川めぐりを楽しむ約40分の船の旅。「浅草」と「日の出桟橋」との間にかかる12の橋は、吾妻橋や清洲橋など色や形の個性的な橋ばかり。名所・旧跡を紹介する船内アナウンスに耳を傾け、変貌する東京港の姿を眺めれば、江戸の情緒と、東京の「今」が発見できます。 



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