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日本の旅
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茨城県天心記念五浦美術館
いばらぎけんてんしんきねんいづらびじゅつかん
茨城県北茨城市大津町2083
Tel 0293-46-5311
 岡倉天心の全てがわかる近代日本画の美術館です。天心の弟子になる横山大観、菱田春草など五浦にゆかりのある作家の作品や資料を合わせて紹介しています。平成23年(2011)3月11日、東日本大震災で被害を受けましたが、8カ月後の11月1日に美術館は再開しています。
 岡倉天心は文久2年(1863)横浜に生まれました。急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。
 岡倉天心は、明治22年(1889)、東京美術学校校長となります。恩師でもあった外国人教師アーネスト・フェノロサと協力して、日本の古美術の保存と研究に努めました。また、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てていきました。



五浦海岸
いづらかいがん
茨城県北茨木市大津町椿
 茨城100景に選ばれている五浦です。茨城県の最北東部、太平洋に向かって半島状に突き出した先端が風光明媚なことで知られる北茨城市五浦海岸です。南から「小五浦」「大五浦」「椿磯」「中磯」「端磯」の五つの浦(磯)を称して五浦と呼んでいます。
 ここは茨城県と福島県の県境に近いところです。緑豊かな松の色と白い砂浜や男性的な岩肌など風光明媚なところです。日本の渚百選、日本の音風景100選、日本の白砂青松100選にも選ばれています。
 平成10年(1998)春にオープンした五浦岬公園からは岡倉天心ゆかりの六角堂を見ることができます。太平洋越しに臨む朱色の六角堂と、岩に砕け散る波、緑の松林が織りなす風景は、一枚の絵のようです。
五浦岬公園
 大津漁港に出入りする船舶や沿岸を航行する船舶の大切な道しるべとなっている大津岬灯台があります。昭和35年(1960)に設置点灯されました。その後、昭和63年(1988)3月機器の改良により光力の増大が行われました。光源には、100V・500Wのハロゲン電球が使用されています。
大津岬灯台



岡倉天心の墓
おかくらてんしんのはか
茨城県北茨城市大津町五浦
 岡倉天心の墓は天心没後の大正2年(1913)東京の染井霊園から分骨されて埋葬されました。
 天心の辞世
 「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 12万年明日の夜 弔い来ん人を松の影」
 An Injunction(戒告)と題した英詩には天心の死に対する思いが遺志として書かれていました。歴史的・文化的に価値の高い史跡です。



五浦六角堂
ごづらろっかくどう
茨城県北茨城市大津町五浦727−2
茨城大学五浦美術研究所内
Tel 0293-46-0766

平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で六角堂は津波で消失しました。

 五浦美術文化研究所の地所と建物は、昭和17年(1942)に岡倉天心の遺族より岡倉天心遺跡顕彰会に寄贈されました。その後、昭和30年(1955)茨城大学に移管され、茨城大学五浦美術研究所となっています。
 現在の研究所敷地内には、明治38年(1905)に建てられた六角堂、その前年に建てられた旧天心邸、長屋門などがあります。またウォーナー像や、天心記念館もあります。
 岡倉天心が日本美術再興を期して日本美術院を五浦海岸に移したのがこの研究所です。晩年、天心は海岸を見渡す場所に六角堂を建立し、中から太平洋の荒々しい姿を望みながら研究にふけったようです。
 六角堂は太平洋に張り出した岩盤の上に、天心自身の設計により建てられました。赤い六角形の堂は「観瀾亭」と名づけられました。
  岡倉天心を師と仰ぎ、五浦に集ったのは、横山大観をはじめ、下村観山、菱田春草、木村武山といった当時の若者達でした。



野口雨情記念館
のぐちうじょうきねんかん
茨城県北茨城市磯原町磯原130−1
Tel 0293-43-4160
 「赤いくつ」「あの町この町」「七つの子」「十五夜お月さん」などの童謡でも広く知られる野口雨情の記念館です。雨情は明治15年(1882)茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれています。
 野口雨情に関する、全国各地から収集された雨情の作品や書、著作などが展示されています。2階は北茨城市歴史民俗資料館になっていて昔使われていた道具などが展示されています。
 野口雨情は藤井清水や中山晋平や本居長世と組んで多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。



袋田の滝
ふくろだのたき
茨城県久慈郡大子町(だいごまち)大字袋田
Tel 0295-72-1111
 袋田の滝は日光の華厳の滝、紀伊の那智の滝と並んで「日本3大名瀑」の1つです。久慈川の支流・滝川の上流にある高さ120m、幅73mの堂々たる滝です。大岸壁を四段に流れることから、別名「四度の滝」とも呼ばれています。
 袋田の滝は日本の滝100選にも選定されています。平成2年(1990)に行われた日本の滝100選の人気投票では堂々1位を取っています。
 江戸時代は水戸藩の領地でした。水戸黄門として知られる徳川光圀も訪れたそうです。また、西行法師も訪れており、「四季に一度ずつ来てみなければ本当の良さはわからない」と絶賛したそうです。
 滝の正面に出るために昭和55年(1980)に276mのトンネル通路が開通し雄大な滝を眺めることができるようになりました。平成20年(2008)新観瀑台がオープンし、2機のエレベーターで、40m以上も上から、最上段を含めた滝の全景を観賞することができるようになりました。



月待の滝
つきまちのたき
茨城県久慈郡大子町(だいごまち)川山1369
Tel 0295-72-3993 (滝見茶屋もみじ苑)
 月待の滝は久慈川の支流大生瀬川が作り出す落差15m、幅約10mの三筋に流れ落ちる滝です。日本三大名瀑の「袋田の滝」の北に位置しています。春夏秋冬いつ見ても素晴らしい風情があります。
 遠目から眺めると流れ落ちる水がきれいな放物線を描いています。滝の水しぶきで身を清め開運・安産のお地蔵様にお祈りすれば願いが叶うといわれています。
 古来から安産の神・二十三夜尊の信仰の地とされています。滝の内側で二十三夜の月が出るのを待って安産祈願をしたことから「月待の滝」という名がついたと云い伝えられています。
 滝の裏側にある空洞に入ることができます。全国でも珍しい「裏見の滝」です。滝の内側から眺める水の流れは神秘的で荘厳です。テレビドラマ「ガラスの仮面」の舞台になりました。



竜神大吊橋
りゅうじんおおつりはし
茨城県常陸太田市天下野町
Tel 0294-85-1116 (常陸太田市観光物産協会水府支部)
 竜神大吊橋は、奥久慈県立自然公園内にあり、竜神ダムを見下ろすようにかかっている観光吊橋です。全長375m、高さが湖面から約100mと、迫力満点です。歩行専用吊り橋としては日本一の大きさです。
 竜神大吊橋は桁は横風にも強いトラスト補剛型式、ケーブルはパラレルワイヤーケーブルを採用した本格的な長大吊橋の形式です。風速30m/秒にも耐え、一度に3500人もの人が渡っても大丈夫な設計になっています。
 紅葉が素敵でしたが、4月末から5月にかけての鯉のぼり祭りが凄いそうです。毎年ニュースになるそうですが、1000匹の鯉のぼりが渓谷を泳ぐということです。



竜神ダム
りゅうじんだむ
茨城県常陸太田市天下野町
Tel 0294-85-1116 (常陸太田市観光物産協会水府支部)
 竜神ダムは昭和54年(1979)に完成しました。竜神川をせき止めて作られ、ダムから川に沿って亀ヶ淵まで通じるハイキングコースができています。川の水面はとても穏やかです。
 ダム湖の上には歩行者専用の吊り橋である竜神大吊橋が架けられています。竜神川の水を静かにたたえるこのダムは人工湖「竜神湖」になっています。
 ダム湖の遊歩道は、竜神大吊橋から周遊できるようになっていて、四季折々の美しい風景の中でハイキングを楽しむことができます。ダム湖の奥の亀が淵は神秘的な姿を見せてくれます。亀が淵には、昔、竜が住んでいたという伝説があり、その伝説を基に してこの 吊り橋の名前がつけられたそうです。



弘道館
こうどうかん
茨城県水戸市三の丸1丁目6ー29
Tel 029-231-4725
 弘道館は天保12年(1841)に水戸9代藩主斉昭が藤田東湖や会沢正志斎などの学者の意見を聞いて、多くの困難な障害をのりこえ創設した水戸学修練のための藩校です。
 藩士に文武両道の修練を積ませようと武芸一般はもとより、文学・儒学・医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた、いわば総合大学というべきものでした。
 弘道館には正庁・至善堂・文館・武館(撃剣館・槍術館・柔術館)軍機局・天文・算数・地図等の館・医学館などがあり、広い調練場や馬場を備えていました。
 当時の藩校としては国内最大規模で、敷地は5万4千坪と萩の明倫館の3倍という広さでした。藩士の子弟は15歳から入学出来ましたが、「学問に終わりなし」という斉昭の方針で、「卒業」という制度はなかったそうです。
 弘道館建学の方針を示す「弘道館記」の内容や学校教育の理念は天下で有名になりました。これは藤田東湖が草案を考え、斉昭の名で発表されたものです。
 第15代の将軍となった徳川慶喜も父斉昭の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。慶喜が大政奉還したのは、ここで幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想が根底にあったためであると推察されます。
 天狗党の乱鎮圧後、水戸藩は諸生党が実権を握りましたが、戊辰戦争が勃発し、朝廷から追討令が出され、本圀寺党や天狗党の残党など改革派が台頭してきます。諸生党は脱藩して会津戦争・北越戦争などに参戦し、会津藩が降伏すると、水戸に戻りました。諸生党は改革派の家老・山野辺らが水戸城の防備を固めていたため、入城できず、三の丸にあった弘道館を占拠しました。
 両派による激しい銃撃戦の後、諸生党は水戸を去りました。この戦闘で、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失。城内の建物のみならず、多くの貴重な蔵書も焼失しました。
 明治5年(1872)弘道館は閉鎖されました。明治8年(1875)太政官布告によりここは公園となり、建物は明治15年(1882)まで県庁として使われました。昭和27年(1952)弘道館は国の特別史跡に指定されました。

弘道館正門
 弘道館正門は水戸城三ノ丸にあり、大手橋に向かい、正庁の正面にある門です。棧瓦葺きの4脚門で、左右に瓦葺きの漆喰塗りの土塀が続いています。
弘道館正門
 明治元年(1868)に起こった弘道館戦争で、水戸藩内の保守派の諸生党と改革派との戦いで正門、正庁、至善堂以外は焼失しました。正門には当時の弾痕が残っています。国の重要文化財に指定されています。
弘道館正門
 
弘道館正庁
 弘道館正庁(学校御殿)は戦災を免れ、国の重要文化財に指定されています。正庁の間は藩主が臨席し、文武の大試験、その他の儀式などに用いられた第一の場所です。正庁の鴨居には、弘道館戦争の内戦時の弾痕が生々しく残っています。
弘道館正庁
 正席(一の間)は24畳で床の間、棚、書院があります。二の間は15畳、三の間は12畳、玄関の間は24畳で床の間があります。・溜(たまり)の間は12畳と6畳です。各部屋の周りには広い畳廊下があります。
弘道館正庁

至善堂
 正庁から広い畳廊下を通って奥に入ると、藩主の休息所であり、諸公子の勉学所であった至善堂があります。至善堂の名は、斉昭が中国の経書「大学」からとって命名したものです。奥の御座の間をはじめ4室あります。
至善堂
 5代将軍となった徳川慶喜(七郎麿)、鳥取の池田慶徳(五郎麿)、川越の松平直侯(八郎麿)、岡山の池田茂政(九郎麿)、石見浜田の松平文武聴(十郎麿)など、みな水戸城から大手橋を渡って弘道館へ通い、勉学したそうです。。
至善堂
 特に至善堂は明治元年(1868)に最後の将軍となった徳川慶喜が謹慎された部屋として有名です。慶喜は、慶應4年(1867)江戸無血開城のあと、故郷の水戸に戻りここで謹慎しました。国の重要文化財に指定されています。

孔子廟
こうしびょう
 斉昭は弘道館を開設するにあたって、その敷地内に、精神のより所としての鹿島神社と孔子廟をまつり、学校の聖域としました。安政4年(1857)孔子廟が弘道館構内に建立され、孔子神社を廟中に安置してその霊を祀りました。
孔子廟
 文武周公の平天下治民の教えが、孔子によって広まりました。その徳を弘道館では敬慕し、その教義を採り入れたのです。
 孔子廟の前に楷の木があります。楷の木はうるし科の植物で、俗に孔子木と呼ばれています。孔子の墓にある聖木として有名です。
孔子廟



水戸城址
みとじょうし
茨城県水戸市三の丸
Tel 029-224-1111
 水戸城は、建久4年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、大掾(だいじょう)に任ぜられたのに始まります。以後、馬場大掾氏は9代約240年間この地を治めました。
 15世紀のはじめ、那珂通辰の子孫で河和田(かわだ)城主の江戸通房が馬場大掾満幹を追放して居城しました。そして城郭を拡張して160年間水戸地方を支配しました。天正18年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏との戦いに勝利し、水戸を本拠としました。
 佐竹氏は城の出入り口を東側から西側に移し、橋詰門を建てました。二の丸に大手門を造り、本丸、二ノ丸など曲輪を造り上げました。54万石を有した佐竹義宣でしたが関ヶ原の戦いで石田側についたため慶長7年(1602)、秋田に減封されてしまいました。
 その後、慶長7(1602)に下総佐倉城から家康5男の武田信吉が入封しますが、翌年に病死します。その後、家康10男の頼宣が入封しますが駿河に転封します。(後に紀州徳川家の祖となります)慶長14年(1609)に第11男の頼房が下妻城から封ぜられ水戸徳川家が誕生しました。2代藩主光圀(みつくに)、9代藩主斉昭を経て、11代藩主昭武(あきたけ)まで260年、35万石の水戸領を治めました。
 水戸城には天守閣や石垣はなく、二ノ丸に館と三階櫓(やぐら)がありましたが、明治5年(1872)の火災や昭和20年(1945)の戦災で全焼しました。現在は本丸跡・二ノ丸の入口など3ヶ所の土塁と濠が県指定史跡となっています。

 旧水戸城薬医門は、旧水戸城に現存するただ一つの建造物です。旧本丸跡の県立水戸一高敷地内に移築復元されています。正面の柱の間が3つ、出入口は中央だけの3間1戸の薬医門、2つの脇扉がついています。昭和58年(1983)に県の有形文化財に指定されています。
旧水戸城薬医門
 本丸の表門である橋詰御門ではないかと推察され、佐竹氏の時代に創建され徳川氏に引き継がれたものといわれています。安田初代県知事が自宅にこの門を移築し、豪商の小山田氏が安田邸を買取り、祇園寺に移築された後、水戸市に寄贈され、昭和56年(1981)現在地に移されました。
旧水戸城薬医門

 「大日本史編纂の地」という石碑が三の丸・彰考館跡に建てられています。「大日本史」は、 中国の「史記」に匹敵するような歴史書を日本にも作ろうと、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が明暦2年(1657)から編纂を開始したものです。光圀が水戸に隠居してからは三の丸の彰考館で行われました。完成したのは250年後の明治39年(1906)でした。
大日本史編集石碑



水戸東照宮
みととうしょうぐう
茨城県水戸市宮町2ー5ー13
Tel 029-221-3784
 水戸東照宮は元和7年(1611)、水戸徳川家初代藩主頼房(威公)によって、ここ霊松山に造営されました。祭神は東照大権現(徳川家康)です。頼房は家康の11男です。
 元和10年(1614)朝廷から勅使として三条大納言藤原公広が、幕府からは山門探題天海大僧正が参向して盛大に遷宮の大祭を行ないました。同年2代将軍秀忠の霊屋が建てられ、以降、歴代将軍の霊が相殿として祀られました。
 三所権現ともいわれ、東照大権現(徳川家康)の他に、山王権現と麻多羅神(唐の青龍寺の鎮守神で、比叡山の鎮守である日吉大神と同神とされています)を合祀しています。
 朱塗り権現造りの社殿は荘厳で家康の偉功を今に伝えています。現在は徳川頼房も祭神になっており、家内、交通安全・商売繁昌・合格祈願・豊作・大漁に御利益があるそうです。
 創建当時からの社殿は大正6年(1917)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)の戦災により全焼してしまいました。現社殿は昭和37年(1962)の再建です。社宝の「家康の佩刀」は重要文化財に指定されています。

 東照宮内に銅造燈籠があります。水戸藩祖、徳川頼房が祭神徳川家康の三十三回忌にあたる慶安4年(1651)に奉納したものです。高さ2.9m、竿は円筒で下部に広がって張りを見せています。水戸市の文化財に指定されています。
銅造燈籠

 東照宮内に常葉山時鐘があります。寛文7年(1667)、水戸城における太鼓による時報に代わるものとして鋳造された銅鐘です。二代目藩主光圀の命により造られたそうです。水戸市の文化財に指定されています。 
常葉山時鐘



茨城県護国神社
いばらぎけんごこくじんじゃ
茨城県水戸市見川1ー2ー1
Tel 029-241-4781
 昭和14年(1939)4月、国の方針により各県下に英霊を奉斎する護国神社創建の事が決定し、これにより水戸桜山の現在地に建設が決定されました。昭和16年(1941)11月に創建されました。
 明治11年(1878)、水戸市常磐神社の境内地に、「鎮霊社」が創祀されました。祭神は幕末から明治維新にかけて、国のために殉じた水戸藩関係の烈士等1800余柱の御霊でした。
 「鎮霊社」から昭和14年(1939)「鎮霊社護国神社」に改称され、昭和16年(1941)「茨城県護国神社」に改称し、現在地の偕楽園内の桜山に遷座しました。その後の大東亜戦争における茨城県出身の戦没者も祀っています。6万3千400余柱にのぼるということです。



千波公園
せんばこうえん
茨城県水戸市2506−1
Tel 029-224-0441 水戸観光協会
 千波公園はひょうたん型の千波湖(せんばこ)に面した公園です。偕楽園の南東に位置していて梅の季節にはここからの眺めも抜群です。
 千波湖は、水戸市にある那珂川水系の湖です。千波湖と桜川は水戸城の南側の外堀の役目を果たしていました。
 湖畔には水戸黄門像、つまり水戸藩第2代藩主徳川光圀の像が建っています。湖のほとりには、茨城県近代美術館と茨城県立県民文化センターが建てられています。
 千波湖は面積は約33万2千平方mで周囲約3.1kmあり、たくさんの渡り鳥がえさを求めて集まってきます。水戸藩主斉昭も偕楽園からその風景を楽しんだという風光明媚な公園です。



偕楽園
かいらくえん
茨城県水戸市常盤町1−3−3
Tel 029-244-5454
 梅の公園として有名な偕楽園は、水戸第9代藩主徳川斉昭が、天保13年(1842)に造った庭園です。金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに、日本三公園に数え上げられています。
 偕楽園は孟子の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から取ったもので、徳川斉昭が命名しました。
 天保10年(1839)に「偕楽園記」が斉昭の自撰自書で書かれ、天保12年(1841)から造園工事が始まり翌年に完成し開園しています。偕楽園は千波湖を望む七面山に造られ敷地の東側を梅林、西に竹林と杉林、それら望む位置に好文亭が建てられました。
 偕楽園は単に美しい庭園を楽しむというだけではなく、藩校である弘道館の付属施設の性格も持っていました。弘道館が文武修行の場であるのに対して、偕楽園は修行の余暇の休養の場とされたのでした。
斉昭は水戸藩の江戸藩邸の梅の実を採ってきて偕楽園に梅を植えたようです。この梅は鑑賞だけでなく、飢餓に備えると同時に万一の戦いの時の非常食にもなったようです。
民と偕(とも)に楽しむ偕楽園は領民にも開放され、毎月「三」と「八」が付く日は入場が許されたそうです。明治維新後に国有地となり明治6年(1873)に「常磐公園」の名で一般公開され今日に至っています。
 約13ヘクタ−ルの庭園には、100品種約3000本に及ぶ梅林や桜、紅葉、孟宗竹、霧島つつじ、宮城野萩などがあり、観梅、紅葉の人々で賑わいます。 当初の広さは、現在の常磐神社の境内を含み14万7000平方mありました。
 園内には二季咲桜という桜もあります。シキザクラ(和名)の仲間で、秋から冬にかけてと、春に咲く桜です。初代の樹は水戸藩士久米某邸内にあったものを移し植えたと伝えられています。
 平成11年(1999)に隣接する千波公園などとあわせて名称を「偕楽園公園」となりました。面積は合計300ヘクタールになり、都市公園としてはニューヨーク市のセントラルパークに次いで世界第2位の広さがあります。


 吐玉泉の湧水は、茶室何陋庵(かろうあん)の茶の湯に供用されました。 昔からこの場所には湧水が出ていて、眼病に効くといわれていたそうです。周りの景色に合うように真弓山の寒水石といわれる大理石で造られています。今まで一度も水が枯れたことはないそうです。
吐玉泉

 太郎杉と呼ばれる樹齢760年といわれる杉の巨木が吐玉泉のすぐ近くにあります。夫婦杉のように根本から2つに分かれていますが右側の杉です。杉は昔から一種の神聖な樹木と考えられ、神社などに多く植えられています。
太郎杉

 正岡子規の句碑があります。

 崖急に
  梅ことごとく斜なり

 明治時代の俳人正岡子規が偕楽園を訪れた際、南崖の梅を詠んだものです。
正岡子規の句碑

 僊湖暮雪(せんこのぼせつ)の碑は烈公の書です。中国の瀟湘(しょうしょう)八景になぞらえ、水戸藩内の景勝の地を8ケ所選び、水戸八景と定めました。青柳夜雨・太田落雁・山寺晩鐘・広浦秋月・水門帰帆・村松清嵐・僊湖暮雪・厳船夕照の8つで、偕楽園は「僊湖莫雪」に選定されていました。
僊湖暮雪の碑


好文亭
こうぶんてい
 好文亭という名前は、梅の異名である「好文木」(こうぶんぼく)から命名されたそうです。中国の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」が基になっています。
 好文亭は水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭により偕楽園内に詩歌の会や茶会などを催すために建てられたそうです。斉昭自らその位置や建築意匠を定めたといわれています。
 2層3階の好文亭と北につながる木造平屋建ての奥御殿から成り立っています。一般に全体を総称して好文亭と呼んでいます。
 派手さのない質素な,質実さと優雅さが調和した心和む伝統建築です。ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を催しました。
  奥御殿には菊の間、桃の間、つつじの間、桜の間、萩の間、紅葉の間、松の間、竹の間、梅の間、清の間の10室あります。
  奥御殿は茅葺きの平屋の建物です。好文亭の奥にある御殿で、襖に描かれた四季の優雅な絵が迎えてくれます。
 松の間は奥対面所で、紅葉の間は、次の間です。藩主婦人や、高貴の方々の座所で、紅葉の間との間には入側をもって隔てています。
 桜の間、つつじの間、萩の間は、藩主夫人が城中から好文亭に来られたとき、お伴の御殿女中が休息した部屋です。
 竹の間、梅の間、清の間(せいのま)の3室の1棟は、明治2年(1869)に水戸市柵町にあった中御殿の一部材料を運び奥殿に増築したものです。
 好文亭は昭和20年(1945)の水戸空襲により焼失しましたが、昭和30年(1955)から3年かけて復元されました。奥御殿は昭和44年(1969)、落雷により再び焼失し、昭和47年(1972)に復興されています。
 好文亭と奥御殿とを結ぶ通路はとても狭く作られています。これは武器を持った敵が乱入した際、その動きを封じるねらいがあったようです。
 廊下の左側に篠で作った格子窓があります。外からは窓であることが判らないように工夫されています。
 茶室「何陋庵(かろうあん)」は、亭の西北に位置しています。床柱は、島津斉彬から贈られたつつじの巨木が使われています。
 好文亭は名建築で随所に数奇屋的趣向が見られます。建材も吟味され3階の楽寿楼からの景色は千波湖が一望できます。



常磐神社
ときわじんじゃ
茨城県水戸市常磐町1−3−1
Tel 029-221-0748
 常磐神社は偕楽園に隣接している神社です。義公と呼ばれた第2代水戸藩主・徳川光圀と烈公と呼ばれた第9代水戸藩主・徳川斉昭を祀っています。この2人は学問の神様として信仰されています。
 明治の初めに徳川光圀と斉昭の徳を慕う水戸藩士により偕楽園内に祠堂が建てられました。明治6年(1873)3月に「常磐神社」となり、10月にそれぞれの祭神の神号が勅旨により定められました。
 祭神は光圀が高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと)、斉昭が押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)です。

常磐稲荷神社
 末社、常磐稲荷神社は常磐神社本殿の向かって右隣に位置し、南を向いて建っています。宇迦之御魂命を祀っています。
常磐稲荷神社
 摂社、東湖神社は藤田東湖を祀る神社で、境内西側に位置し、東を向いて建っています。末社、三木神社は光圀を慈育した水戸藩の家老三木之次命、三木武佐命を祀っています。


 常磐神社の境内には二人の名が付いた「義烈館」があります。徳川光圀、斉昭の遺品、遺墨をはじめ水戸学関係の資料等が展示されています。
義烈館
 追鳥狩(軍事機動演習)に使用したといわれる陣太鼓や大極砲をはじめ、光圀が編纂を始めた「大日本史」420巻の草稿などが展示されています。大日本史は約250年の歳月をかけて明治39年(1906)に完成しました。
義烈館



笠間稲荷神社
かさまいなりじんじゃ
茨城県笠間市笠間1
Tel 0296-73-0001
 笠間稲荷神社は京都の伏見稲荷と九州の祐徳稲荷とともに日本3大稲荷の1つとして信仰を集めました。五穀豊穣、商売繁盛、学業達成と御利益の多いことでも知られ、年間350万人の参詣客が祈願に訪れています。
 笠間稲荷神社の創建は白雉2年(651)に胡桃の大木の下に祠を建立したのが始まりと伝えられています。鎌倉時代の初代城主笠間時朝以来歴代の城主に崇敬されました。
 江戸時代の寛保3年(1743)、笠間藩主・井上正賢が笠間稲荷神社を歴代藩主の祈願所と定め、社地社殿を広げました。延享4年(1747)に入封した牧野貞通は同じく藩主の祈願所とし、境内地や祭器具などを寄進しています。
 このように笠間稲荷は歴代笠間藩主の崇敬社や祈願所となり社殿の造営や社領の寄進が行われ現在の境内を形成しました。松平氏や戸田氏(松平氏)、永井氏、浅野氏などは他領に移封されても笠間稲荷神社の分霊を勧請し改めて崇敬したそうです。
 本殿は江戸時代末期の安政・万延年間(1854-1861)の建築で、国の重要文化財に指定されています。入母屋造りの銅板ぶきで、総欅の権現造りです。御本殿の柱や周囲など、いたるところに飾り彫りが施され、緻密で精巧な技法で作られています。
 本殿側面の彫刻は名匠弥勒寺音八・諸貫五郎・後藤縫之助らの作で、蘭亭曲水の図・三頭八方睨みの竜・唐獅子など精巧な彫り物です。
 昔からこの地には胡桃の密林があり、そこに神様がお祀りされていたことから笠間稲荷を「胡桃下稲荷」とも呼んでいました。また江戸時代の藩主の一族である門三郎が深い信仰心から多くの人々に功徳を施したことから「紋三郎稲荷」とも呼ばれたそうです。
 笠間稲荷神社境内にある藤樹2株は推定樹齢400年とされ茨城県の天然記念物に指定されています。 また菊まつりは10月中旬から11月下旬に開かれ大勢の人が訪れます。


 笠間稲荷美術館は笠間稲荷神社の裏手にあります。奈良の正倉院を模した高床式平屋建ての建物で、昭和56年(1981)に開館しています。笠間焼の古陶が常設展示され、信楽を始め中世六古窯の古陶器、香道具、屏風、掛軸、絵図などを中心に所蔵、展示されています。
笠間稲荷美術館



土浦城址(亀城公園)
つちうらじょうし(きじょうこうえん)
茨城県土浦市中央1−13
Tel 029-824-2810 (土浦市観光協会)
 土浦城は、亀城(きじょう)ともよばれ、平城で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城でした。江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門、裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移建された旧前川門があります。東櫓・西櫓は平成になって復元された櫓です。
 平将門が土浦城を築城し、一族の大掾氏が土浦市一帯を支配したといわれていますが、永享年間(1429-1441)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が土浦城を築城したという記録が残っています。
 永正13年(1516)、城主であった若泉五郎左衛門は、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われました。その後、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、永禄12年(1569)小田城を逃れて土浦城に入りました。その後、小田城を奪回したりしましたが、天正13年(1583)、ついに小田氏治は佐竹氏の軍門に降りました。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原の役の際に北条氏についた菅谷範政は佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡しました。関東に入った徳川家康は、次男の結城秀康に土浦城を治めさせました。
 秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封します。元和3年(1617)、松平信吉が上野国高崎に転封となると西尾忠永が2万石で入封します。以後、朽木氏に代わり、寛文9年(1669)、土屋数直が4万5千石で入封します。
 土屋氏は、子の政直のときの天和2年(1682)駿河国田中に移り、大河内松平家の松平信興が5年間、土浦城に在城後、貞享4年(1687)に大坂城代になります。寛文9年(1669)再び土屋政直が6万5千石で戻りました。
 その後、土屋氏は3度の加増を受けて9万5千石の大領地を支配し、以後土屋氏が11代続き明治維新を迎えます。10代土屋挙直の時に版籍奉還、廃藩置県になり、明治6年(1873)に土浦城は廃城となりました。本丸跡は土浦県庁、新治(にいはり)県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されました。現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっています。
本丸跡

 土浦城旧前川口門は、高麗門とも呼ばれ、かつての二ノ丸門の位置に移築されています。文久2年(1862)の建造で、本丸北東方向の多計(たけ)郭東面の前川口門跡にあったものです。その場所は町屋との仕切門であり、搦手門に通ずる要所でした。旧土浦町役場の門、等覚寺の山門に移築され使用されていましたが、現在地に移築されています。
土浦城旧前川口門

 本丸櫓門は太鼓門と呼ばれ、本丸跡に残る城門です。明暦2年(1656)に城主朽木稙綱が建てたものです。桁行3間・梁間2間、入母屋造りで本瓦葺きです。両側に切石石台をもつ二層の櫓門です。かって2階の屋根裏に、時刻をつげる大太鼓が置かれていたため太鼓櫓といわれました。江戸時代前期の本丸内櫓門としては関東地方では唯一のものです。
太鼓門



牛久大仏
うしくだいぶつ
茨城県牛久市久野町2083
Tel 029-889-2931
 牛久大仏は正式には牛久阿弥陀大佛というブロンズ(青銅)製大仏立像です。平成元年(1989)から平成5年(1993)までの期間をかけて、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺によって造られました。
 全高120m(像高100m、台座20m)、総重量4000トン、顔の長さ20m、立像の高さは世界で2番目ですが、ブロンズ立像としては世界最大の大仏です。ギネスブックにも登録されています。
 胸の高さの85mまでエレベーターで上がれます。大仏の胎内の1階には厳かな静寂の光の世界、2階は75の写経席が設置された智恩報徳の世界、3階は約3000体の阿弥陀が配された蓮華蔵の世界、4、5階は仏舎利が安置された神聖な空間です。
 大仏の足元には四季の花が咲き乱れる2万平方メートルの花畑が広がっています。リス園などある小動物公園もあり、鯉に餌をあげたり、ヤギ、ウサギにも餌をあげることも出来ます。そこでは毎日のように猿の曲芸が行われています。



鹿島神宮
かしまじんぐう
茨城県鹿嶋市宮中2306−1
Tel 0299-82-1209
 鹿島神宮(かしまじんぐう)は、皇紀元年(紀元前660年)の建造とつたえられ、常陸国一宮で、日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。同県神栖市にある息栖神社、千葉県香取市にある香取神宮と合わせて東国三社の一つにも数えられている名社です。正月三が日は全国から60万人以上が参拝し、笠間稲荷神社(笠間市)に次いでいます。
 平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳(えんぎしき・じんみょうちょう)によると、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけで、皇室との関係も深いものでした。
 御祭神・武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、天孫降臨に先立って、香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)とともに、大国主命と国譲りの交渉を行いました。その後、東国を開拓・平定して、当時水陸交通の要所であった鹿島の地に鎮座したと伝えられています。
 神武天皇の東征に際しては、熊野で病いに倒れた天皇の軍勢に対し、高倉下を通じてフツの霊剣を降して危難を救いました。この剣は崇神天皇の御代、石上神宮に奉斎され、鹿島神宮にはその代わりに制作されたという直刀が伝わり、国宝に指定されています。
 東北地方の平定にも神威を示し、常陸国・陸奥国には鹿島の御子神社が祀られました。鹿島神宮の正殿は、神社には珍しく北を向いており、香取神宮と共に、北方の蝦夷に対する護りの要であり、国土鎮護の宮でもあったのです。
 中臣鎌足が鹿島の中臣氏の出であることから、鹿島社の祭神は奈良の三笠山に迎えられ、藤原氏の氏神とされました。これが春日大社です。藤原氏が天皇の外戚として実権を握るようになると朝廷からも毎年「鹿島使」という勅使が毎年送られてくるようになりました。
  弘仁3年(812)香取神宮・住吉大社とともに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮を定められています。奉幣使もひんぱんに派遣されたようです。
 中世には源頼朝をはじめとして武家の崇敬が篤く、武神として仰がれました。養和元年(1181)頼朝は社領を鹿島神宮に寄進するとともに、鹿島政幹を鹿島神宮総追捕使とし、建久2年(1191)には神馬を奉納しています。
 弘安5年(1282)文永・弘安の役に際しての蒙古降伏祈願の奉賽として幕府より社領が寄進されました。このように武家政権の信仰も得て、社殿や宝物類の奉納や所領寄進が繰り返されてきました。
 慶長10年(1605)徳川家康が関ヶ原の合戦戦勝の奉賽として本殿を造営し、神領2千石を寄進しました。元和4年(1618)には秀忠が縦一列に並ぶ本殿、石の間、幣殿、拝殿を造営し、家康が建立した本殿は奥宮の社殿としました。
 現在の社殿は、楼門は水戸初代藩主徳川頼房、奥宮社殿は徳川家康、本殿、石の間、幣殿、拝殿は2代将軍秀忠の奉納によるものです。いずれも国の重要文化財に指定されています。また本殿にある杉の巨木は樹齢1200年と推定されるご神木です。
 例祭は毎年9月1日に献幣使が参同して行われます。12年に一度の式年大祭(御船祭)と中間の6年目には天皇陛下の御使の勅使が派遣される勅使参向の大社として、全国の人々より崇敬されています。


 鹿島神宮の楼門は寛永11年(1634)、水戸初代藩主徳川頼房が奉納したものです。頼房は光圀(水戸黄門)の父親になります。鮮やかな朱色の楼門は、熊本の阿蘇神社、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)と並ぶ日本三大楼門の一つに数え上げられています。
鹿島神宮楼門
 総朱漆塗りの2階建ての楼門の中心に掲げられている「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎元帥の直筆によるものです。楼門は国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮楼門

 鹿島神宮の拝殿・幣殿・石の間は元和4年(1618)に江戸幕府の2代将軍徳川秀忠により造営されています。拝殿は白木作りの簡素な意匠で柱を角柱とし、桁行5間、梁間3間、組物は出組の入母屋造りです。幕府の大棟梁鈴木長次が担当しました。
鹿島神宮拝殿
 拝殿は拝礼を行うための建物で、仏教寺院の礼堂の影響を受けて平安時代から神社建築に用いられるようになりました。この拝殿と本殿の間に玉串を捧げるための幣殿が設けられています。幣殿は桁行2間、梁間1間、続く石の間は桁行2間、梁間1間で、それぞれ国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮拝殿

 本殿は正面の間口を3間とする三間社流造りです。元和5年(1619)、徳川秀忠により奉納されています。前面の庇は身舎と同じ高さに床を張り建具を入れて室内に取り込み、さらに前面に1間の向拝を付けています。柱状の組物と出組とし中備えに蟇股を置いています。
鹿島神宮本殿
 拝殿の後方に幣殿を凸字形に建て、その後方に石敷きの「石の間」と呼ばれる渡り廊を隔てて本殿に接続する一種の複合社殿になっています。本殿・石の間は漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。幕府の大棟梁鈴木長次が担当しました。国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮本殿

 鹿島神社奥宮は慶長10年(1605)に徳川家康により鹿島神社本殿として造営されました。元和5年(1619)、徳川秀忠により新たに本殿が奉納され奥宮として引き遷したものです。
鹿島神宮奥宮
 奥宮は桁行3間 梁間2間 流造り、総白木作り、桧皮葺きの質素な建物で、意匠も簡素です。鹿島神社奥宮は国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮奥宮

 奥宮の前にある芭蕉の句碑の上部の穴は、耳を近けると「海の音」が聞こえるといわれています。


 枯枝にからすのとまりけり秋の暮
芭蕉句碑

 鹿島神宮の宝物館には茨城県内唯一の国宝として知られる直刀(ちょくとう)があります。直刀とは刀身がまっすぐで反りのない刀のことです。我が国最古最長の直刀で、鹿島神宮に武甕槌神の御神刀と伝わる全長約3mの「ふつの霊剣(ふつのみたまのつるぎ)です。
鹿島神社宝物館

 鹿島神社境内には鹿園があります。鹿島神宮では鹿は御使いであるとされ、藤原氏によって奈良に春日大社が創られた時には、分霊を背中に乗せて鹿島から奈良まで運んだそうです。現在いる鹿は、鹿島から移された春日大社の鹿の子孫を再び受け継いでいるそうです。
鹿園

 鹿島神社の奥参道は「奥馬場」とも呼ばれ、毎年5月に流鏑馬神事が行われるところです。周辺には役700種に及ぶ南限・北限の植物が自生しており、境内は県の天然記念物に指定されています。
奥参道と樹叢

 要石(かなめいし)は地震を起こす大なまずの頭を押さえているといわれる霊石です。香取神宮にもあり、地震を鎮めているとされています。いくら掘っても全容は堀り尽くせないといわれ、「鹿島の七不思議」にも数えられています。
要石
 要石を打ち下ろし地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神だとされています。「万葉集」にも詠われる「鹿島の神」は要石を鎮護する地震の守り神として現在に伝わっています。
要石



潮来水郷
いたこすいごう
茨城県潮来市川岸通り
Tel 0299-63-3154 水郷潮来観光協会観光案内所
 潮来は、周囲を水に囲まれた水郷地帯で、水路が縦横に張りめぐらされいます。昭和30年代初め頃まで、サッパ舟で花嫁や嫁入り道具を運んだそうです。
 水郷の町として知られる潮来では、6月のシ ーズンには、河岸一帯のあやめ園に100万本のアヤメが咲きみだれます。また4月の芝桜も綺麗です。
 潮来の水郷めぐりでは絣(かすり)のモンペに潮来笠の女船頭さんが操るサッパ舟が定番です。水路に架かった12の橋をくぐる加藤洲12橋めぐりや前川12橋めぐりなど、いろいろなコースがあります。
 昭和30年(1955)に、美空ひばりの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われました。これがきっかけとなり、「水郷潮来」は全国的に知られるようになりました。
 潮来は、古くから水運陸路の要所として栄え、大化の改新のころ国府(現在の石岡市)から鹿島神宮ヘ通じる駅路「板来の駅」を設けられました。その頃から集落が出来始めたようです。
 昔は、地名を「伊多古」、「伊多久」と称し、また常陸風土記には「板来」と書かれていました。元禄年間に徳川光圀が「鹿島の潮宮」にあやかって「潮来」と書き改め、今日に至っているといわれています。


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