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日本の旅
日本の旅          栃木・日光・足利

日光
にっこう
 日光の歴史は古く、天応2年(782)に勝道上人によって開山されたといわれています。山嶽信仰が盛んになり、源頼朝が日光二荒山神社を深く崇拝したことなどから関東武士の篤い信仰を受けることとなりました。



男体山
なんたいさん
 中禅寺湖の北東岸にある美しい円錐形の火山で標高は2484mです。日光のみならず関東屈指の名山で「二荒山(ふたらさん)」「黒髪山」「国神山」とも呼ばれています。
 天応2年(782)、勝道上人が初めて山頂を極め、それ以来山岳信仰の霊地として栄えたそうです。山頂には二荒山神社の奧之院があります。



中禅寺湖
ちゅうぜんじこ
栃木県日光市中禅寺湖
 日光の自然と風景美を代表する湖です。幸ノ湖(うみ)、雪浪(せつろう)湖、中宮祠(ちゅうぐうし)湖などとも呼ばれています。
 1周約21km、南北に1.8km、東西に6.5kmの大きさがあり湖面の標高は1269mだそうです。
 北東岸にそびえる男体山の火山噴出で大谷川の渓谷がせきとめられてできたそうですが、それより以前にも小さな湖水はあったようです。



華厳の滝
けごんのたき
栃木県日光市中宮祠2479−2
Tel 288-55-0030 (華厳滝エレベーター営業所)
 那智の滝、袋田の滝とともに日本3名瀑の一つに数えられています。高さ99m、幅10mあり、石英斑岩の上に重なる男体溶岩の落ち口から凄まじい響きをたてて滝壺に落下しています。
 男体山の火山噴出で大谷川の渓谷がせきとめられ中禅寺湖がつくられました。その湖水の流出口にこの華厳滝を出現させたのです。
 滝の中間部の岩盤のつなぎ目からは、伏流水が流れ出て十二滝と呼ばれる景観を造っています。明治36年(1903)「巌頭の感」を立木に書き滝に投身自殺した藤原操という青年のことは知られています。
 滝見物は観瀑展望台から見下ろすか、エレベータで地下に降りトンネルを通って滝壺から仰ぎ見る方法があります。また遠く明智平から遠景が臨めます。



日光東照宮
にっこうとうしょうぐう
栃木県日光市山内2301
TEL:0288-54-0560
 元和2年(1616)江戸幕府初代将軍徳川家康が駿河城(静岡県)に於いて死去しました。家康は生前、病床で「我亡からん後は、先づ駿河の久能山に葬り、一周忌を経て後大織冠の例を追うて日光山に移せ、神霊ここに留って永く国家を擁護し、子孫を守るべし」と遺言を残していました。
 遺言通り一旦、家康の遺体は久能山に埋葬されました。翌年元和3年(1617)家康の息子で2代将軍徳川秀忠は、日光に廟を造営し、改葬しました。朝廷から東照大権現の称号と正一位を与えられ東照社と称しました。
 日光山5世貫主であった慈眼大法師天海の尽力もあって、正保2年(1645)後水尾天皇から東照宮という宮号が下され、日光東照宮と改称し、翌年、東照大権現という神号が宣下されました。
 3代将軍徳川家光は家康に対し特別に畏敬の念を抱いていました。日光東照宮への参拝は19回にも達し、寛永13年(1636)には莫大な費用と労力をかけ今までの社殿をより大規模なものに再建造営したのです。今日の絢爛豪華な社殿群を造り上げたのでした。
 日光東照宮の総奉行は秋元泰朝、棟梁は甲良宗広一派が手掛け、将軍家の威光をかけた壮大華麗な社殿建築を造り出しました。例祭には朝廷から奉幣使が派遣されたり、朝鮮通信使が参拝に訪れたりして幕府、将軍家の権威を高めました。
 東照宮では天海僧上の主張もあり山王一実神道による神仏混合を採用し、薬師如来と本地仏を祀り他の日光山内の社寺と渾然一体となっていました。
 2代将軍秀忠が建立した拝殿・唐門・多宝塔は徳川家発祥の地とされる世良田東照宮へ移築され分霊を遷座しています。
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の「二社一寺」に集約され日光東照宮は改めて正式の神社となりました。家光の霊廟大猷院廟などは仏式の造りだったため輪王寺に帰属させられました。
 日光東照宮は現在でも多くの社殿や寺宝を所持し、特に本殿、石の間、拝殿、陽明門、回廊などは国宝に指定されています。輪王寺本坊、大猷院廟、二荒山神社などと共に「日光山内」として国指定史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。
 東照宮では年中行事として春秋2回、東照宮例大祭が行われます。千人武者行列といい、馬に乗った神官や神輿、鎧兜に身を固めた武者たちの行列が参道を練り歩き、流鏑馬神事も奉納されます。


石鳥居
 一ノ鳥居は東照宮入口に建っています。高さ9m、柱の太さ3.6m、柱の間隔が6.8mの日本最大級の石造りの明神鳥居です。京都の八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮とともに日本三大鳥居の一つに数えられています。
石鳥居
 鳥居は元和4年(1618)黒田長政が奉納したもので、石材は九州から切り出され運ばれたそうです。後水尾天皇の筆による東照大権現の勅額が掲げられています。日光東照宮石鳥居は国の重要文化財に指定されています。
石鳥居

日光東照宮五重塔
 五重塔は東照宮入口に立つ一ノ鳥居をくぐったすぐ左手に建っています。高さ約36mの朱塗りの塔です。慶安3年(1650)若狭小浜藩主・酒井忠勝が奉納しています。吊られた心柱により高層建築の振動を調整する工夫がなされています。その後、文化12年(1815)に落雷により焼失しました。文政元年(1818)、再び酒井家の手によって再建され現在の姿となっています。
五重塔
 各屋根の二重垂木は4層までがまっすぐな和様、5層目のみ扇形に広がる唐様になっています。五重塔は3間4面の五重塔婆で朱色を基調とし金物を金、組物、彫刻を極彩色で彩る豪勢な造りです。初層に施された十二支の彫刻は見事です。五重塔は国の重要文化財に指定されています。
五重塔

表門
おもてもん
 表門は総門とも呼ばれ東照宮五重塔広場の正面、巨石の石垣上に建立されています。総朱塗りの3間1戸8脚門、切妻、銅瓦葺きの8脚門です。東西に延長120間に及ぶ簓子塀(ささらこべい)が付いています。寛永13年(1636)の寛永の大造替の際に、奈良東大寺の転害門の三棟造(みつむねづくり)を模して建造されました。
表門
 背面には金色の狛犬が飾られ、柱の上部には獏、象、虎、麒麟、獅子をはじめ、66の彫刻が施されています。驚くほどの極彩色に細密な彫刻、金箔が惜しみなく使われていて、江戸初期の技術の粋が凝縮されています。
表門
 山王一実神道(さんのういちじつしんとう)の宗教理念により、神社建築と寺院建築が混在する独特の様式です。神仏混合の名残りで門の両脇に、「阿」(あ)、「吽」(うん)の一対の仁王像を安置しています。そのため仁王門とも呼ばれます。
表門
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仁王像が大猷院に移され表門となりました。明治30年(1897)に再度戻され、現在の姿になりました。日光東照宮表門は国の重要文化財に指定されています。
表門

三神庫
さんじんこ
 三神庫は東照宮大造替の際の、寛永12年(1635)に建てられました。表門をくぐり右側から正面に鉤(かぎ)の手状に並んでいます。3棟とも東大寺の正倉院と同じ校倉(あぜくら)造り、高床で朱塗りの建物です。三神庫は手前から下神庫・中神庫・上神庫とよばれ、この三神庫には千人武者行列に使う1200人分の装束や舞楽用の装束などが収納されています。
三神庫
 下神庫は桁行7間、梁間4間、切妻造りの銅瓦葺き、中神庫は桁行9間、梁間3間、入母屋造りの銅瓦葺き、上神庫は桁行7間、梁間4間、切妻造りの銅瓦葺きです。下神庫・中神庫・上神庫とも国の重要文化財に指定されています。
三神庫
 上神庫の屋根妻面には狩野探幽が下絵した「想像の象」といわれる黒と白の想像上の象の彫刻が飾られていて、東照宮三彫刻「三猿」と「眠り猫」とともに日光三彫刻の1つとされています。
三神庫

陽明門
ようめいもん
 陽明門は日光東照宮の象徴的な建物です。寛永12年(1635)に建てられものです。一日中眺めていても飽きないことから「日暮門(ひぐらしのもん)」ともいわれています。間口7m、高さ11m、奥行き4mの入母屋造りの12脚門です。国宝に指定されています。
陽明門
 極彩色で装飾されている2層の楼門は全ての面に江戸初期の装飾技術を集結させた彫刻を施しています。3間1戸、8脚楼門、入母屋造り、四方軒唐破風、銅瓦葺きの楼門建築で、中央が通路になっています。
陽明門
 京都御所にある12の門のうち、東の正門が陽明門と呼ばれていました。この名を賜って陽明門と名付けられたそうです。明治維新まで庶民がこの門を通ることは許されていませんでした。武士は刀を預け、勅使でさえも装束を改めたそうです。
陽明門
 正面唐破風下には元和3年(1617)に後陽成天皇から賜った「東照宮大権現」の額が掲げられています。桂離宮の松琴亭に掲げられた額「松琴」の文字も後陽成天皇の筆で徳川幕府と良い関係にあったと思われます。
陽明門
 東照宮一の豪華さを誇る陽明門には当時の技術の最高技術がつぎ込まれ彫刻の数は508体にのぼり、軒下には金と極彩色に彩られた麒麟、その下には白色の竜、さらに下が子供達の透かし彫りが施されています。
陽明門
 蹄を持つ龍「龍馬」をはじめ、唐獅子、鯉に乗った仙人、唐様の人物など精緻で極彩色の彫り物が門を覆い尽くしています。門の下にいる逆立ちの一対の獅子は石柵を支える支柱の役割を果たしています。柱と同じ一本の石から彫り抜かれています。
陽明門
 裏側の左手2番目の柱は「魔除けの逆柱」と呼ばれグリ紋の向きが逆です。完成した瞬間から崩壊が始まるという古事からわざと未完成の部分を残しているそうです。ギリシア神話に登場する女の怪物メドゥーサを恐れて逆さまに彫るのと似ていると思いました。
陽明門

神厩舎
しんきゅうしゃ
 神厩舎は神馬をつないでおく厩舎です。寛永12年(1635)に建てられたもので、桁行3間、梁間5間、切妻、銅瓦葺き、妻入りの建物です。神厩舎は境内唯一の素木造(しらきづくり)の建物です。ここも国の重要文化財です。
神厩舎
 当初は初代将軍徳川家康が関ヶ原の合戦の折乗馬していた馬が神馬とされていたそうです。神馬は雄の白馬が条件で、現在2頭が飼育されているそうです。百物揃千人行列の時には神馬も出馬するそうです。
神厩舎
 長押(なげし)上には、猿は病気から馬を守るという信仰から8面の猿の彫刻があり、誕生から大人に成長する猿の姿を描きながら、人の生き方を表わしています。その中でも参道側左から2番目にある子供時代を表した三猿の彫刻が有名です。
神厩舎
 重要文化財の見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の彫刻は悪いことは、見ない・言わない・聞かないという意味が込められているそうです。東照宮の根本理念を現しているともいわれています。神厩舎は国の重要文化財に指定されています。
神厩舎

御水舎
おみずや
 御水屋は東照宮の神厩舎の先にある湧き水がある建物です。寛永12年(1635)に建てられた、唐破風屋根、銅瓦葺きの建物です。柱は4隅に3本づつ計12本あり全て御影石で造られ、水にちなんで波や竜の彫刻に極彩色が塗られています。
御水舎
 手水鉢は元和4年(1618)に鍋島藩主が初代将軍徳川家康3回忌に奉納したものです。滝尾神社付近から水を引き神庫裏の石垣から落ちる水の圧力で水が噴き上がるようになっています。手水舎は国の重要文化財に指定されています。
御水舎

輪蔵
りんぞう
 輪蔵は寛永12年(1635)に建てられた経蔵です。桁行3間、梁間3間、宝形造りで銅瓦葺き、裳階付きです。朱色と金が基調で組物と彫刻が極彩色で彩られ、内部には8角形の回転式の書架があり、一切経1456部、6325巻が納められています。日光東照宮輪蔵は国の重要文化財に指定されています。
輪蔵

唐門・拝殿・本殿
からもん・はいでん・ほんでん
 東照宮で最も重要な本社の正門にあたるのが唐門です。間口3m、奥行き2mの小さな門ですが四方に葺かれた唐破風の屋根は力強い感じです。江戸時代には御目見得(将軍に拝謁できる身分)以上の幕臣や大名だけが使えた門だったそうです。
唐門
 門柱には唐木の寄せ木細工で造られた昇龍と降龍が飾られています。屋根の前後は恙(つつが)、左右には鰭(ひれ)切りの龍を配置しています。欄間には竹林の七賢人など中国の故事にちなんだ彫刻が見事に彫られています。
唐門
 唐門の奥には拝殿、石の間、本殿が一体化した権現造りの御本社があります。東照宮の中心を成していて、寛永12年(1635)に建てられています。拝殿は桁行9間、梁間4間、入母屋、正面千鳥破風、軒唐破風、向拝3間、銅瓦葺きです。拝殿の天井には百間百種の龍、欄干には土佐派の絵師、土佐光起筆の三十六歌仙の額が揚げられています。
唐門・拝殿・本殿
 拝殿と本殿を石ノ間がつないでいて、一般の参拝は本殿の手前の石ノ間までとなっています。本殿は桁行5間、梁間5間、背面向拝1間、入母屋造りの銅瓦葺きです。石之間は桁行3間、梁間1間、両下造りの銅瓦葺きです。本殿、石の間、拝殿、唐門は国宝に指定されています。
唐門・拝殿・本殿

 本殿は神仏混合の名残が見られ、内陣や内々陣などが設えられ東照大権現が安置しています。
唐門・拝殿・本殿

鋳抜門
いぬきもん
 鋳抜門は銅製唐門です。宝塔(奥宮)の前に慶安3年(1650)に建てられました。門は全て青銅鋳物製で扉を除いて、柱や梁などをひとつの鋳型で造ったことから鋳抜門と呼ばれています。重厚な造りですが門扉の細かな意匠には金が使用されるなど格式と荘厳が感じられます。鋳抜門は幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫が造りました。鋳抜門は奥宮として国の重要文化財に指定されています。
鋳抜門

奥宮
 奥宮は初代将軍徳川家康の墳墓の上に建てられた宝塔で、当初は木造でさらに石造に改められました。その後、天和3年(1683)に新たに銅製に鋳造されています。宝塔は石造りの玉垣の内部に八角九段の基盤の上に築かれています。高さは5mあり、前面には香炉、燭台、花瓶、三具足が備え付けられています。宝塔の製作者は鋳抜門と同じく幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫です。。日光東照宮奥宮は国指定重要文化財に指定されています。
奥宮



二荒山神社
ふたらさんじんじゃ
栃木県日光市内2037
Tel 0288-54-0535
 二荒山神社は、東照宮、輪王寺とあわせて「二社一寺」と称されていますが、近世までは「日光山」という一つのものでした。二荒山神社の寺域は華厳の滝、いろは坂、日光連山が境内に含まれ日光国立公園の中枢をなしています。伊勢の神宮に次ぐ広大な神域を有しているのです。
 二荒山神社の創建は神護景雲元年(767)勝道(しょうどう)上人が二荒山(男体山)の神を現在の本宮神社境内に勧請したのが始まりと伝えられています。天応2年(782)勝道上人は関東の霊峰男体山頂に祠(現在の奥社)を建て二荒山神社を祀りました。
 延暦3年(784)勝道上人はさらに二荒山中腹の中禅寺湖畔に中宮祠をつくり、ふもとの日光に二荒山神社を建てました。弘仁11年(820)空海が女峰山の祭神である田心姫命を勧請し滝尾権現を建立して遥拝所とし、嘉祥元年(848)慈覚大師が日枝神社を滝尾権現境内に勧請しました。
 その後、現在の本社の境内付近に二荒山神社を遷座し、本宮には太郎山の祭神である味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を勧請しました。二荒山大神である大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)と合わせ3神をお祀りしているのです。
 二荒山神社は下野国一之宮、関東総鎮守として広く信仰され、鎌倉時代に入ると関東の守り神として幕府、豪族の信仰を集めました。室町時代に入ると小田原北条氏から厚い崇敬を受けましたが、対立した豊臣秀吉が勝利し北条氏が滅ぶと社領が認められないなどの弾圧を受け一時衰退します。
 江戸時代、日光に徳川家康が祀られることになると幕府から崇敬されるようになり社領の寄進や社殿の造営などが行われ隆盛になりました。

 本殿は男体山を神体山とし、日光の山々の神を祀る神殿です。元和5年(1619)、2代将軍徳川秀忠が造営しました。そして正保2年(1645)に現在の場所に移転しました。桁行11m、梁間12m、軒唐破風向拝付、正面千鳥破風付の単層入母屋造り、銅瓦葺き(元は檜皮葺き)です。
二荒山神社本殿
 本殿は造営当時の姿が残る日光山内で最も古い建造物です。 朱漆塗を基調に黒漆塗、金箔押しや飾金具などの装飾が鮮やかです。安土桃山様式の八棟造りを採用した神社本殿建築の遺構として貴重な存在で周囲に付随する唐門・掖門・透塀・鳥居と共に国の重要文化財に指定されています。
二荒山神社本殿

 二荒山神社の拝殿は元和5年(1619)建立されました。 現在の社殿は正保2年(1645)、本殿の移転に伴い正保年間(1644-1648)に再建されたものです。神霊を礼拝する建物です。桁行16m、梁間12mの単層入母屋造りで銅瓦葺きです。
二荒山神社拝殿
 建物は朱色と黒漆塗で覆われていますが彫刻や文様が見当たらず、日光に建てられた社殿の中では地味な感じです。正面の石段を上ると、5.5mの両開きの唐戸があり、中に入ることができます。本殿同様に国の重要文化財に指定されています。
二荒山神社拝殿

 大国殿の横に建つ神輿舎(しんよしゃ)は徳川時代初期の創建です。素木入母屋造りで弥生祭に使われる本社、滝尾、本宮の神輿3基が納めています。元和3年(1617)に東照宮の仮殿拝殿として建立されました。正保年間頃、現在の場所に移転しています。日光の社殿の中でも珍しい簡素な素木造りで、日光に現存する最古の建造物の一つです。国の重要文化財に指定されています。
神輿舎

 大国殿(だいこくでん)は男体山の神、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀っています。福の神として親しみを込め「大国様」と呼ばれています。延享2年(1745)に建てられた宝形造り、こけら葺きの建物で、国の重要文化財に指定されています。中に「招き大黒」の絵や2.62mの宝刀・太郎丸を飾っています。縁日には「だいこくまつり」が開かれ多くの人々で賑わいます。
大国殿

 朋友(みとも)神社は杉の巨木に包まれた二荒霊泉の手前奥に建っています。知恵の神とされる少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀っています。日光における山岳信仰の中心として古くから崇拝されてきた神社で、国の重要文化財に指定されています。
朋友神社

 日枝神社は嘉祥元年(848)、慈覚大師によって建立され、明治42年(1909)に現在地に移転されています。山の神様・健康の守護神である大山咋命(おおやまくいのみこと)を祀っています。間口、奥行きともに1.8mの入母屋造りで、脇障子や、組物などに特に目立った彫刻はみられません。国の重要文化財に指定されています。
日枝神社

 境内には神域にふさわしく多数の老木・巨木がそびえ立っています。拝殿の前にある「夫婦杉」は根を一にした夫婦円満のご神木です。大己貴命(おおなむちのみこと)を祀っています。他に親子杉、三本杉など、御神木として人々の信仰を集めています。
夫婦杉

  国の重要文化財の「唐銅燈籠」は、「化燈籠(ばけとうろう)」として有名です。神輿舎の前に建つこの燈籠は正応5年(1292)、鹿沼権三郎入道教阿(きょうあ)らが奉納したといわれています。その昔、夜更けにこの燈籠に灯をともすと、ゆらゆら揺れて見え、山内警固の武士たちが、化け物と間違えて斬りつけたそうです。3月の弥生祭の献灯式の時だけ灯が点けられるそうです。
化灯籠



輪王寺・大猷院
りんのうじ・たいゆういん
栃木県日光市山内2300
Tel 0288-54-0531
 世界遺産に登録されている日光山輪王寺は、日光山中にあるお寺やお堂、さらに15の支院の総称です。東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と呼ばれています。輪王寺の堂塔は日光山の中の至る所に点在していて、1ヶ所にはまとまっていません。比叡山延暦寺、東叡山寛永寺とともに天台宗三大本山の一つに数えられています。
 神橋から長坂を登りつめた所に日光開山の祖である勝道(しょうどう)上人の像があります。ここが輪王寺の入口です。明暦元年(1655)に、後水尾上皇から「輪王寺」の寺号を賜り、満願寺から寺名を変え、門跡寺院になりました。
 輪王寺の創建は勝道上人が天平神護2年(766)神橋のそばに四本竜寺(しほんりゅうじ)を建立し千手観音を安置したのが始まりとされています。延暦3年(784)勝道上人はさらに二荒山中腹の中禅寺湖畔に中宮祠をつくり、ふもとの日光に二荒山神社を建てました。嘉祥元年(848)慈覚大師が三仏堂、常行堂、法華堂などを建立しました。 
 鎌倉時代に入ると領主や権力者によって崇敬、帰依され寺運が隆盛し「日光三所権現」として山岳信仰も盛んになります室町時代に入ると小田原北条氏から庇護されましたが、対立した豊臣秀吉が勝利し北条氏が滅ぶと寺領を没収され一時衰退します。社領が認められないなどの弾圧を受け一時衰退します。
 慶長18年(1613)、徳川将軍の相談役でもあった天海僧正が貫主(かんす)となってから隆盛になり、江戸幕府の初代将軍徳川家康を祀る東照宮を創建してからは一大聖地へと躍進しました。承応2年(1653)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院が建立され、徳川家とより深いゆかりのある寺院となりました。
 明治の神仏分離令により古来から神仏混合だった日光山全体を日光東照宮、二荒山神社、輪王寺と「二社一寺」に分離されました。輪王寺も称号を没収され本坊が焼失しまいます。明治15年(1883)に輪王寺の寺号が復され、堂宇も再建されました。

三仏堂
 輪王寺三仏堂は日光山の総本堂で、東日本で一番大きい木造建造物です。嘉祥元年(848)に慈覚大師が比叡山延暦寺の根本中堂を模して建立したと伝えられています。三仏堂の前には、天然記念物に指定されている、樹齢500年といわれる「金剛桜」があり、春には美しい花を咲かせます。
輪王寺三仏堂
 三仏堂は当初、滝尾神社付近に建てられました。現在の建物は正保2年(1645)に三代将軍徳川家光が再建したものです。明治14年(1881)二荒山神社付近にあった三仏堂を現在地に移築しました。
輪王寺三仏堂
 桁行7件、梁間4間、入母屋造り、銅瓦葺きの巨大な堂宇です。三仏堂という呼び名は日光の三山である男体山、女峰山、太郎山からきています。三山をを神体とみて、その本地仏である千手観音(男体山)、阿弥陀如来(女峰山)、馬頭観音(太郎山)の高さ8.5mの3仏を祀っています。
輪王寺三仏堂
 これらの3仏は密航三社権現本地仏といわれます。東照三社権現本地仏という本尊もあり、薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来の掛仏も祀られています。三仏堂は国の重要文化財に指定されています。
輪王寺三仏堂

 逍遥園は紅葉の名所として有名な回遊式庭園です。輪王寺門跡の庭園として江戸時代初期に作庭されたもので、一説には小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作と伝え、その完成を見たのは寛永年間だといわれています。入口には明治天皇日光行在所の碑が建っています。輪王寺では、朝廷から門跡を迎えていて、宮様が故郷をしのんで寂しがらないようにと、近江八景にならって八勝景のある庭園を造園したと伝えられています。
逍遥園

 常行堂と法華堂は、二荒山神社の前に並んで建つお堂です。慈覚大師によって建立されました。2棟は渡り廊下で結ばれていて、2棟で「二ツ堂」とも称されています。常行堂は阿弥陀如来像を祀り、源頼朝の分骨が納められていることから、頼朝堂とも称されています。
常行堂
  常行堂は元和5年(1619)に建てられています。桁行5間、梁間6間、宝形造り、向拝1間、銅瓦葺きです。古来の密教建築を受け継いだ形式を持っています。中央には4本の柱を建てその内部に須弥壇を配しています。常行堂は国の重要文化財に指定されています。
常行堂
 法華堂は慶安2年(1649)に建てられています。桁行3間、梁間4間、宝形造り、向拝1間、銅瓦葺きです。中央の須弥壇には本尊である普賢菩薩をはじめ鬼子母神や十羅刹女などが安置されています。法華堂は国の重要文化財に指定されています。
法華堂
 常行堂と法華堂との間の渡廊(わたりろう)です。渡廊は桁行8間、梁間1間で東の端を常行堂に接し、西の端は切妻造りとなって法華堂に続いています。渡廊は国の重要文化財に指定されています。
渡廊

 護摩天堂は元和5年(1619)に建てられた日光で随一の護摩祈願所です。桁行5間、梁間3間、寄棟造り、向拝1間、銅瓦葺きです。神仏混合の名残で当初は内権現堂と称していました。本尊の五大明王をはじめ、七福神、十二天などの仏像や祖師像などが祀られています。天井には2年半かけて完成した「大昇竜」が描かれています。国の重要文化財に指定されています。
護摩天堂


輪王寺大猷院
りんのうじたいゆういん
 輪王寺大猷院は徳川3代将軍家光の廟所です。大猷院(たいゆういん)とは大きな仕事を成し遂げたという意味だそうです。後光明天皇から賜った家光の法号でもあります。家康を敬愛していた家光が、死んだ後も東照大権現にお仕えすると遺言したことから作られました。
 4代将軍家綱は酒井忠勝に命じ、承応元年(1652)2月から承応2年(1652)4月まで1年2か月という短い期間で大猷院を造営しています。大棟梁は平内大隅守応勝で日光東照宮を敬う立場から主要堂宇は東照宮方向を向き、東照宮より規模は小振りです。
 大猷院は東照宮の後に建てられたことから技術が飛躍的に向上していて、地味目ですが彫刻、絵画、調度品は素晴らしいものです。東照宮が神式であるのに対して、大猷院はすべてが仏式になっています。そのため輪王寺に属することになりました。

 仁王門は承応2年(1653)に建てられています。3間1戸、8脚門、切妻造りの銅瓦葺きです。建物全体は朱色を基調として上部の構造体は黒色、金物を金、彫刻を極彩色で彩っています。構造は東照宮の表門と似ていますが、こちらはシンプルで装飾彫刻はあまり見られません。大猷院の中では比較的落ち着いた彩色で威厳を感じます。仁王門は国の重要文化財に指定されています。
大猷院仁王門

 仁王門を入って左手には承応2年(1653)に建てられた二天門があり、これも国の重要文化財に指定されています。桁行5.3間、梁間3.1間、3間1戸、8脚楼門、入母屋造りで銅瓦葺き、前後の屋根に唐破風が設けらています。朱色が基調で金物は金、1層目の組物が黒、2層目の組物が極彩色になっています。後水尾天皇の宸筆した「大猷院」の扁額があります。正面に持国天と広目天が安置されているので二天門といわれています。二天門は国の定重要文化財に指定されています。
大猷院二天門

 霊廟の入り口でもある夜叉門は承応2年(1653)に建てられた8脚門です。切妻造りで銅瓦葺き、正面には唐破風がついています。色鮮やかで華やかな門で、彫刻が極彩色で彩られ、牡丹、唐草牡丹の彫刻が多用されている事から牡丹門とも呼ばれています。霊廟の鎮護のために毘舵羅、阿跋摩羅、鍵舵羅、烏摩呂伽を納めています。夜叉門は国の重要文化財に指定されています。
大猷院夜叉門

 拝殿の前にある唐門は承応2年(1653)に建てられました。唐破風を持つ1間1戸、高さ3mと小さめの門です。隅々まで繊細な彫刻と金、白を基調とした彩色が施されています。破風内部には雌雄の鶴、欄間には白竜、木鼻には獅子が彫り込まれています。唐門は国の重要文化財に指定されています。
大猷院唐門

 承応2年(1653)建立の拝殿は桁行8間、梁間3間、入母屋で本殿、相之間と一体となる権現造りとなっています。正面には大きな千鳥破風あり、向拝は軒唐破風です。拝殿の内部は金箔で覆われています。大羽目には唐獅子と狛犬が描かれています。障壁画は狩野探幽と狩野安信の手によるものだそうです。天井には格子毎に竜が描かれて140匹もあるそうです。大猷院拝殿は国宝に指定されています。
大猷院拝殿

 拝殿と同時期に建立された本殿は桁行5間、梁間5間、2層入母屋で拝殿、相之間と一体となる権現造りとなっています。建物全体が黒漆塗りの上に金箔を貼り付けられ、彫刻を極彩色、垂木、高欄部を朱塗り、花頭窓周囲を黒に塗るなど色分けし格式と調和を図っています。内部には三代将軍徳川家光の木像と御霊碑を安置した宮殿が設置されています。大猷院本殿は国宝に指定されています。
大猷院本殿

 皇嘉門は本殿の右側にあり、透塀をはさむ形で立つ美しい門です。承応2年(1653)に建てられ、中国・明朝の建築様式で造られたもので、竜宮城のような形から「竜宮門」とも呼ばれています。この門の奥が家光の墓所にあたる奥の院になっています。極彩色で彩られ、白漆喰の壁に大猷院の基調となる黒と金が際だっています。皇嘉門は国指定重要文化財に指定されています。
皇嘉門



日光奉行所跡
にっこうぶぎょうしょあと
栃木県日光市安川町10−24
 元禄13年(1700)に日光山守護として40年を日光廟に尽くした梶定良(かじさだよし)の屋敷を役宅として日光奉行が置かれ、寛政3年(1791)役宅に接して役所が建てられました。
 日光奉行は、日光廟の警備、営繕、祭事一切を司るほか、日光領の司政や裁判も行ったそうです。
 明治2年(1868)に日光県が置かれ、その庁舎にあてられましたが、明治4年、廃県とともに建物も取り壊されました。昭和35年(1960)8月に日光市の文化財に指定されました。



殺生石
せっしょうせき
栃木県那須郡那須町湯本
 那須湯本温泉の源泉となっている「鹿の湯」の西方に、山肌がむき出しで草木の絶えた谷あいがあり、この奥に、かの殺生石があります。殺生石の周辺からは、硫化水素や亜硫酸ガス、砒素などの有毒ガスが噴出しています。
 殺生石は伝説の白面金毛九尾の狐が追われ、身を隠すために化けたといわれる大石といわれています。石に化けた九尾の狐の妖怪が近づく者に毒気を出して命を奪ったそうです。



那須高原
なすこうげん
栃木県那須郡那須町
 那須高原の中心は那須火山脈です。標高1915mの茶臼岳は今も噴煙を上げている活火山です。9合目まではロープウエイで登ることができます。
 山頂付近は、高山植物の宝庫です。頂上からは磐梯山、吾妻山、帝釈山、日光連山、那須野ケ原の広大な眺めを楽しめます。
 那須温泉は今から1300年前の 「鹿の湯」の発見に始まるとされています。神のご託宣を受けた狩野三郎行広が温泉を鹿の湯と名づけ那須温泉神社を祀ったそうです。



もみじ谷大吊橋
もみじだにおおつりはし
栃木県那須塩原市町関谷1425−60
Tel 0287-34-1037 (森林の駅)
 塩原ダム湖の上に無補剛桁歩道吊橋としては日本一長い全長320mの大吊橋があり「もみじ谷大吊橋」といわれています。
  「日本一の空中散歩」をキャッチフレーズとするこの橋は、那須塩原温泉を流れる箒(ほうき)川にかかる大橋です。平成11年(1999)4月に完成しました。吊橋の幅は1.5m、そして主塔の高さはなんと26.2mもあります。足下を見れば川面と緑のコントラストが楽しめます。
 無補剛桁(むほごうげた)という形式の歩道吊り橋はワイヤーロープを横に張ることで強度を高める構造になっています。吊橋を渡るともみじ谷公園があり自然と親しめます。秋には橋上からダイナミックな紅葉が堪能できます。



宇都宮
うつのみや
 宇都宮の歴史は古く、その昔、蝦夷平定のため、はじめてこの地に足を踏み入れた豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が開祖といわれており、これを祀った二荒山神社の門前町として栄え、池沼が多いことから「池辺郷」とも呼ばれていました。  
 宇都宮の地名は、藤原宗円が二荒山神社の社号「宇都宮」を氏とし、鎌倉幕府の中枢にあって、治政をあげたことに由来するといわれています。 江戸時代には城下町として栄え、参勤交代や日光東照宮の造営などにより往来も多く、「小江戸」と呼ばれるほど繁栄しました。
 宇都宮城は平安時代後期に築かれました。元和5年(1619)本多正純が城主となり、城と城下町の大改造を実施しました。堅固な石垣や門、8つの櫓と高い土塁、堀をもつ城に変わり、宇都宮市中心部の原型も形成されました。戊辰戦争で宇都宮城は焼失。本丸跡の一部は昭和33年(1958)に「御本丸公園」となりました。



大谷寺(大谷観音)
おおやじ(おおやかんのん)
栃木県宇都宮市大谷町1198
Tel 028-652-0128
 天開山大谷寺は弘仁元年(810)弘法大師によって開かれたと伝えられています。坂東33観音霊場の一つで、第19番札所となっています。大谷寺の本尊である大谷観音(千手観世音菩薩)は大谷石の大きな岩壁に彫られた立像です。
 像の高さ4m、台座約1mの巨大なこの観音は日本最古の磨崖仏です。関東地方における石窟仏の代表といわれ、柔らかい大谷石に素晴らしい彫刻を施してあります。堂内には、他に釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像があります。10体の磨崖仏は国の特別史跡と重要文化財の二重の指定を受けています。(撮影禁止のため写真はありません)
 昔、この地には岩場に毒蛇が棲んでいて、そのため里人から地獄谷と呼ばれていたそうです。ある時、出羽湯殿山の三人の行者が訪れ、毒蛇降伏の秘法を修し、岩肌に観音を彫刻してからは、その害がなくなったといわれています。 
 江戸時代、徳川家康の5女の亀姫が大谷寺中興の住職の伝海僧正を助けて復興させました。徳川家の庇護を受け繁栄し、西の「臼杵磨崖仏」に対して「東の磨崖仏」として広く知られることとなりました。



平和観音
へいわかんのん
栃木県宇都宮市大谷町1174
Tel 028-632-2445
 平和観音は第2次世界大戦の戦没者の慰霊と世界平和を祈って作られた観音像です。昭和29年(1954)に完成し、昭和31年(1956)に開眼されました。
 高さ26m、胴回りは20mにもなる巨大なもので、大谷石の採掘場跡地の石壁にそびえ立つように刻まれています。すべて手彫りだそうです。
 観音像の胸のあたりに展望台があり耳元まで登ることができ、素晴らしい景色を楽しめます。陸の松島と呼ばれるほど奇岩がそろう大谷の山並みがはっきりと見えます。平和観音は大谷寺のすぐ近くの大谷公園の中にあり、大谷寺とは直接関係はないそうです。



多気不動尊(多気山持寳院)
たげふどうそん(たげさんじほういん)
栃木県宇都宮市田下町563
Tel 028-652-1488
 多気不動尊(多気山持寳院)は真言宗智山派のお寺です。宇都宮の西北10Km、多気山(376m)の中腹に位置し、弘仁13年(822)、日光開山勝道上人の弟子尊鎮法師により創建されました。
 当初は馬頭観音を本尊としていましたが、建武2年(1335)、宇都宮9代城主藤原公綱により今の本尊不動明王が本尊として氏家の勝山城からここに遷座されました。そして宇都宮氏代々の祈願所として繁栄しました。
  平安時代に造られた本尊の不動明王は金色の光背と、真っ赤な火炎を背にした高さ1.2mの寄木造りです。宇都宮市の文化財に指定されていて、毎年9月1日のみ開帳されています。火災の防止、商売繁盛の不動尊として知られています。
 境内をとりまく林も天然記念物で日本の暖帯林の北限とされ、市の文化財に指定されています。春は桜、秋は紅葉の名所で大勢の人が訪れます。



唐の御所横穴
からのごしょよこあな
栃木県那須郡那珂川町和見岩下
Tel 0287-92-5757
 唐の御所横穴は岩下地区にある国指定の遺跡で、6世紀後半から7世紀初頭頃の横穴古墳群です。 和見(わみ)・北向田(きたむかだ)から小口に至る西尾根に横穴墓群が散在しています。そして、これらを有名にしているのが唐の御所です。
 横穴はほぼ真南に向いて開口し、内部は横穴式石室と同じで玄室や玄門、羨道などがあります。玄室の長さは2.75m、中央での幅が2.34m、高さは奥壁前縁で1.9mで、玄室全体があたかも一戸の住宅を思わせるような構造です。
 天井は中央に棟木をつくり出し、左右に切妻の屋根に似せた勾配を持たせています。玄門の外側に戸をはめ込むための彫り込みが施してあり、全国的にみても精巧な遺構です。
 唐の御所は1300年前の横穴の墓で国の史跡に指定されています。周辺には、遠見穴、姫穴などの名称で呼ばれる横穴墓があります。

唐の御所伝説
 平将門の滅亡後その家来の三島城主小高出雲守将良が一族を率いて落ち延びてきました。黄泉寺という一寺を建立した所、後、将門の娘もこれを頼ってこの地に逃れてきたそうです。
 剃髪して如蔵比丘尼と称しました。洞穴にひそんで一子相馬太郎良門を 生みました。その秘密が外に洩れることを恐れて、唐の王妃が配流され隠れ住んでいるといいふらしたそうです。そのために唐の御所と呼ばれるようになりました。



入野家住宅
いりのけじゅうたく
栃木県芳賀郡市貝町赤羽
Tel 0285-68-4380
 入野家住宅は天保7年(1836)に建てられ同12年(1841)に完成した住宅です。入野家は江戸時代初期から名主を務め、この家は村民の救済事業として建てたそうです。主屋と長屋門は国の重要文化財に指定されています。
 主屋は寄棟造、茅葺きで一部が2階になっています。桁行10間半、梁間4間半の主体部と、その上手前よりに桁行7間半、梁間2間半の座敷部がくい違いに配されています。棟は前後に平行してその間を短い棟でつないでいます。
 入母屋造りの長屋門は茅葺きで、桁行9間半、梁間2間半、中央2間半に潜戸付の扉口があります。栃木県の南東部の典型的な上層農家建築で、大きな改造もされておらず、往時の姿がよく保存されています。
 昭和61年(1986)から63年(1988)にかけて主屋の半解体、長屋門の解体工事を行い、当時の姿に復元しています。入野家住宅は市貝町の唯一の国指定重要文化財です。



益子町
ましこまち
栃木県賀郡(はがぐん)益子町益子
 周囲を小高い丘や山に囲まれた益子の町は、世界にもその名をはせている「益子焼」の産地です。メインストリートである益子本通りを中心に、その界隈(かいわい)に点在する窯元や、陶芸販売店などをのぞきながら散策するのが、益子を味わう醍醐味です。
 焼き物に関する店は何と400軒にものぼるといいますから、1日ではとても回りきれないほどです。工場化された大規模な窯から、家族で丹念に営んでいるこぢんまりとした窯まで、じつに多種多様の窯元が存在しているのです。



円通寺
えんつうじ
栃木県芳賀郡(はがぐん)益子町大沢1770
Tel 0285-72-2724
 大沢山円通寺は浄土宗名越派のお寺で、応永9年(1402)良栄上人によって開創されました。大沢文庫を設け足利学校などと並び学問所として多くの僧を育成し、大いに隆盛しましたが、明治時代になって衰退しました。
 円通寺の表門は開創当時の応永9年(1402)頃に建立されたと推定されています。唐様の四脚門で、切妻造り、屋根は昔は茅葺きで現在は銅板葺き、主柱と控柱は丸柱になっています。 装飾の手法は室町時代の特徴をよく表していて、国の重要文化財に指定されています。
 境内の奥の小高い丘には一切経塔が建っています。円通寺40世良範上人が文化6年(1609)入山し、文化13年(1816)に再建したもので、3間4方の重層、屋根は頂部に露盤と宝珠をのせた宝形造りです。中世より江戸時代まで文化の中心を成した大沢文庫の面影を伝える建物で、県指定重要文化財です。
 円通寺は明和5年(1872)に火災にあいますが、表門と一切経塔は焼失を免れて今日に至っています。寺には県指定重要文化財の阿弥陀如来像、観音菩薩像ほか数多くの寺宝を所蔵しています。裏山には県指定重要文化財の入定塚古墳もあります。



西明寺
さいみょうじ
栃木県芳賀郡(はがぐん)益子町益子4469
Tel 0285-72-2957
 独古山普門院西明寺は真言宗豊山派のお寺で、天平9年(737)行基によって創建されました。紀有麻呂が諸堂を建立し、天平11年(739)落慶供養が行われたと伝えられています。坂東33カ所第20番の札所で本尊は十一面観世音菩薩です。
 延暦元年(782)には一山12坊を数えて隆盛を極めましたが、のちに荒廃します。大治2年(1127)に兵火により堂塔12坊すべて灰塵に帰しましたが、治承2年(1178)堂宇宝塔が再建されました。承元3年(1209)には、宇都宮景房によって本堂が修営され、建長年間(1249-1256)には七堂伽藍が再興されて寺観は昔のように壮麗を極めました。
 正平6年(1351)益子城落城の兵火を浴び、すべて焼失しました。応永元年(1394)益子勝直によって堂宇が再建され、明応元年(1492)には楼門が、天文7年(1538)には三重塔が益子宮内大輔家宗によって再建されました。
 元禄14年(1701)平野亦市により本堂の再建が行われ、正徳4年(1714)には閻魔堂が建立され、享保7年(1722)には鐘楼が再建されて現在の姿になりました。

 西明寺三重塔は天文7年(1538)城主益子家宗により建立されました。高さ18.2mの三重塔は、3間3層で、和様、唐様、折衷様の3様式で造られています。屋根は目板打の板屋根銅板葺きという珍しい葺きかたです。
西明寺三重塔
 塔は高欄のない縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは中央間のみ蟇股があります。明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。
西明寺三重塔
 西明寺楼門は明応元年(1492)城主益子家宗により建立されました。純唐様式で3間1戸の重層入母屋造り、茅葺きの堂々たる門です。左右の側室は前後に区切られ、前室に金剛像と仁王像を安置しています。明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。
西明寺楼門
 西明寺本堂は益子勝直によって開扉供養が行われ、元禄14年(1701)大改修で現在の姿になりました。本堂内部の厨子は全唐様式の一間厨子宝形造り板葺きで室町初期のものです。厨子は昭和37年(1962)国の重要文化財に指定されています。
西明寺本堂
 西明寺閻魔堂は正徳4年(1714)に建てられました。寄棟造り、茅葺きです。堂内には県指定文化財の閻魔大王、善童子、悪童子、奪衣婆、地蔵尊の五体の仏像が並んでいます。
西明寺閻魔堂
 西明寺鐘楼は享保7年(1722)に再建された建物です。3間4方、重層宝形造りで茅葺きです。一層は角柱、二層は円柱で、組物は三斗出組で、古い型の鐘楼です。梵鐘とともに県の文化財に指定されています。
西明寺鐘楼



地蔵院本堂
じぞういんほんどう
栃木県芳賀郡(はがぐん)益子町上大羽945ー1
Tel 0285-72-0813
 地蔵院は真言宗智山派のお寺で、本尊は延命地蔵菩薩です。建久5年(1194)宇都宮氏の第3代当主宇都宮朝綱(ともつな)が、創建しました。朝綱は平家の中でも、かなり有力な武将で、平家没落後は源頼朝に仕え、根拠地を宇都宮に移しました。
 朝綱は、建久3年(1192)に長男業綱(なりつな)を亡くし、その菩提を弔うため、仏道に入って寂心と名乗りました。現在の地蔵院の北側に尾羽寺を開き阿弥陀堂に納めたそうです。宇都宮家の菩提寺でもある地蔵院はこの寺を継ぐお寺だったのです。
 地蔵院本堂は、尾羽寺の阿弥陀堂を移築したと伝えられています。移築したのは、天文11年(1542)との記録が残っているそうですので、これ以前の室町時代中期頃に建てられたものと考えられています。
地蔵院本堂
 地蔵院本堂は5間4面の入母屋造りで、屋根はこけら葺き形の銅版葺きです。木割の細い構造で洗練された斗拱や簡単な桟唐戸、内部の波形連子欄間、一木造りの斗拱などの手法は室町期の特徴を良く示しています。大正5年(1916)国の重要文化財に指定されています。
地蔵院本堂
 地蔵院観音堂は3間4面、寄棟造りで銅板葺きです(以前は茅葺きでした)。桁行4.02m、梁間4.02mで高さは5.75mです。簡素な作りで茅負に年代の古さを見ることができます。
地蔵院観音堂



綱神社本殿
つなじんじゃほんでん
栃木県芳賀郡(はがぐん)益子町上大羽2350
Tel 0285-72-3101
 綱神社は建久5年(1194)宇都宮氏の第3代当主宇都宮朝綱(ともつな)が、創建しました。朝綱は平家の中でも、かなり有力な武将で、平家没落後は源頼朝に仕え、根拠地を宇都宮に移しました。
 朝綱は謀反の疑いで土佐に流されました。土佐の加茂明神に祈ってその罪が許されたので、本国に帰った後、賀茂明神を勧請し社殿を建立したそうです。
 綱神社本殿の、現在の社殿は大永年間(1521-1527)に建てられたとみられています。本殿は三間社流造りと呼ばれる構造で、屋根は茅葺きです。本殿は側面1間、正面3間、前面に3間の向拝を設けています。本殿内は円柱で、内部は16角柱が使われています。向拝は面取の角柱を用い、柱下に土台を廻しています。
綱神社本殿
 縦の部材と横の部材を結ぶ斗拱は三斗組で両端は連三斗組、桁行の出組に皿斗を設け、大斗との高さを調整しています。懸魚、向拝中柱上部の手挾、木鼻など素朴で雄健の風を示し、意匠技法とも室町時代の特色をよく表しています。大正5年(1916)国の重要文化財に指定されています。
綱神社本殿

 大倉林(現大羽小学校)に古くから鎮座していた大倉神社は綱神社の摂社となって隣に移されています。大倉神社は、大同2年(807)の創建と伝わる古い神社です。現在の社殿は16世紀前半に建てられたようです。この建物も国の文化財に指定されています。
摂社大倉神社本殿
 本殿は1間4面、前面に1間の向拝を設けています。向拝柱は面取角柱を使用し、本殿は円柱で内部を8角作りにのままにしています。斗拱は三斗組で向拝中央に蟇股を備えています。綱神社と同様に規模は小さめですが室町時代の特徴をよく表しています。
摂社大倉神社本殿



日下田邸
ひげたてい
栃木県芳賀郡(はがぐん)益子町城内坂1
Tel 0285-72-3162
 日下田邸は江戸時代の寛政年間(1789-1801)に建てられました。茅葺き屋根の母屋兼仕事場は、創業時に作られた鍵屋造りの小民家です。母屋と作業場を兼ねたこの建物は平成8年(1996) 県の文化財に指定されています。
 日下田邸は「日下田藍染工房」でもあります。寛政年間に創業され200年以上続けてきています。藍染めを中心とした草木染による染と織が専門です。床には多くの藍甕が整然と埋め込まれています。
 綿花の栽培から綿つむぎ、織りから染めまで全工程を手がけているそうです。藍のほか、紅花や紫草、茜草による染色も手がけています。その高い技術が認められ「草木染め」として平成17年(2005)に県無形文化財に指定されました。



大前神社
おおさきじんじゃ 
栃木県真岡市東郷937
Tel 0285-82-2509
 大前神社の創建は定かではありませんが、延喜式神名帳に記載されている古社です。歴代領主にも崇敬され平将門や芳賀氏は社領の寄進や社殿の造営を行っています。
 芳賀氏は、大前神社の東に若色城を、次いで南に御前城を築き、22代芳賀十郎清原高定に至るまで大前神社社領守護職を兼ねていました。
 芳賀氏の主家である宇都宮氏が改易になり、芳賀氏も所領没収され、大前神社は後ろ楯を失い一時衰退しました。天正18年(1590)徳川家康が江戸入府の時に再興しました。
 本殿は、文禄2年(1593)に建てられました。3間社権現造りで銅板葺きです。見事な彫刻の数々は、宝永4年(1707)名工藤田孫平治を棟梁として彫られたものです。このあと、孫平治は、成田山新勝寺の三重塔の彫刻も施しています。
 大前神社本殿、元禄元年に建てられた大前神社拝殿、享和2年の大前神社両部鳥居、天明3年の銅燈籠は栃木県の重要文化財に指定されています。
 事代主命(恵比寿天)を祀り、境内には台座7m、本体13mという日本一の恵比寿様が鎮座しています。



桜町陣屋跡
さくらまちじんやあと
栃木県真岡市物井2013ー2
Tel 0285-74-3373
 桜町陣屋跡は「二宮金次郎」で有名な二宮尊徳が、付近の農村を復興するための仕事をしていた役所の跡です。文政5年(1822)から天保8年(1837)までの間、二宮金次郎はこの陣屋に赴任し農村の復興に尽力しました。
 敷地の中には、役所のほか、役人詰め所、木小屋、板倉などが建てられ、実用的で質素な家屋です。農民に「勤・倹・譲」を教えとする報徳仕法を広めながら、荒れた農村を見事に復興させました。桜町陣屋跡は国の史跡に指定されています。



二宮神社
にのみやじんじゃ
栃木県真岡市物井2013−2
Tel 0285-75-7155
 二宮神社は尊徳資料館、桜町陣屋跡に隣接しています。二宮尊徳没後50年の明治38年 (1905)に尊徳の遺徳を偲び霊を祀って隣の桜町陣屋内に創建されました。 昭和11年 (1936)の二宮尊徳没後80年に現在の位置に移り、 社殿も新たになりました。
 毎年、 二宮尊徳の命日である11月17日 (旧暦の10月20日)に祭礼が執り行われます。尊徳資料館には、尊徳直筆の書や尊徳が愛用した陣笠・脚絆、脇指し、茶器、火鉢などを展示しています。二宮神社の南の蓮城院には、二宮尊徳のお墓があります。



専修寺
せんじゅじ
栃木県真岡市高田1482
Tel 0285-75-0103
 高田山専修寺は親鸞開創のお寺で、真宗教団連合を構成する浄土真宗10派のうちの一つ,・真宗高田派に属しています。専修寺の創建は嘉禄元年(1225)真岡城主大内氏の懇願により親鸞が信濃善光寺から迎えた秘仏の一光三尊仏を安置し堂宇を建立したのが始まりとされています。
 親鸞の教化活動はそれまでの遊行から専修寺中心になり、建立後約7年間この寺で過ごし、この時期に「教行信証」を書いたそうです。そして北関東の布教の中心として地位を固め、嘉禄2年(1226)には後堀川天皇から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受けました。
 親鸞が京都に帰るとき、道場は直弟子真仏上人に譲りました。真仏上人の後は顕智上人が継ぎ、高田教団は初期真宗教団発祥の地として仰がれました。顕智上人の功績は大きく、今日も「念仏高田」いわれ、毎年8月の顕智忌には、宗派を越して数万の人が参詣するそうです。
  寛正6年(1465)に新たに伊勢に専修寺を建立しそちらを本山としました。その時には後柏原天皇より高田専修寺を正統とすべき綸旨を賜っています。さらに正親町天皇から女房奉書を賜り門跡寺院になりました。以後寺運は隆盛し、今日に至っています。
 真宗寺院では親鸞を祀る御影堂と如来堂(阿弥陀堂)を並べて建てますが、専修寺では総門、楼門、如来堂が一列に並び、そこから矩折りに御影堂が配されています。
 昭和42年(1967)国の史跡に指定され、昭和56年(1981)、如来堂・御影堂・楼門・総門の4棟の建造物が重要文化財に指定されました。親鸞縁の寺宝も多数所有しています。境内の奥の林の中には、親鸞聖人のお墓があり、 聖人の遺歯が9粒埋葬されているそうです。

 境内のほぼ中央にある御影堂は墨書から寛保3年 (1743)年に建てられました。間口23.71m、奥行20.07mの大型建築です。単層寄棟造り、向拝三間付で銅板葺きです。浄土真宗の開祖である親鸞を祀るお堂です。外廻りは派手な装飾を抑えた地味なお堂ですが、中は華麗な装飾が施されています。
専修寺御影堂
 親鸞聖人等身御影 (栃木県指定重文)を正面にし、両脇壇に真仏上人坐像と顕智上人坐像(ともに国の重文) を安置しています。その大きさは栃木県下では日光の三仏堂に次ぐ建物です。国の重要文化財に指定されています。
専修寺御影堂

 如来堂は一光三尊仏を本尊として安置するお堂です。総門、楼門の軸線上に束面配置されています。元禄14年(1701)の建築といわれ、各柱に寄進者の刻名があります。中世密教寺院の仕様で国の重要文化財に指定されています。
専修寺如来堂
 間口18.03m、奥行10.04mの入母屋造り、銅板葺きの本堂らしからぬ建築です。屋根は正面に千鳥破風をのせ、その前に一間の向拝が設置されています。 現在は銅板葺ですが、もとは茅葺で天保6年(1835)に銅板葺に改めたと記されています。柱はすべて円柱となっており、その上の木組みは三手先の詰組みという複雑な 構造になっています。
専修寺如来堂

 総門は創建当初の唯一の建物といわれています。親鸞聖人によって建立された専修寺の伽藍は嘉禄2年(1226)に整いましたが、その後2回の火災により総門以外のほとんどの建物が失われてしまいました。
専修寺総門
 総門は一間薬医門です。切妻造り、茅葺きです。境内の建物の中で最も素朴な建物で、国の重要文化財に指定されています。
専修寺総門

 専修寺の山門でもある門は元禄年間(1688-1703)の建築といわれています。如来堂の正面に位置しています。楼上には、江戸時代に天台座主であった公猷親王の筆になる「高田山」の扁額が掲げられています。昭和56年(1981)国の重要文化財に指定されています。
専修寺楼門



足利学校
あしかががっこう
栃木県足利市昌平町2338
Tel 0284-41-2655
 足利学校は日本最古の総合大学です。隆盛期の天文年間には全国から多くの学徒が儒学・医学・兵学などの授業を受けました。創設については、国学の遺制説、また小野篁(おののたかむら)説、、足利義兼説など様々あります。再興したのは鎌倉にいた関東管領(かんれい)の上杉憲実でした。 
 応永26年(1419)管領の職を継いで以来、尚書正義(しょうしょせいぎ)20巻をはじめ、毛詩註疏(もうしちゅうそ)(重文)、礼記(らいき)正義(国宝)、春秋左伝註疏などを寄進しました。鎌倉円覚寺の僧であった快元を初代庠主(しょうしゅ)(校長)に招くなど学校の復興を図りました。
 憲実の子孫の憲房も父祖の志を受けて書籍を学校に寄進するなど、学校のために尽くしました。7代目の庠主九華(きゅうか)の代になると学校はますます盛況を極め、天文年間(1530-1555)には3000人もの生徒が学んだといわれています。
 宣教師フランシスコ・ザビエルはインドのゴア政庁に「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と報告しています。
 永禄3年(1560)には小田原の北条氏政が金沢文庫の宋版「文選(もんぜん)」(国宝)を寄進しています。
 学校では、儒学を中心に易(えき)学・兵学・医学などが講義されていました。田代三喜・曲阿瀬道三(まなせどうさん)という有名な医師も育ちました。応仁の乱以後、戦国大名が最も必要としたのは卜筮(ぼくぜい)(占いの技術)でした。
 卒業者はその道の権威者として重んじられました。たとえば徳川家康に仕えた第9代の庠主三要(さんよう)は有名です。家康に気に入られ孔子廟の修理もやってもらったほどでした。
 江戸時代末期には藩校へと移行し、明治5年(1872)廃校になりました。孔子廟と学校門を残し、それ以外の方丈などは取り壊されました。昭和57年(1982)「史跡足利学校跡保存整備事業」に着手し平成2年(1990)12月に復元され江戸中期の姿に蘇りました。

 足利学校では、歴史ある三つの門を通ります。最初の門が、「入徳」と書かれた門、次に「学校」と書かれた門、最後が、「杏壇」(きょうだん)と書かれた門で、いずれも国の史跡指定になっています。
 寛文8年(1668)の創建ですが、天保2年(1830)の火事により類焼、同11年(1840)ころ再修築、それも腐朽し、明治の中頃、通用門を移転修築したと伝えられています。
入徳門
 寛文8年の創建です。「学校様」という言葉があるくらい足利市民には愛着がある学校のシンボルです。
学校門
 杏壇門(きょうだんもん)は寛文8年の創建ですが、明治25年(1892)の火事により類焼、同30年代に再建されたものです。杏壇門をくぐり抜けると、正面に聖廟があります。
杏壇門
 聖廟(せいびょう)は孔子様を祀ってあり、孔子廟ともいいます。建物の名称は大成殿で、寛文8年(1668)に造営されたものです。 建物は清楚簡潔でその様式は明の古廟を模したものと伝えられています。聖廟の中には、孔子坐像・小野篁公像・四配などが納められています。
聖廟
 方丈は学生の講義等に使用され、茅葺屋根の建築物としては最大級のものでしたが、明治5年(1872)廃校と同時に取り壊されました。平成2年(1990)12月に復元されたものです。
方丈



鑁阿寺
ばんなじ
栃木県足利市家富町2220
Tel 0284-41-2627
 鑁阿寺は山号を「金剛山」、院号を「仁王院」、坊号を「法華坊」とし、真言宗大日派の別格総本山です。建久7年(1196)、足利(源)義康が屋敷内に堀内御堂を建立し、持仏である大日如来像を祀ったの始まりとされています。
 12300坪の鑁阿寺境内には諸堂が数多く建ち並んでいます。創建当初の本堂、鐘楼、経堂は国の重要文化財です。 
 文暦元年(1234)3代目足利義氏が堂塔伽藍を建立し足利一門の氏寺としました。 周囲に土塁と堀をめぐらした寺域はほぼ正方形で、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています。大正11年(1922)国の史跡に指定されています。 
 中世は足利氏に庇護され寺運が隆盛し支院は12を数え、南北朝時代の終わりごろには、鶴岡八幡宮の別当になりました。足利氏の衰退とともに衰え、豊臣秀吉の兵火で堂宇の一部を焼失しましたが、天正19年(1591)徳川家康が寺領60石を寄進し鑁阿寺を再興しました。
 創建以来災禍に合わず、中世東国史研究に必要不可欠な「鑁阿寺文書」を初めとする数多くの古文書、寺宝を有しています。鑁阿寺文書には、鎌倉期の足利義氏、泰氏、家時、貞氏の文書、室町期以降の足利尊氏、直義、鎌倉・古河公方などの文書を含んでいます。 
 室町幕府初代将軍となった足利尊氏が後醍醐天皇から賜った「日月之太刀」、尊氏愛用の「左文字太刀」、平家物語にも登場する、源家相伝の宝刀「髭切丸」、足利義氏寄進の「落葉陣刀」などがあります。

 鑁阿寺の本堂である大御堂は大日堂ともiいい、鑁阿寺で最初に建てられ、本尊大日如来を祀っています。建久7年(1196)足利義兼が持仏堂として創建しました。その後天福2年(1234)足利義氏が大改修しています。弘安10年(1287)に落雷で炎上し、これを足利貞氏が復興しています。現在のお堂は正安元年(1299)足利家時によって再建された建物です。
鑁阿寺本堂
 桁行5間、梁間5間、1重、入母屋造りで正面向拝3間、軒唐破風附、背面向拝1間の本瓦葺きです。構造は雄大で手法は剛健で鎌倉後期の唐様に和様を加味した建築様式です。内部の厨子も価値の高いものです。
鑁阿寺本堂
 脇本尊として護摩壇に薬師如来、左壇に聖観世音菩薩と聖天様を祀り、後方壇に弘法・興教大師、金剛界大日如来、鑁阿上人(義兼)像を安置しています。足利尊氏の百箇日に当たる延文3年(1358)に、ここで尊氏追善の曼陀羅供が修せられています。 
鑁阿寺本堂

 国重文の経堂は足利義兼が、妻の供養のため一切経会を修する道場として創建したそうです。現在の建物は応永14年(1407)関東管領足利満兼により再建されたもので、宝永5年(1708)屋根を修理しています。昭和9年(1934)に改修の際、現在のような黄土色の色彩になったようです。
一切経堂
 桁行5間、梁間5間、2重の宝形造りで、本瓦葺きです。中央に見上げるほどの八角形の経棚があり廻転できるようになっています。壁面には、足利尊氏から始まって室町幕府15歴代将軍の坐像があります。創建時の平面をそのままに応永・宝永の修繕で、鎌倉・室町・江戸の色彩が含まれます。
一切経堂

 鐘楼は本堂と同じで、建久7年(1196)足利義兼によって建てられました。桁行3間、梁間2間、袴腰附、入母屋造りの本瓦葺きです。再建年代ははっきりしませんが、簡素な形状と細部における手法で鎌倉時代建築の特質を伝えています。昭和26年(1951)に国の重要文化財に指定されています。
鑁阿寺鐘楼

 栃木県指定重要文化財の山門は楼門とも仁王門ともいい、建久7年(1196)義兼が創建しました。現在のものは室町13代将軍足利義輝によって再建されたものです。屋根には右より「二引両」「菊紋」「五七桐紋」が入っています。 
鑁阿寺山門
 菊紋は花園天皇より貞氏が勅願所として受けたものであり、五七桐紋は後醍醐天皇が建武の中興時に尊氏に授けたものです。門前の堀に架かっている屋根付きの橋は太鼓橋といい、江戸時代後期の建造で、栃木県指定重要文化財です。
鑁阿寺山門

 栃木県指定重要文化財の多宝塔は建久7年(1196)義兼が創建し、寛永6年(1629)に再建された建物です。相輪の宝珠にある刻銘に、寛永6年再建の印が入っています。元禄5年(1692)徳川5代将軍綱吉の生母桂祥院尼によって改修されました。多宝塔は全長21mあり、全国でも最大級の多宝塔です。
鑁阿寺多宝塔
 内部には多宝塔の本尊金剛界大日如来座像、勢至菩薩、十六羅漢像、十二神将像があります。木製の足利家大位牌、足利・徳川両将軍家位牌の他、清和天皇から源義家の7代、義国からの足利家当主、及び室町将軍家、鎌倉公方、古河公方などの位牌が安置されています。
鑁阿寺多宝塔

 天然記念物に指定されている大銀杏は樹齢約550年といわれています。江戸時代でも大木でした。この木の下で大日如来を前にして青年男女のお見合いが行われました。このことから縁結びの御神木といわれています。周囲9m、高さ30mで昔から避雷針の役目を果たしてくれたそうです。
天然記念物大銀杏



佐野厄除大師(惣宗寺)
さのやくよけたいし(そうしゅうじ)
栃木県佐野市金井上町2233
Tel 0283-22-5229
 佐野厄除大師は川崎大師、西新井大師と並ぶ関東三大師の一つです。正式な名称は春日岡山惣宗寺で、慈恵大師を祀る天台宗のお寺です。厄よけ元三慈恵大師を安置し、厄よけ祈願のお寺として有名です。正月の大祭には毎年百万人以上の参拝者で賑わいます。
 惣宗寺の創建は天慶7年(944)平将門の乱を平定した藤原秀郷が開基となり、奈良の僧宥尊(ゆうそん)上人が開いたのが始まりと伝えられています。その後一時衰退しましたが永仁年間(1293-1299)に俊海が再興、伏見天皇の勅願所として、転法輪院の号を賜りました。中世には領主佐野氏の庇護を受け隆盛しました。
 慶長7年(1602)、佐野氏の居城唐沢山城が廃城を命じられ惣宗寺のあった春日岡に移築する事になり、惣宗寺は現在地に移されました。佐野氏は慶長19年(1614)に改易となりましたが、元和3年(1617)に惣宗寺が家康の遺骸を駿河国久能山から日光東照宮に移す際の宿所となった事から幕府から庇護されるようになりました。
 江戸時代を通して御朱印50石を受け、3代将軍徳川家光も参拝しています。文政11年(1828)には幕府が東照宮を惣宗寺境内に造営しています。また、惣宗寺は比叡山延暦寺中興の祖とされる良源(りょうげん)を祀る佐野厄除大師として多くの参拝者を集めています。
 良源は俗称を木津氏といい、12歳の時、比叡山に登り出家しました。康保3年(966)、18代天台座主となり叡山中興の祖と崇められました。大師が生前の時、描かれた現存する日本最古の御影もあります。
 境内にある麗水観音は優しく迎えてくれます。日本随一の水子地蔵尊も安置しています。本尊は身の丈、約8尺余りの総金箔押しの仏体です。日本では年間230万もの幼な児のみ魂が闇から闇へ葬られているといわれており、厄除大師一千年御遠忌の記念事業として建立されました。
麗水観音
 東照宮社殿は徳川家康の遺体を久能山から日光東照宮に移す途中、惣宗寺に一夜安置した記念に文政11年(1828)に建てられました。
東照宮社殿



大平山あじさい坂
おおひらさん あじさいざか
栃木県栃木市平井町大平山
 あじさい坂は太平山自然公園六角堂前から大平山神社随神門までの1000段の石段の太平山神社表参道です。6月中旬から7月上旬にかけて、石段の両側に、色とりどりのあじさいが咲きそろいます。
  この時期のあじさい坂は、雨のしたたるあじさいと雨蛙の鳴き声が相まって、実に趣深い情景をかもしだしています。「日本の音風景100選」にも選ばれています。
 約2500本の西洋あじさいをはじめ、額あじさいや山あじさいなどが植えられていて、毎年6月中旬になるとあじさい祭りが行われ、たくさんの人で賑います。
 六角堂は太平山の中腹、表参道の登り口にあり、連祥院という名ですが、京都六角堂を模倣しているためこの名で知られています。本地仏は山城国国宝寺の虚空蔵尊を移したもので、作は聖徳太子といわれています。
六角堂



太平山神社
おおひらさんじんじゃ
栃木県栃木市平井町659
Tel 0282-22-0227
 太平山神社は天長4年(827)淳和天皇の勅願により慈覚大師により創建されたといわれています。明徳3年(1392)後小松天皇から勅額を賜り、隆盛し最盛期には摂末社および寺院が80余に及んだそうです。
 天正12年(1584)に太平山一帯は、北条氏と皆川氏との戦いの激戦地となり太平山神社も兵火にあい多くの社殿や記録、社宝が焼失しました。江戸時代に入ると幕府から庇護され3代将軍徳川家光により社領50石が安堵されました。
 元治元年(1864)には水戸天狗党が太平山多聞院に本陣を置き尊皇攘夷の旗印を揚げをしました。この神社には神仏混合の名残りで、神仏分離令以前は虚空蔵菩薩を奉っていました。境内には仏堂だった星宮神社や仁王門だった随神門などが残り神仏習合の名残を見ることかができます。



大平山・謙信平
おおひらさん・けんしんだいら
栃木県栃木市平井町
Tel 0282-25-2356 (栃木市観光協会)
 太平山県立自然公園の中心部をなす太平山は、栃木市街の中心から西方、約5kmに位置しています。標高345mの山頂には太平山神社が立ち、桜やアジサイ、紅葉の名所になっています。
 寛永11年(1568)関東平野で敵対した越後の上杉謙信と小田原の北条氏康は大中寺で和解しました。その直後、上杉謙信は軍を引き連れて太平山に登り兵馬の訓練を行いました。その時に謙信は南の方に空の果てまで広がった平原を見渡して、あらためて関東平野の広さに目を見張ったといわれています。その場所が「謙信平」と呼ばれています。
 謙信平からの眺めは田園に点在する丘や林が小島に見えることから、「陸の松島」とも呼ばれています。






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