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日本の旅
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たくみの里
たくみのさと
群馬県利根郡みなかみ町須川
Tel 0278-64-2210 道の駅たくみの里
 たくみの里は三国街道の須川宿で古くから伝えられる伝統の技を散策しながら楽しめるところです。須川宿にはとても清らかな水が流れています。水車も回っています。
須川宿
 総合案内所の豊楽館を中心にして20数軒の家が代々受けつがれてきた伝統の技を見せてくれて、体験もできるのです。
須川宿
 須川宿資料館は昔、脇本陣だったそうです。門扉、襖、障子、欄間が当時のまま残され須川宿に関する古文書・書画など展示されています。
須川宿資料館



旧大庄屋役宅書院
きゅうおおじょうややくたくしょいん
群馬県利根郡みなかみ町東峰須川
Tel 0278-62-2111 みなかみ町観光商工課
 旧大庄屋役宅書院は天保13年(1842)に建てられました。河合家4代の定右衛門が大庄屋を仰せつけられた時に、領主伊丹氏が用人内山忠太夫に命じて建てさせたということです。
 間口3間、奥行5間、藁葺きの寄棟造り書院で、式台 (しきだい)〈長さ2間、幅4尺)がある間口2間、奥行3間の玄関が母屋(おもや)と連結しています。
 伊丹氏が休息所に使用したようです。藁葺きに赤いトタンを覆ってしまっているので風情は損なわれています。農家の書院としてはめずらしく県指定の重要文化財となっています。



泰寧寺
たいねいじ
群馬県利根郡みなかみ町須川98
Tel 0278-64-1131
 写経とあじさいで有名な泰寧寺は延慶2年(1309)真改(しんかい)によって開基されました。最初は臨済宗として開創されましたが、のちに曹洞宗になりました。開基は細川伊予守源綱利という説もあるそうです。
 中世の動乱期の中で一時衰退しましたが、月夜野の玉泉寺8世洞庵文曹(とうあんぶんそう)によって天文6年(1537)中興されました。曹洞宗に改宗し、遠州可睡斎からの分霊を安置し、家内安全、災難除け、所願成就に御利益があると信仰を広めました。
 池に架かる風情のある石の橋を渡ると長い石段が続きます。石段の上には県の重要文化財に指定されている山門が堂々と建てられています。
泰寧寺山門
 円柱12本のうち11本は1本の大ケヤキから取られたと言い伝えられているそうです。上層内部には釈迦三尊像、迦葉・阿難の二大弟子、十六羅漢像が安置されています。
泰寧寺山門
 寛永10年(1633)に学庵長芸和尚の代に現在地に移し境内を整備、現在の基礎が固められたそうです。
泰寧寺山門
 山門は安永4年(1775)に建立されたもので2層の楼門形式、入母屋造り、銅板葺き、3間3戸の楼門(ろうもん)で、禅宗様式の山門です。天井には6面絵画が描かれ、細部には精巧な彫刻が施されています。
泰寧寺山門
  初層の天井は6間に区切られています。中央手前には龍が描かれています。中央の奧には鳳凰が描かれています。初層の天井の左右の2間ずつの4間にはいろいろな天女の彩色画が描かれています。
泰寧寺山門
 上層の柱には楔(くさび)などを打っておらず固定されていないそうです。強風時には上層のみが南北に揺れ動き、風がやむと元に戻るようになっているそうです。
泰寧寺山門
 屋根は萱葺だったそうですが昭和42年(1967)に銅板葺にしたそうです。
泰寧寺山門
 泰寧寺の本堂は寛永7年(1795)再建されたものです。泰寧寺本堂の欄間、須弥檀は群馬県の重要文化財に指定されています。欄間は本堂正面の須弥壇の左右に2面あります。
泰寧寺本堂
 向かって右側が桐に鳳凰(ほうおう)が彫られています。左側には松に孔雀が彫られています。透かし彫りで、彩色されています。
泰寧寺本堂
 須弥壇には牡丹(ぽたん)に唐獅子の彫刻がなされていて彩色されています。桃山時代の香り高い須弥壇です。
泰寧寺本堂
 鐘楼や庫裏は赤いトタンの屋根になっていて折角の桃山時代に雰囲気が台無しの感がしました。 



諏訪峡
すわきょう
群馬県利根郡みなかみ町小田向
Tel 0278-72-2111
 諏訪峡は利根川の凄烈な流れが造り出した渓谷です。水上温泉街の中心に位置するのが水上峡で、その下流に諏訪峡があります。清流に断崖や奇岩が映える水上第一の見どころです。
 水上温泉から近く、約3.5kmの渓谷です。利根川沿いに遊歩道が整備され、春は新緑、夏は涼、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季それぞれに彩りを変え、散策を楽しめます。
 平成16年(2004)に、美しい日本の歩きたくなるみち推薦会議が発表した「美しい日本の歩きたくなる道500選」に「渓谷美・諏訪峡を訪ねるみち」として諏訪峡が選ばれています。



水上温泉
みなかみおんせん
群馬県利根郡みなかみ町鹿野沢70
Tel 0278-72-2611
 水上温泉は草津や伊香保と並ぶ県下有数の温泉地として知られています。利根川上流の渓流沿いの崖に所狭しとホテルや宿屋が建っています。その合間を縫って諏訪峡や水上峡があり、紅葉シーズンには多くの観光客で賑わいます。
 温泉街をゆっくりと走るトテ馬車は水上温泉を代表する風物詩となっています。利根川には幾つもの橋が架かっていて、夜になると湯原橋、水上橋はライトアップされます。



猿ヶ京温泉
さるがきょうおんせん
群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉
Tel 0278-66-1246 猿ヶ京温泉センター
 猿ヶ京温泉は三国街道を旅行く人々から愛され続けた温泉地です。昭和33年(1958)相俣ダムが完成して温泉街は湖の底に沈んでしまいました。
赤谷湖
 数件の旅館が湖岸に移転して今の猿ヶ京温泉の元を作ったそうです。赤谷湖から見る猿ヶ京温泉は風情があります。
赤谷湖
 猿ヶ京という名は越後の上杉謙信が関東侵攻の途中に陣を張り命名したと伝えられているそうです。
赤谷湖
 赤谷湖畔には「相俣のさかさ桜」と呼ばれる桜があります。天文21年(1552)上杉謙信が関東に出兵中、上杉憲政ゆかりの日枝神社を参拝したそうです。春日山より持参した桜の鞭を境内に逆さにさしたそうです。そしてこの桜が芽を吹けば出陣の幸先が良いと占ったのでした。
さかさ桜
 ただ挿しただけの桜は謙信の希望通りすくすくと生長して数年で花が咲いたのだそうです。樹高18.2m、目通り6.2m、根元廻り11mのこの桜の木は群馬県の天然記念物に指定されていなす。
さかさ桜



猿ヶ京関所
さるがきょうせきしょ
群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉1144
Tel 0278-66-1156
 猿ヶ京関所は徳川3代将軍家光の時代の寛永8年(1631)4月に設置されたそうです。群馬県の史跡に指定されています。
 三国街道は佐渡街道とも呼ばれ佐渡の金を江戸に運ぶ5街道に継ぐ重要な街道でした。
 天和元年(1681)先に支配していた真田氏が改易になり幕府直轄の支配になりました。後高野、片野、木村、戸部の4氏が代々世襲で関守の役を務めたそうです。
 明治2年(1869)正月、明治新政府の命により関所廃止が発せられこの猿ヶ京の関所も廃止されました。
 旧庭園には樹齢350年と推察される高野槇(こうやまき)が育っています。悠仁(ひさひと)様のお印に決まった樹木です。



谷川岳
たにがわだけ
群馬県利根郡みなかみ町湯吹山国有林内
新潟県南魚沼郡湯沢町
 標高1977mの谷川岳は群馬・新潟の県境にある三国山脈の山で、日本百名山の1つです。周囲の万太郎山、仙ノ倉山、茂倉岳などと合わせて谷川連峰と呼ばれています。
 谷川岳ロープウェイで土合口駅から標高1321mの天神平駅までは約10分たらずで行くことができます。天神峠頂上からは谷川連峰や上信越の山々の大パノラマが広がります。
 谷川岳の頂部は二峰に分かれています。トマの耳(標高1963m)、オキの耳(標高1977m)と呼ばれています。
 一ノ倉沢などの谷川岳の岩場は、その険しさから剱岳・穂高岳とともに日本3大岩場の一つに数えられ、ロッククライミングのメッカとなっています。




名胡桃城址
なぐるみじょうし
群馬県利根郡みなかみ町下津
Tel 0278-62-2275 みなかみ町教育委員会
 名胡桃(なぐるみ)城址は、昭和24年(1949)県指定史跡になっています。天正6年(1578)沼田城は北条氏の手に落ちました。当時武田氏の家臣であった真田昌幸は沼田城奪取のための要塞としてこの名胡桃城を築きました。本丸跡には石碑が立っています。
  天正7年(1579)、北条勢は2度名胡桃城を攻めましたが敗退し、その翌年真田氏はここを拠点として沼田城を攻め攻略したのです。真田領の岩櫃城と沼田城の中継地として重要な城であったようです。本丸、二の丸、三の丸、袖曲輪、遠見櫓、般若曲輪等がありました。
 天正10年(1582)、豊臣秀吉と対立した徳川家康は次女の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏と和議を結びました。その際、真田の上州沼田領を北条氏に渡し、北条領の都留、佐久を手放すというものでした。
 武田滅亡後、徳川家康に組みしていた真田昌幸はこのことに怒り、家康に反旗を翻しました。沼田領を北条氏に渡さず上杉景勝を頼りました。激怒した家康は、天正11年(1583)上田を攻めました。これが上田城・神川の戦いです。
 その後、豊臣秀吉の支配下に入った真田昌幸は秀吉の仲裁の裁定を受け入れ沼田城を北条氏に明け渡しました。小牧・長久手の戦いで家康に敗北した秀吉を見て北条氏は名胡桃を含めて沼田領のすべてを手に入れようとしました。
 沼田城代猪俣邦憲は真田昌幸の偽書状を作り名胡桃城主の鈴木主水重則を上田に向かわせました。そしてまんまと名胡桃城を奪取したのでした。昌幸はこのことを秀吉に訴えました。
 これを聞いた秀吉は激怒しました。そして北条の不信をなじり小田原征伐の軍を起こしたのです。名胡桃城は北条氏滅亡のきっかけとなった城なのです。



迦葉山龍華院弥勒寺
かしょうざんりうげいんみろくじ
群馬県沼田市上発知町445
Tel 0278-23-9500
 沼田市の北、標高約1322mの山中に迦葉山龍華院弥勒寺(かしょうざんりゅうげいんみろくじ)はあります。迦葉山は武尊山系に連なる深山幽谷の浄域にあります。
 桓武天皇の皇子葛原親王の発願で、天台宗比叡山座主・慈覚大師が嘉祥元年(848)に開祖したという曹洞宗の名刹です。
 東京高尾山の薬王院、栃木県鹿沼の古峰(ふるみね)神社とともに関東3代天狗の一つとして有名です。
 康正2年(1456)曹洞宗に改宗され、徳川初代将軍の祈願所として御朱印100石、10万石の格式を許された由緒あるお寺です。杉が生い茂る参道はまさに深山幽谷といった雰囲気が漂います。
 迦葉山参りでは、最初の年、中峰堂から天狗面を借りて帰り、次にお参りする時に借りた面と、門前の店で買い求めた新しい面の2つを返すという仕組みになっています。
 中峰堂には、日本一の大天狗面が安置されています。昭和14年(1939)、商工会有志により戦勝を祈願し作られたものだそうです。
 長さ6.5m、鼻の高さ2.8mという大天狗面は、大小さまざまな天狗面とともに祀られています。春は新緑、夏は霊鳥「仏法僧」の声を聞き、秋は全山紅葉、冬は白雪四囲をおおいます。
 昭和46年(1970)大天狗奉賛会により交通安全を祈願して作られた「交通安全身代わり大天狗」も安置されています。
 
 昭和58年(1983)に沼田青年会議所より奉納され、座禅堂に安置された「諸願成就大天狗」と、市内街なか天狗プラザに安置された「観光大天狗」は、毎年8月3〜5日に行われる「沼田まつり」において女性に担ぎ出され人気を博しているそうです。
 ここの天狗のお面は願掛けに自宅に1つ持っていき、だんだん大きくするものなのだそうです。



沼田公園
ぬまたこうえん
群馬県沼田市西倉内町594
Tel 0278-23-2111 沼田市役所都市計画課都市施設係
 沼田公園は市街地の北西にある沼田城の本丸と二の丸跡を整備した公園です。桜の名所としても有名で花壇には美しい花が植えられています。
  天然の要害の地であった沼田城は三方を急流と断崖に囲まれ、関東と越後、会津を結ぶ交通の要衝の沼田台地に三浦氏系沼田氏によって築かれました。その後、上杉、北条、織田氏に支配され、天正18年(1590)豊臣秀吉によって真田昌幸に安堵されました。
  初代沼田城主には真田信之がなり、近世的な城郭の整備にとりかかり、二の丸、三の丸、堀、土塁などを築き、水手曲輪に大門を建て、慶長12年(1607)には五層の天守閣も完成させました。
  天和元年(1681)5代城主真田信直が江戸両国橋の用材の伐出し遅延と失政の名目で改易となり、天守閣など破却されました。その後、本田、黒田、土岐氏の居城となりました。
 本丸跡には鐘楼が建設され、2代藩主真田信吉が鋳造させた城鐘(じょうしょう)が釣下げられています。県の重要文化財に指定されています。



旧生方家住宅
きゅううぶかたけじゅうたく
群馬県沼田市西倉内町594
Tel 0278-23-2111 沼田市役所都市計画課都市施設係
 沼田公園敷地内には、昭和45年(1970)に国の重要文化財に指定された生方家住宅が復元移築されています。沼田藩の城下町に残る数少ない商家建築であり、東日本屈指の古さを誇っています。
 生方家は、代々、沼田藩の薬種御用達を務めた豪商で屋号は「かどふじ」といったそうです。住宅は17世紀末に建てられた町屋造りです。
 切妻、石置板葺、妻入りで桁行き6間、梁間10間、南側に土庇、東側に下屋を設けています。昭和48年(1973)、現在地(旧地は沼田市上之町)である旧沼田城跡地に移築復元されています。



真田河内守信吉の墓
さなだかわちのかみのぶよしのはか
天桂寺(てんけいじ)内
群馬県沼田市材木町309
Tel 0278-23-1565
 真田信吉は、沼田藩初代藩主真田信之の嫡子で、母は大蓮院(小松殿)です。元和2年(1616)信之が上田城に移った後、沼田藩2代藩主となりました。墓は総丈297cmの宝篋印塔で寛永12年に建てられました。沼田市の重要文化財に指定されています。屋蓋正面に六連銭が刻まれています。
 真田信吉は寛永11年(1634)11月28日に江戸屋敷で亡くなったそうです。享年42歳でした。遺骸は沼田へ送られ迦葉山で火葬し、天桂寺に葬られました。
 信吉は慶長19年(1614)大阪冬の陣と翌年の夏の陣には父の信之と徳川方に加わり戦功をたてました。城主として18年間善政を行ない、川場と沼田の間の用水も完成させたそうです。
 天桂寺にある城堀川の布積み石垣です。石垣の積み方は、布積みと乱積みの2つに大きく分けられます。大きさの違う自然石の平石、加工した平石をさまざまな方向に組み合わせて積み上げる乱積みに対し、方形に整形した比較的おおきな石を目が横に通るように積み上げる方法です。



強清水の滝
こわしみずのたき
群馬県沼田市上発知町
Tel 0278-23-1137 沼田市観光協会
 強清水の滝は県道上発知・材木町線を玉原高原に向かうと右の道沿いにあります。湧き出した清水がいくつもの小さな滝を作って流れていきます。このように、伏流水が地表に出て流れ落ちる滝を「潜流瀑(せんりゅうばく)」というそうです。
強清水の滝
 「強清水」という名前の由来は、水に触ったときに思わず「強(こわ)い」と言ったところから名付けられたそうです。強清水の滝の落差は約10mです。
強清水の滝



玉原高原
たんばらこうげん
群馬県沼田市玉原高原
Tel 0278-23-9311 たんばらスキーパーク
 玉原高原(たんばらこうげん)は武尊山西南麓、標高1200mから1500mの一帯に広がる高原です。春は水芭蕉、夏はラベンダー、秋は紅葉、冬はスキーと、四季を通して楽しめます。
  4月下旬から5月中旬にはミズバショウの群落を見ることができます。玉原高原センターハウスから1時間ぐらいで「小尾瀬」と呼ばれる湿原を散策することができます。
 7月上旬から中旬にはニッコウキスゲ、7月中旬から8月中旬にはヤナギランやラベンダーが咲き誇ります。ラベンダーは北海道の富良野から移植したものです。
 たんばらラベンダーパークでは、スキー場のゲレンデに約5万株のラベンダーが咲き、紫色の絨毯ですっかり有名になりました。
 8月下旬まではマリーゴールドなども見頃になります。シーズン中には沼田駅から直行バスが1日4本運行されます。
 玉原湖1周の全長5.8kmのサイクリングコースもあります。夏山リフトを使って花畑も見学できます。日本でも有数のブナ林があり、冬のスキー場、キャンプ場、変わり種のホビーサイクルが楽しめるサイクルパークなどが多彩に揃っている高原です。



玉原湖
たんばらこ
群馬県沼田市上発知町玉原
Tel 0278-23-1137 沼田市観光協会
 玉原湖は玉原高原にある人造湖です。昭和57年(1982)に発知川(ほっちがわ)上流に造られた玉原ダム完成によってできました。周囲を広葉樹林で囲まれた自然豊かな湖です。
 玉原ダムは長さ570m、高さ116mあり、中央土質遮水壁型ロックフィルダムです。発電専用ダムで東京電力株式会社が昭和48年(1973)より建設に着手し、昭和56年(1981)に完成させています。
 一般的なコンクリート製のダムと違っていて、石を積み上げられて造られています。玉原湖は自然と調和し、緑に囲まれた美しい湖です。秋には周囲の紅葉も映えて、より一層素晴らしい光景が見られます。



吹割の滝
ふきわりのたき
群馬県沼田市利根町追貝
Tel 0278-56-2111 沼田市利根町振興局
 吹割の滝は東洋のナイアガラとも呼ばれ、昭和11年(1936)、国の天然記念物に指定されました。高さ7m、巾30mあまりに及び、こうこうと落下、飛散する瀑布に圧倒されます。
 凝灰岩、花崗岩の河床上を流れる片品川の清流が、岩質の軟らかい部分を浸食し、多数の割れ目を生じさせました。巨大な岩が吹き割れたように見えるところから、「吹割の滝」の名が生まれました。
 昔から、吹割の滝の滝壺は竜宮に通じているともいわれていました。村の祝儀など振る舞い事には、竜宮からお膳やお椀を貸してもらう習慣があったそうです。ある時、数を間違えて一組だけ返し忘れたところ、それ以来貸してもらえなくなったそうです。



ロックハート城
ろっくはーとじょう
群馬県吾妻郡高山村5583−1
Tel 0279-63-2101
 ロックハート城は、1829年(文政12年)にイギリスで建設され、昭和62年(1987)から平成5年(1993)にかけて日本へ移築された古城です。
 ロックハート家の由来は、十字軍の時代に遡ります。スコットランド独立の英雄・ロバート・ブルース王に仕えていた騎士が勇敢に戦って戦死し、その騎士の心臓は、石の箱に入れて、本国に持ち帰られました。そして、その騎士の一族は、ロックハートという苗字を授けられたそうです。
 子孫のウィリアム・ロックハート伯爵はスコットランド地方サウス・ラナークシャイアのカールークにロックハート城を1829年に築きました。約3200トンの砂岩からなる地上3階、地下1階の建物だったそうです。
 昭和62年(1987)に俳優の津川雅彦が、北海道の広尾町に計画していたレジャーランド「夢の王国サンタ愛ランド」の中核施設とすべく、私費でロックハート城を購入しました。
 翌年、ゴルバチョフ大統領の承諾を得て、シベリア鉄道を経由して、北海道にばらばらの石に分解して運ばれました。石のブロックが4000個、6000トンあったそうです。ところがレジャーランド計画は頓挫して、沼田市の石材屋がこれを買い取り、テーマパーク「大理石村」に建設したのでした。
 中世ヨーロッパの町並みを再現した大理石村は、結婚式会場やライブ会場、ドラマのロケ地などとして利用されています。城内には、石関係のほかに、マリリン・モンローやダイアナ元妃の遺品、津川さんが収集したサンタクロースの人形、テディベアなども展示されています。



旧冨沢家住宅
きゅうとみさわけじゅうたく
群馬県吾妻郡中之条町大字大道1274
Tel 0279-75-2111 中之条町教育委員会
 旧冨沢家住宅は江戸時代から25代受け継がれた新田村の名主の家です。寛政2年(1790)に建てられた木造2階建て、茅葺き屋根、入母屋造りの大型農家です。
 冨沢家は、利根郡新治村の出身でしたが、天正の頃この地に、新田を開拓しました。徐々に田畑を増やし、米作、養蚕、運送、金貸しまで幅広く行い確固たる地位を築き上げました。
 旧冨沢家住宅は大型養蚕農業の代表的な建物で、昭和45年(1970)に国の重要文化財に指定されています。1階は「土間」 「ざしき」 「でえ」「じょうだん」に仕切られています。
 「じょうだん」は書院造りでツリ天井になっています。広い土間には4つの馬屋があります。冨沢家は運送業も行っていたため必要だったようです。
 2階は養蚕用の部屋になっています。蚕は、当時は絹糸の原料として高値で取引されていました。ここ中之条町大道(だいどう)は、標高が800mと高く、高冷地のため蚕を飼育するのに大変適していました。
 間口は23.97m、奥行は12.95mもあります。屋根の形状や平面構成から北毛地方の養蚕農家の典型とされます。
 冨沢家は天正年間にこの地に土着した小池三郎右衛門の後裔で、その後の開発により貞享年間には村の3分の2の水田が冨沢家の所有となっていたそうです。
 屋根が兜(かぶと)造りで兜の形をしています。参勤交代の時に、大名の宿泊所にもなっていたそうです。



四万の甌穴
しまのおうけつ
群馬県吾妻郡中之条町大字四万3520
Tel 0279-75-2111 中之条町教育委員会
 四万温泉の少し手前、国道353号沿いの四万川にに架かる「秋鹿橋」から下流の約130mの間に大小8個の甌穴が見られます。
 甌穴とは、川の渦巻き状の流れにより、石や砂が同じところを回り、川底の岩盤と接触して侵食されてできた丸い穴です。
 四万川の強い水の力が川底の転石を回し、岩盤(凝灰岩)の接触部に凹みを生じ数万年という長い年月にわたって浸食したものです。
 まさに自然が作り出した芸術です。四万川に取水ダムができる以前は、甌穴は子どもの水遊び場になっていたそうです。
 大きいものでは直径約3m・深さ4mを越える甌穴もあります。これらは昭和46年(1971)12月22日県の天然記念物に指定されました。



四万温泉
しまおんせん
群馬県吾妻郡中之条町
Tel 0279-64-2321 四万温泉協会
 群馬県吾妻郡中之条町に四万(しま)温泉があります。伊香保温泉、草津温泉とともに群馬県の3名湯にあげられています。四万川の渓流沿いにあり美しい景色と緑につつまれたところです。
 「四万」の名前は、四万の病に効くというところからその名が付いたそうです。征夷大将軍の坂上田村麻呂が入浴したのが発祥ともいわれています。
 楓仙峡の途中に位置する小泉の滝です。四万川と日向見川が合流する場所でもあります。滝見園地も整備されていて紅葉時の景色は絶景です。
小泉の滝



積善館
せきぜんかん
群馬県吾妻郡中之条町四万甲4236
Tel 0279-64-2101
 赤い橋の向こう側に積善館本館が建っています。日本最古の温泉宿建築物で四万温泉の共同浴場「河原の湯」のすぐそばに位置しています。
 本館は群馬県の重要文化財に指定されています。元禄時代の創業で300年の歴史を持っているそうです。この奥に山荘、佳松亭(かしょうてい)の3つの時代の建物が建っています。
 源泉は赤い橋の下を流れる新湯川の川底、毎分900リットルの豊富な湧出量があり、お風呂は源泉掛け流し式です。
 積善館は新湯川と四万川の合流点にあって、宿の正面は新湯川を渡る橋になっています。数多くの映画のロケにも使われたところです。
 積善館には「元禄の湯」とよばれる浴室があります。昭和5年(1930に造られたそうです。四万温泉のポスターのもなったそうです。



日向見薬師堂
ひなたみやくしどう
群馬県吾妻郡中之条町大字四万4371
Tel 0279-64-2321 四万温泉協会
 日向見にある薬師堂は国の重要文化財です。慶長3年(1598)に建立された、室町時代の建築様式を残す建物です。
 美しい茅ぶき屋根の薬師堂は、全国でも珍しい和洋と禅宗様式の折衷建築です。一重の寄せ棟造りで屋根を茅葺きとしています。
 正面、側面ともに三間です。前方二間は外陣、後方一間は内陣として、その境に格子戸をはめこんでいます。
 方一間の鏡天井を支える内部架構の出組や桝の形、木鼻の絵文様、渦巻きの形などが室町時代の特徴を表しています。
 薬師堂の前にあるお籠堂は町指定の重要文化財で慶長19年(1614)に建てられたそうです。湯治客が病気を治すために定められた日数をここで籠もってお祈りなどしたそうです。



薬王寺
やくおうじ
群馬県吾妻郡中之条町大字四万
Tel 0279-64-2927 つるや
 青麻山薬王寺にある諸天善神薬大菩薩は法華の守護で病を治癒してくれる良医として崇められています。
 薬王寺は昔から中風除けの寺としても知られています。境内に引かれた湧水は薬王水とよばれています。
 昔からこの薬王水を飲むことによって中風にならないと信じられていたそうです。
 四万の温泉は胃腸病に効能があり、無病息災を願う人たちが多く訪れているそうです。



伊香保温泉
いかほおんせん
群馬県渋川市伊香保町伊香保
Tel 0279-72-4526 石段の湯
 子宝の湯として有名な伊香保温泉は榛名山の火山活動で湧出したそうです。今から1900年も前の話です。万葉集にも詠まれた歴史のある温泉です。
 伊香保温泉のシンボルの石段街は長篠の戦いで敗れた武田勝頼が真田氏に命じて天正4年(1576)に作らせたものです。
 伊香保神社から一番下の関所まで約360段もの階段が続き、高低差は約80mもあります。昔、温泉宿は源泉の近くにあったようですが、長篠の合戦での多数の負傷者の治療のため山の上に湧きだしている温泉を効率よく宿に分けるために、石段の温泉街が出来上がったということです。
 石段の入口にある共同浴場が名前のとおり「石段の湯」です。外観は白壁の和風な建物ですが、内部は平成15年(2003)4月のリニューアルにより共同浴場というより現代的な日帰り温泉施設になりました。



伊香保関所跡
いかほせきしょあと
群馬県渋川市伊香保町伊香保甲34
Tel 0279-72-3155 渋川市伊香保総合支所経済建設課
 寛永8年(1632)、三国街道の裏往還の要所として幕府の命により設けられた関所(口留番所)を復元しています。当時の関所は、間口5間、奥行3間の約15坪の萱葺屋根の建物で、周囲に木柵があり、東西に門扉が設けられていました。
 伊香保温泉は、子宝の湯として知られ、江戸からの婦人客が多かったので、「入鉄砲に出女」の詮議が厳しく取締られました。不審者を捕らえれば、ご褒美まで与える仕組みになっていたそうです。
 中では関所の役割について詳しく説明しています。蝋人形も良くできています。併設の資料館では、当時の通行手形や古文書、武具などが見られます。



伊香保神社
いかほじんじゃ
群馬県渋川市伊香保町2
Tel 0279-72-2351
 伊香保神社は伊香保温泉の中で有名な石段街を上りつめた場所にあります。富岡の貴前神社、赤城の赤城神社とともに、上野国三之宮として古くから信仰を集めた由緒ある神社です。
 創建年は諸説ありますが由緒によると天長2年(825)に勧請されたのが始まりとされています。当初は榛名山周辺の山々の神である「いかつほの神」を祀っていたそうです。鎮座地も現在の三宮神社や若伊香保神社境内にあったと推定されています。
 この地方の有力者であった有馬氏が庇護し社運も隆盛したそうですが、有馬氏の勢力衰退ともにさびれ、現在地に遷座し温泉街の鎮守となったようです。
 伊香保神社の御祭神は大己貴命で温泉、医療の神様ですが、最近では、縁結び、子授け、安産の神様としても有名です。毎年9月の例大祭には多くの人々で賑わいます。



旧ハワイ王国駐日代理公使別邸
きゅうはわいおうこくちゅうにちだいりこうしべってい
群馬県渋川市伊香保町伊香保29−5
Tel 0279-72-2237 徳富蘆花記念文学館
 明治中期に建てられた純和風の木造建築です。かつてハワイが独立国だった頃の日本駐在公使ロバート・W・の別邸です。ハワイ王国は明治26年(1893)まで存在していました。日本とハワイ移民協約を実現したアルウィン氏はハワイ移民の父とよばれた人物です。
 日本に残るハワイ王国唯一の建物です。邸内には当時のハワイ王国と日本の交流関係の資料や紋章入りの器などが展示され、当時の写真なども飾られています。
 昭和60年(1985)にハワイ移民100周年を記念して移築保存され渋川市指定史跡に指定されました。



五徳山水沢寺(水沢観音)
ごとくざんみずさわでら(みずさわかんのん)
群馬県渋川市伊香保町水沢214
Tel 0279-72-3619
 五徳山水沢観世音は阪東33観音の第16番霊場で、一般には水沢観音の名で親しまれています。水沢観音は伊香保温泉から南東約4kmにあります。推古天皇、持統天皇の勅願により高麗 の高僧恵潅僧上の開基にして、国司高光中将公の創建です。
  持統天皇の時代(690-697)には国司である柄階邦隆と水沢寺門徒がささいな事から対立し、御堂30余棟、坊舎300余棟、仏像180余体が焼失したと伝えられています。
 その後、東円によって再興され寺運も隆盛しますが永正8年(1511)、大永2年(1524)の火災で多くの堂宇が焼失しました。江戸時代に入ると幕府から庇護され朱印状を賜り、伊香保温泉の湯治客や札所巡りの巡礼者が盛んになり再び隆盛しました。
 「水沢観音」だけでなく「水沢うどん」も有名です。水沢観音山門下にずらりと立ち並んだうどん店は、恵潅僧上の指導のもと、参拝者にうどん を振る舞ったことから有名になりました。日本三大うどんに数えられています。
 境内にある六角堂は全国でも珍しい回転する二重塔です。地蔵堂とも呼ばれ元禄時代に建立されました。市の重要文化財に指定されています。
 中には6体の地蔵尊が安置されていて、真心を込めて六角堂を左に3回迴して願いごとをすると、願いがかなうと伝えられています。



竹久夢二伊香保記念館
たけひさゆめじいかほきねんかん
群馬県渋川市伊香保町伊香保544
Tel 0279-72-4788
 竹久夢二伊香保記念館は、夢二の伊香保を愛した心にこたえ昭和56年(1981)5月に建設されました。 大正8年(1919)「宵待草」が日本中で歌われ、夢二の名が知れ渡った頃、伊香保の少女からの一通の手紙から伊香保・榛名をこよなく愛することになりました。
 夢二は榛名湖のほとりにアトリエを建て、そこを産業美術学校にしようと考えました。しかしその思い半ばにしてこの世を去りました。記念館には竹久夢二の代表作「黒船屋」をはじめ、数々の美人画、デザイン画、 水彩画、素描など、幅広い作品を展示しています。



赤城自然園
あかぎしぜんえん
群馬県渋川市赤城町南赤城山字夕日上892
Tel 0279-56-5211
 赤城山西麓に自然の楽園「赤城自然園」があります。30年近く、人の手で自然を創造してきた赤城自然園でしたが、平成21年(2009)3月15日に赤字続きを理由に閉園しました。ある社員が8ヶ月間、無給で管理し、再びオープンしました。
 園内はセゾンガーデン、四季の森、自然生態園の3ブロックにわかれており、赤城の植物、昆虫にであうことができます。セゾンガーデンは日本一のしゃくなげ園を含む、みごとなイングリッシュガーデンになっています。
 この自然園の敷地は120ヘクタール、約36万坪、群馬でいうなら榛名湖とほぼ同じ大きさなんです! 山がガーデンなんです。
 園内を巡回しているスタッフは気軽に花の名前などを教えてくれます。整備している日の方が多くて平日は入れません。問い合わせをしてから行ってみた方がよいと思います。



鬼押出し園
おにおしだしえん
群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原1053
Tel 0279-86-4141
 鬼押出し園は浅間山北麓に黒々と広がる不気味な景観の奇勝観光地です。イタリアのベスビオ火山、桜島と並んで世界3大奇勝に数えられています。
 ここでは溶岩群の中を歩いて見学することができます。間近に見る巨大な溶岩は迫力満点です。鬼押出し園から見える浅間山は涅槃菩薩のように見えます。
 天明3年(1783)、浅間山の大爆発の際に流出した溶岩流によって、1000名を超える死者が出ました。鬼押出しは、その溶岩流の名残りなのです。
 火口で鬼があばれ岩を押し出した、という当時の人々の噴火の印象が、この名前の由来となっています。噴火の激しさを今に伝える岩海と、豊かな大自然が織りなす、浅間高原随一の景観です。

 溶岩流は幅7km、延長8kmにわたる黒岩の荒野になっています。全長2.7kmの遊歩道が整備されていて、自由に散策ができるようになっています。
 鬼押出しの溶岩は、火砕物が火口周囲に堆積し、急傾斜のために熔解して凝固しながら最後に流出した特殊な溶岩とみられています。
 中央の高台には天明3年(1783)の浅間山の大噴火で犠牲者になった霊を供養する浅間山観音堂が建っています。ここから鬼押出しや浅間山はもちろん、浅間高原から白根山に至る大パノラマが楽しめます。
 観音堂は上野寛永寺の別院で、厄除け観音としても人気があります。惣門から表参道を通って観音堂へ行く途中には水盤舎、炎観音、鐘楼があります。浅間山観音堂は、東叡山観永寺伝来の秘仏である聖観世音菩薩を祀っています。
 観音堂を巡る遊歩道は、一周は約30分から40分ぐらいです。浅間高原に植生する約100種の高山植物が見られます。770mの高山植物観察コースや、1.2kmの奥の院参道コース、510mの表参道コース、410mの裏参道コースがあります。
 北東側には溶岩石とは違った、浅間高原の自然林やレンゲツツジやシャクナゲなどの花木を見ることができる花木園などがあります。花木園は広さ168000平方m、外周1300mあります。
 園内にはヒカリゴケ自生地があります。光苔(ひかりごけ)は蘚類で雌雄異株で葉は二列に並んでつき糸状の体が光線を反射して金色に輝いて見えます。 

 浅間山は活火山で現在も活動を続けています。平成16年(2004)9月1日に21年ぶりに爆発しました。噴石を飛散させ、山頂の北東6kmまで最大3cmの火山礫が降下しました。こうした危険に備えるため。散策路のあちこちに避難所が設けられています。



桜岩地蔵尊
さくらいわじぞうそん
群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢 1988
 かつての浅間山麓は無人であり、その高原を往来する旅人の平安鎮護のために地蔵尊が上野、信濃の国の国境(群馬県・長野県境付近)に作られました。 
 しかし、天明3年の浅間山の大噴火により、地蔵尊が流され、行方がわからなくなっていました。後に地蔵川原で発見され、桜岩の地に移され桜岩地蔵尊と命名されました。寛延4年(1751)、この地蔵尊をめぐって建立した狩宿村と鎌原の延命寺の間で訴訟事件があったそうです。
 延命寺はすでに浅間山鬼神堂に虚空蔵菩薩と地蔵菩薩を本尊として長年奉祀しているのに何の断りもなしに浅間山里宮というのは不届きだとして他の場所に移すように申し入れました。地蔵尊の開眼供養した常林寺の和尚は一寸たりとも動かすことまかりならんと主張。
 狩宿の名主は潰すとも焼き捨てるとも勝手にされたいといい、たまりかねた延命寺側は宝暦12年(1762)奉行所に訴え出ました。裁決は地蔵尊片付けとなり他の場所に移されたそうです。昭和62年(1987)に長野原町指定重要文化財になっています。



六里ヶ原の道しるべ観音
ろくりがはらのみちしるべかんのん
群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢 1988
 浅間山北麓は六里ヶ原とよばれていました。天明3年(1783)の浅間山の大噴火の影響で、当時は交通の難所でした。天明4年(1784)地元の人々により、沓掛、大笹、狩宿の分岐点になっていた分去(わかされ)茶屋に観音仏が建立されました。(寛政5年に完成したそうです)この観音仏は道しるべ観音の基点になっていたため基点観音と呼ばれたそうです。
 文化5年(1808)、分去(わかされ)茶屋の助四郎という人の勧化により六里ヶ原の道しるべとして観音仏が作られ、基点観音を中心に沓掛、大笹、狩宿の三方向にそれぞれ33体ずつ設置されました。
 100体作られたうち30数体が確認され、桜岩地蔵堂に集められ町の指定文化財になっています。平成3年(1991)に、地元の人々により100体に復元され整然と並んでいます。



鎌原観音堂
かまはらかんのんどう
群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原492
Tel 0279-97-3852


 天明3年(1783)の浅間山大噴火は北麓へ高速の土石流を流し、鎌原村をはじめ多くの集落を破壊し埋没させました。鎌原村は時速100kmの火砕泥流に襲われました。この村には477人の村人が住んでいました。
 その時、この観音堂に逃れた93人だけが奇跡的に助かりました。以来、観音堂は厄除け観音として信奉されています。
 観音堂の前の石段は現在15段ですが本来は50段ありました。この石段を最後まで駆け上がった村人だけが火砕流から逃れることができました。わずか数段上りきれずに命を落とした人も発見されています。
鎌原観音堂
 残った村人はそれぞれ縁を組み、新しい家族となって村を再建していったという悲しい云われのある場所です。
鎌原観音堂
 観音堂の裏手の嬬恋郷土資料館には、出土した資料などが展示されています。浅間山噴火の火砕流に関する総合的な発掘調査の記録なども展示されています。
嬬恋郷土資料館
 発掘調査は昭和54年(1979)から始まりました。当時の写真が載せられていました。現在の地上部分は15段ですが、その少し下で女性2名の遺体が発見されたそうです。観音堂へ逃げようとして、あと数段の所で間に合わなかったと思われます。



白根山
しらねさん
群馬県吾妻郡草津町草津白根
Tel 0279-88-0800 草津温泉観光協会
 白根山は群馬、長野両県にまたがる標高2160mの活火山です。 山頂に湯釜、個釜、水釜 という湖があり、志賀草津高原道路最大の観光ポイントになっています。
 白根山の湯釜を見るには、大駐車場より10分ほど歩きます。結構急ですが見た目ほど大変ではない感じです。

 白根山の山頂には神秘的なエメラルドグリーンの水をたたえた強酸性のカルデラ湖「湯釜」があります。

 草津白根山は国道をはさんで、白根山と本白根山に分かれています。春はゴンドラからシャクナゲの群生を見ることが出来ます。
 草津から志賀高原まで志賀草津ルートが開いています。今は無料化されました。
 白根山は異界を思わせる荒涼とした雰囲気の中に美しい火口湖をもつところです。一方、本白根山周辺は整備されたハイキングコースがあって、リンドウ・コマクサ・シャクナゲなどの高山植物が咲いています。



草津温泉
くさつおんせん
群馬県吾妻郡草津町
Tel 0279-88-0800 草津温泉観光協会
 草津温泉は江戸時代から知られた温泉で別名「薬のいで湯」といわれました。江戸時代の温泉番付では東大関の最高位に位置付けられ日本を代表する温泉です。
湯畑
 林羅山は日本三名泉の一つに挙げたそうです。草津の温泉は強い酸性泉で、殺菌力が強く、入浴することで身体の外側、主に皮膚疾患などの症状を改善させていく力があるそうです。
 温泉街の中心地にある巨大な源泉が湯畑(ゆばたけ)です。常に白い湯煙がもうもうと立ち昇り、硫黄のにおいが漂っています。
 徳川家康に無理矢理に嫁つがされ正室となった豊臣秀吉の妹の朝日姫も亡くなる3年前に療養に来たそうです。その頃は真田がここを治めていたそうです。
 娘を真田幸村に嫁がした大谷吉継も文禄3年(1594)に入湯しています。ライ病の治療に草津の強酸の湯が効いたそうです。
 湯畑の前に熱の湯があります。「草津よいと〜こ、いちど〜はおいで」で有名な草津節を歌いながら長い板で湯もみしています。
熱の湯
 江戸時代から伝わる草津の湯もみは約60度の源泉を水を加えずに適温まで冷ますのです。草津独特の入浴法に湯もみで冷ました湯に湯長の号令で一斉に3分間だけ入浴する時間湯という入り方があり治療にも使われているそうです。
熱の湯



草津片岡鶴太郎美術館
くさつかたおかつるたろうびじゅつかん
群馬県吾妻郡草津町草津479
Tel 0279-88-1011
 平成10年(1998)12月、片岡鶴太郎さんの誕生日にオープンした美術館です。草津ホテルに隣接しています。温泉に来た人が浴衣と下駄で気軽に入れる美術館をつくりたいと願い実現させたそうです。
片岡鶴太郎美術館
 平成元年(1989)にドラマ「志功の青春記 おらあゴッホだ」で若き頃の棟方志功を演じたことがきっかけになって、水墨画を描いたり陶芸をしたりするようになったそうです。墨彩画や書など約400点の収蔵品の中から約120点の作品を展示しています。
片岡鶴太郎美術館



西の河原
さいのかわら
群馬県吾妻郡草津町大字草津521−3
Tel 0279-88-0800 草津温泉観光協会
 西の河原は草津の中央を流れる湯川の上流、温泉街の西側に西の河原公園があります。湯畑とならぶ草津温泉の名所の一つです。
西の河原
 「賽の河原」「鬼の泉水」とも呼ばれ、草木が育たない場所です。西の河原公園の一番奥に「西の河原露天風呂」があります。
西の河原
 お風呂の大きさ男女合わせては500u(約150坪)あり、池の中にいるようです。この露天風呂は多分日本で最大級の大きさだと思います。
西の河原



スキー資料館
群馬県吾妻郡草津町草津2−1
Tel 0279-88-0800 草津温泉観光協会
 草津運動茶屋公園の道の駅の敷地内にスキー資料館はあります。
スキー資料館
 昔使われていた藤や竹でできたスキーのストックや、地元草津出身のスキーノルディック複合金メダリスト荻原健司選手が使用したウエアやスキーなども展示されているそうです。
スキー資料館



ベルツ博士記念館
群馬県吾妻郡草津町草津2−1
Tel 0279-88-0800 草津温泉観光協会
 ベルツ博士記念館は草津温泉の名を世界に広めたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ博士の資料館です。
ベルツ記念館
 草津の名湯を絶賛し、クアハウス療法を打ち出したベルツ博士の遺品や資料などが展示されています。
ベルツ記念館
 スキー資料館、ベルツ博士記念館がある草津運動茶屋公園道の駅です。草津温泉の総合インフォメーションセンターとして活用されています。
道の駅



吾妻渓谷
あがつまけいこく
群馬県吾妻郡東吾妻町大字松谷
Tel 0279-68-2111
 吾妻郡長野原町と吾妻町にまたがる吾妻川の翡翠色の渓谷が吾妻峡です。特に長野原町川原湯の八ツ場大橋から、吾妻町松谷の雁ガ沢橋までの間約3.5キロを指します。
 八ツ場大橋から鹿飛橋までの約1.8kmには遊歩道が整備されています。
 九州の大分県北部の耶馬渓は険しい渓谷で有名です。大正元年(1912)、高名な地理学者、志賀重昂が吾妻渓谷を訪れ「関東耶馬渓」と呼んでいます。
 この渓谷は吾妻川の急流が、両側の岩石の山肌を深くを浸食して作られたそうです。
 大正九年、歌人の若山牧水が吾妻渓谷を訪れ「どちらかといえば(九州の耶馬渓より)形の小さく深くて静かな吾妻の渓に、より多く心の惹かるるのを感じ」(「みなかみ紀行」)と記しています。
 昭和10年(1935)に国の名勝に指定されています。なお、この一帯は八ツ場ダムの建設予定地になっています。このダムが完成すると名勝指定区域の約4分の1を失ってしまいます。



岩櫃城跡
いわびつじょうせき
群馬県吾妻郡東吾妻町原町
Tel 0279-68-2111
 岩櫃城は、鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮により築城されたといわれます。城郭の規模は1.4平方kmと上州最大で甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の3名城と称されました。
 その後、斎藤氏が領主になり、永禄6年(1563)武田信玄は重臣・真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。城主、斎藤基国は奮戦しましたが、武田氏の手中に落ちました。そして幸隆は吾妻郡の守護を命じられました。
 天正2年(1574)、幸隆の死後、長子の信綱が城主になりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死。真田家の3男、昌幸が相続しました。岩櫃城は武田氏滅亡の際には昌幸が武田勝頼を迎える準備をしていた城でもあります。
 真田昌幸は徳川家康の家臣となりましたが、上田の領地である沼田領を北条氏に渡すようにという働きかけを断ったため、天正13年(1585)家康は上田城を攻撃しました。結局徳川軍は千名以上の戦死者を出して引き上げました。豊臣側についた昌幸に秀吉は北条氏との仲裁をしました。
 名胡桃は真田に、沼田領の3分の1は真田に、残り3分の2は北条氏直にという内容でした。しかし、沼田全領に最後までこだわる北条氏直は、秀吉の仲裁を無視して沼田城代猪俣邦憲に名胡桃城を攻略させました。これに怒った秀吉は、 小田原城を攻め、北条氏は滅亡することになったのです。
 天正18年(1590)、北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城となりました。しかし、大坂の陣の際に徳川氏をはばかって真田信之の手で破却されました。


岩櫃山
 岩櫃山は吾妻8景を代表する景勝地です。標高802mで怪岩からなる切り立った岩山です。南面は200mもの断崖絶壁になっていて中国画のような趣です。
岩櫃山


岩櫃城温泉くつろぎの館
 岩櫃城温泉くつろぎの館は岩櫃ふれあいの郷の中心的な施設です。建物が岩櫃城に似せている健康センターです。本物の岩櫃城は真田氏の居城として有名でした。
岩櫃城温泉



不動の滝
ふどうのたき
群馬県吾妻郡東吾妻町原町新井
Tel 0279-68-2111
 昔は松山とか岩鼓と呼ばれていた標高530mの観音山(瀧莪山)のふもとには瀧莪山不動尊の堂があり、そのそばに不動の滝があります。
 延享4年(1747)に100の観音石像が祀られてから観音山といわれるようになったそうです。東山と西山があり、東山に西国33番と板東33番、西山に秩父34番が安置されているそうです。
 不動の滝は三重の滝とも呼ばれ霊験ある滝だそうです。落差30mの3段の滝です。新緑や紅葉など、四季折々に美しい吾妻の風景の構成要素となっています。
 滝の奥には奥の院の窟があります。左横には岩櫃山に通じる道があり石門があります。
不動堂



めがね橋(碓氷第3アーチ)
めがねばし(うすいだい3あーち))
群馬県安中市松井田町坂本
 めがね橋は信越線アプト式鉄道時代に使われた第3橋梁です。橋梁は第2橋梁から第6橋梁までの5基が残っていて、「碓氷峠鉄道施設」として国の重要文化財に指定されています。
 鉄道は碓氷の急峻を越えるためドイツのハルツ山鉄道のアプト式が採用されました。橋梁の設計者はイギリス人のパゥネル技師らです。明治25年(1892)12月に竣工され26年にかけて建設されました。煉瓦造りのアーチ橋で長さは87.7m、高さは31mあります。
 こう配は1000分の66.7という旧国鉄最高のこう配です。昭和38年9月に速度改良のため廃止になりました。優れた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しています。 
 明治政府は最重要の輸出品だった生糸産業の振興と、東日本の兵員を輸送するためこの鉄道を完成させました。
 500人以上の犠牲者を出しながら、わずか2年間の工期でこの大工事は出来上がったのです。
 現存する12のトンネルの入り口はすべて違ったデザインになっています。基本的にはレンガ積みですが切り石も巧みに組み合わせ、特異な外観になっています。



碓氷湖
うすいこ
群馬県安中市松井田町坂本
 碓氷湖は信越線の脇を流れる中尾川と碓氷川の合流点をせき止めて造った豊かな緑の中にある人工湖です。イワナ、マスが放流されているため釣り場としても人気があります。
 四方を国有林の大木に覆われ、特に秋の湖面にうつる紅葉は素晴らしいということです。最近、横川駅の碓氷鉄道文化むらからめがね橋方面につづく遊歩道が完成しています。



坂本宿
さかもとじゅく
群馬県安中市松井田町坂本
 坂本宿が出来たのは徳川家光の時代です。参勤交代に伴い碓氷峠の登り口に宿場が必要だったのです。寛永2年(1625)に付近の住民を移住させ、幅員14.85m、延長713mの道路を造成し中央には用水路を設置しました。
 ここに本陣、脇本陣、馬宿、旅籠32件、酒屋、風呂屋、女郎屋各6件、米屋、鍛冶屋などすべての商店が並びました。現在でも当時の建物がいくつか残っています。



碓氷関所跡
うすいせきしょあと
群馬県安中市松井田町横川乙573
Tel 027-393-1111
 碓氷関所は醍醐天皇の昌泰2年(899)に群盗を取り締まるために碓氷坂に設けられました。今の場所に移ったのは元和年間(1615〜1623)といわれています。
 元和2年(1616)安中城主「伊井直勝」が幕命により守護代となり、以後安中城主が代々守備にあたりました。
 「入り鉄砲に出女」という幕藩体制を中心とした徳川幕府の確立、安定のために使われました。明治2年(1869)の廃止まで中山道の要所となりました。



碓氷峠鉄道文化むら
うすいとうげてつどうぶんかむら
群馬県安中市松井田町横川407−16
Tel 027-380-4163
 平成9年(1997)の長野新幹線開通に伴い、信越線の「碓氷越え」(横川−軽井沢間)が廃線になりました。この碓氷峠の鉄道100年の歴史を残すために「碓氷峠鉄道文化むら」が平成11年(1999)4月に横川機関区の跡地に完成しました。
 屋内には音とビデオによる運転体験や歴史資料の展示、広い屋外には多数の保存車両や、ミニSLや狭軌SL列車の運転も行われています。
 信越本線の廃線跡を利用して、EF63形電気機関車の体験運転も行なわれています。また平成17年(2005)から、トロッコ列車の運行も開始しています。



秋間梅林
あきまばいりん
群馬県安中市西上秋間
Tel 027-382-1111
 秋間梅林は秋間川の上流の山あいに広がる約50ヘクタールの梅林です。自然を損なうことがないように造られたそうです。
 35000本の紅白梅が2月中旬から3月下旬にかけて山間に咲き誇ります。毎年2月第三土曜日から3月中旬の間、梅祭りは催されます。
 山も谷も白やピンクの花で埋め尽くされ、ほのかな甘い香りが漂います。
 梅林祭りでは、梅の花の下で和太鼓が鳴らされたり、箏曲の演奏があったりします。
 甘酒もサービスされ、モデル撮影会などが行なわれたりして梅の香りを楽しむ人でにぎわいます。
 近くには磯部温泉郷があります。安中を代表する見所の一つになっています。



新島襄旧宅
にいじまじょうきゅうたく
群馬県安中市安中1−7−30
Tel 027-381-2477
 新島襄は明治8年(1875)同志社大学の前身となる同志社英学校を設立した人です。天保14年(1843)安中藩士の子として江戸・神田の板倉家上屋敷で生まれました。21歳の時、函館からアメリカへ密航しキリスト教徒となりました。
 帰国後父母の住む安中へ身を寄せました。明治7年(1874)11月29日、この家で10年ぶりに父母姉妹と再会しました。同年12月24日まで滞在し学校などでキリスト教の教えを伝えたそうです。
  昭和38年(1963)に安中市はこの新島襄の旧宅を移築し、その遺品や関係書類及び写真等を収集して展示する施設を造り、翌年に開館しました。
  新島襄は、明治8年(1875)6月に京都にある旧薩摩藩邸跡を購入し、11月に同志社英学校を創設しています。明治23年(1890)1月23日に神奈川県の大磯で生涯を終えたそうです。



旧安中藩郡奉行役宅
きゅうあんなかはんぐんぶぎょうやくたく
群馬県安中市安中3ー6ー9
Tel 027-381-3855
 旧安中藩郡奉行役宅には、古くは藩主板倉勝明の側近の山田三郎が住んでいたと伝えられています。その後、猪狩幾右衛門懐忠が入居したそうです。両者とも安中藩の郡奉行を勤めました。

 この建物は平成5年(1993)から6年にかけて、古図面と建物に残る痕跡を元に当時の姿に復元したものだそうです。ここに住むことは領内の農民の統治をも担っていたと考えられます。



旧安中藩武家長屋
きゅうあんなかはんぶけながや
群馬県安中市安中3−6−1
Tel 027-382-7515
 かって安中城内には家臣の屋敷が建ち並びその一部は長屋だったそうです。旧安中藩武家長屋はそのうちの4軒長屋で安中城西門のすぐ東にあったものです。
 東隣には5軒長屋もあったそうです。3軒だけが残存していた長屋を建築当初の4軒長屋に復元した物です。
 安中藩の右筆・小野直が残しておいた図面をもとにして平成元年(1989)から3年かけて当初の姿に復元させたそうです。




旧碓氷郡役所
きゅううすいぐんやくしょ
群馬県安中市安中3ー21ー51
Tel 027-382-3764
 明治11年(1878)に郡区町村編成法が公布されて碓氷郡役所が開庁しました。明治21年(1888)6月に碓氷郡役所の新庁舎を現在の場所に建てたそうです。
  ところが明治43年(1910)に原因不明の出火で全焼してしまい、翌年の明治44年(1911)に竣工されたものが現存する碓氷郡役所です。木造平屋建で横に長い形です。
 大正15年(1926)郡役所が廃止され、公的な事務所として利用されたりしましたが、平成8年(1996)に市指定重要文化財となった際、修復されて公開されるようになりました。



日本キリスト教団安中教会
にほんきりすときょうかいあんなかきょうかい
群馬県安中市安中3−19−10
Tel 027-381-0680
 日本キリスト教団安中教会は明治11年(1878)創立された大谷石造りの美しい教会です。同志社大学創始者の新島襄より湯浅治郎など30人が洗礼を受けたところでもあります。

 この教会の礼拝堂は、新島襄召天30周年を記念して建てられ「新島襄記念会堂」ともいわれています。大正8年(1919)に建造された建物の外観は大谷石造りで内部にはステンドグラスがはめ込まれています。
 群馬県最初のキリスト教会であるとともに、日本人の手で創立された日本で初めての教会だそうです。




海雲寺
かいうんじ
群馬県安中市郷原561
Tel 027-385-3899
 海雲寺は招き猫の寺として有名です。海雲寺の住職が東京世田谷の豪徳寺の招福観音を勧請したのです。
 昔、彦根城主の井伊直孝が武蔵野に狩りに出かけ大雨にあってしまったそうです。その時に一匹の猫が現れたそうです。
 その猫は片手を上げて茅屋の方まで案内してくれたので雨がしのげたそうです。これが招福観音・豪徳寺の由来です。

 豪徳寺の招き猫にちなんだ、手の長い独特の招き猫も販売されています。商売繁盛、家内安全、交通安全に御利益のある寺として信仰されています。
 境内にある東門は200年前に名主今井家によって建てられた門を移築したものだそうです。
 境内には努力子孫繁栄の榧(かや)の木など、古木が茂り、四季折々、花が咲き乱れるそうです。



少林山達磨寺
しょうりんざんだるまじ
群馬県高崎市鼻高町296
Tel 027-322-8800
 昔、大洪水で碓氷川に流れて来た大木を一了行者が達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのが少林山達磨寺の起こりです。
 元禄10年(1696)、前橋城主酒井公が水戸光圀公にお願いして、中国の渡来僧「心越禅師」(しんえつぜんじ)を迎え禅の道場として、この寺を開いたそうです。
 方位方災を除くという北斗星を神格化した北辰鎮宅霊符尊(ほくしんちんたくれいふそん)と達磨大師を祀っています。
 達磨寺は、張り子の縁起達磨の生まれた寺として知られていて、数々の「だるま」が祭ってある「達磨堂」があります。
 群馬県出身の歴代総理のだるまなども飾ってありました。
 この周辺は「だるまの里」といわれ、日本一のだるまの産地だそうです。
 毎年1月6、7日に開かれるだるま市は有名です。境内にたくさんの縁起達磨の露店が立ち並び、家内安全、商売繁盛など縁起を求めて達磨を買い求めにくる人で賑わいます。
 高崎だるまは少林山達磨寺9代東獄和尚の伝授で生活に苦しむ農民の副業としてだるま作りを山県友五郎が始めたことから始まったそうです。
 特徴は、マユは鶴、鼻から口ヒゲは亀をあらわし、とても縁起のよい顔の福入だるまです。
 少林山周辺では正月恒例のだるま市にむけ、70軒ほどの家で年間150万個のだるまが生産され、全国の8割を占めています。



高崎白衣大観音
たかさきびゃくいだいかんのん
群馬県高崎市石原町2710−1
Tel 027-322-2269
 高崎市の西方に広がる観音山丘陵の頂上には白衣大観音がそびえ立っています。平成12年(2000)には像としては初めて国の登録有形文化財に選定されたそうです。
 高崎市街地を見下ろす観音様は、昭和11年(1936)に実業家井上保三郎によって建立されたそうです。今では高崎のシンボルとして市民に愛されています。
 高さは41.8mで地上9階建ての大きなものです。慈愛に満ちた柔和な表情をしています。
 胎内は9層に分かれていて、20体の仏像を安置しているそうです。内部を肩の辺まで階段で上がることができます。
 観音像の周りには約3000本の桜の木が植えられていて春には花見客で賑わいます。




清水寺
きよみずでら
群馬県高崎市石原町2401
Tel 027-323-3214
 観音山丘陵の南麓に位置する清水寺は、長い石段とアジサイの美しい寺として有名です。創建は大同3年(808)坂上田村麻呂が東夷東征の際、この地を訪れ京都の清水寺から勧請して戦勝祈願と武運長久を願ったのが始まりと伝えられています。
 歴代領主から庇護され元禄5年(1692)には高崎藩主安藤重博が狩野常信に命じて「龍頭二観音現出ノ図」と「能楽吉野詣ノ図」の2面の大絵馬が観音堂に奉納されています。
 京都の清水寺を思わせる鮮やかな朱色の楼門からは市街が一望できます。堂内には一椿斉芳輝の献額16面が回廊を飾っています。



群馬県護国神社
ぐんまけんごこくじんじゃ
群馬県高崎市乗附町2000
Tel 027-322-6309
 群馬県護国神社は明治維新から第2次世界大戦までの群馬県出身関係の殉国の英霊4万7千余柱を祀っています。この神社が高崎市に創建されたのは、昭和16年(1941)でした。
 靖国神社の分社が高崎市に建立されることが内定した時期に、全国的に靖国神社の分社を1府県1社建立しようという計画が検討されたため、前橋市も名乗りを挙げ猛烈な誘致運動を開始しました。
 その後、内務大臣が指定する護国神社には社名に府県名を付け、1府県1社を原則としました。



高崎城跡
たかさきじょうせき
群馬県高崎市高松町1
Tel 027-321-1257 高崎観光協会
  高崎城の地には、平安時代末期に豪族和田義信が築城した和田城と呼ばれる城がありました。室町時代になると和田氏は関東管領の上杉氏に帰属していましたが、永禄4年(1561)城主和田業繁は武田信玄に従いました。その後、息子の和田信繁は、北条氏に属し、天正18年(1590)に北条氏が滅ぶと領地は没収されました。
 徳川家康が関東の領主になると高崎市周辺は徳川四天王の一雄・井伊直政が12万石で入封し高崎藩を立藩します。当初箕輪城を居城としましたが慶長3年(1598)に高崎城に移しています。
  この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝です。高崎城は南北に流れる河川を自然要害に、旧和田城を城地の一部に取り込んだ典型的な平城です。
 本丸を中心に西の丸・榎郭と輪郭式で構成、二の丸・三の丸は梯郭式縄張で本丸を囲む形を持ち、更に、総構えと呼ばれる堀と土塁で城下町を囲む広大な城域でした。箕輪城から多くの構築物を移し、全ての城郭が完成したのは、寛文4年(1664)頃といわれています。
  井伊直政は2年余り在城しましたが、慶長6年(1601)、近江佐和山城(彦根市)へ転出しました。その後、酒井家、戸田松平家、藤井松平家、安藤家と城主が入れ替わっています。
  元和5年(1619)に入城した安藤重信は城の改修に着手しました。以後、3代77年間をかけて大改修され近代城郭が整備されました。 寛永10年(1633)、3代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた弟の徳川忠長がここで自害しました。
  その後、柳沢吉保とともに5代綱吉政権の片腕であった松平(長沢・大河内)輝貞、6代家宣・7代家継の側用人の間部詮房と続き、再度、松平輝貞が8代吉宗に用いられ、老中として返り咲き在城しました。そのまま松平(長沢・大河内)家は10代、約150年続いて明治維新を迎えています。明治4年(1871)廃藩置県により高崎城は廃城となり、建造物は移築、破却されていきました。



多胡碑記念館
たごひきねんかん
群馬県高崎市吉井町池1085
Tel 027-387-4928
 多胡碑は、奈良時代初期の和銅4年(711)に吉井町に建てられた石碑です。宮城県の 多賀城碑(たがじょうひ) ・ 栃木県の 那須国造碑(なすくにのみやつこひ) とともに日本3古碑の一つに数えられています。
 当時の3つの郡から300戸を分割し、新しく多胡郡を設けたことが記されています。昭和29年(1954)国指定特別史跡に指定されました。
 和銅4年(711)3月9日に当時の群馬県では14番目の郡の多胡郡が誕生したことを記す記念碑なのです。
 山ノ上碑、金井沢碑とともに上野3碑と称されています。この3碑は同一郡内の比較的近い範囲に存在し、建碑時期も近いそうです。
 碑は地元では天引石、多胡石と呼ばれる牛伏砂岩(うしぶせさがん) という硬質の砂岩を切り出してつくられています。
 多胡碑の高さは1m27cmあり、幅は60cm、あるそうです。碑文は、和文と漢文が混じり合ったもので、6行80文字が彫られているそうです。
 四角柱の碑身の上に、平らな 「笠石」 が乗って
います。笠石は高さ25cm、軒幅88cmの方形造りです。字体は丸みを帯びた楷書体で六朝の影響を受けているとも、中国北魏の書風に通ずるともいわれています。
 その優れた書体は今も多くの書家達に愛好され、多胡碑記念館では、そのすぐれた書体に関する中国等の拓本等も展示されています。
 「給羊」の字は古くから注目されています。地元では、昔から「羊太夫」の墓とされ、「羊さま」と呼んで崇拝されています。



榛名神社
はるなじんじゃ
群馬県高崎市榛名湖町849
Tel 027-374-9050
 榛名神社は榛名山中腹にあり、1400年の歴史をもつ霊地です。 この神社は用明天皇元年つまり927年の創建と伝えられています。火と水の神を祀る山岳信仰の本山なのです。
 古墳時代に山麓豪族居住地近くにまつられていた榛名神社が、天台、真言の密教徒により、道場であった現榛名神社の岩場へ奉られたと考えられています。
 榛名神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された上野国12社の内六ノ宮として足利持氏、上杉謙信、小田原北条氏、真田氏といった歴代領主や支配者に崇敬されました。
 榛名神社は戦国時代後期になると座主職も置かれず衰退しますが、江戸時代に入り天海僧正が再興し、慶長19年(1614)には「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が発布され寛永寺の配下となります。幕府からも庇護され再び社運が隆盛しました。
 江戸時代に入ると榛名神社は修験僧だけでなく「榛名講」と呼ばれる民間信仰も周辺の農村部に浸透したこともあり、多くの参拝者が訪れ山内の社家は3000坊を超え繁栄を極めたといわれています。

 旧仁王門であった随神門(ずいしんもん)は弘化4年(1847)上棟されています。棟梁は埼玉県宮内の関根修理、神仏分離までは二力士像があって運慶の作と伝えられていました。随神門は国の重要文化財に指定されています。
随神門
 慶応4年(1868)3月、神仏分離令が出され、仏教的なものは排斥されました。このとき、榛名神社から仏教色は一掃されたそうです。この三重塔は明治2年(1869)に再建されたそうです。銅板瓦葺きの16mの塔です。現在は神宝殿と呼ばれ珍しく神を祀っている三重塔なのです。
三重塔
 万年泉と呼ばれる水が枯れることがない泉です。榛名神社は雨乞いの神として有名です。雨乞いにはここの水をいただいていくのです。
万年泉
 うっそうとした杉の古木が続く山道を登ると、奇岩がつらなる境内に至ります。参道の石段は苔むし、ところどころにそびえる奇岩も神秘的です。
 瓶子(みすず)の滝です。瓶子は神に供える神酒を入れる錫などの器のことです。滝の落ちている両脇の岩を瓶子岩と呼び、そこから落ちている滝という意味です。
瓶子の滝
 ご神体は円錐型の岩に人の頭がのったような大きな奇岩だそうです。
 400年前、武田信玄が箕輪城攻略の際、矢を立て戦勝祈願をしたと伝えられる杉の巨木です。三本寄せ植え、樹高約55m、目通り周約9.7m、推定年齢600年前後といわれています。昭和8年(1933)に国の天然記念物に指定されています。
矢立て杉
 双竜門です。安政2年(1855)に建てられています。八棟造りの建物で素晴らしい彫刻です。龍の彫刻や水墨画が描かれていることから双龍門と呼ばれているそうです。国の重要文化財に指定されています。
双竜門
 双龍門の左にある巨岩は鉾岩(ほこいわ)と呼ばれているそうです。別名ローソク岩ともいわれているそうです。
 神幸殿(みゆきでん)は安政6年(1859)に建てられています。5月8日に本社よりこの神幸殿に神輿が渡御し、15日に還御されるまでの期間開かれ、参拝することができるそうです。国の重要文化財に指定されています。
神幸殿
 榛名神社の本社・幣殿・拝殿は文化3年(1806)に再建された建物です。本社は御姿岩の前面に接して建てられ岩奥に御神体が祀られています。権現造の建物は朱と黒を基調として要所に金箔や多彩な彩色が施されています。権現造りの本社・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されています。
榛名神社本社
 国祖社及び額殿は本社・幣殿・拝殿の向かって左に建っています。国祖社は元の本地堂で、慶長年間(1600年頃)の建築です。接続する額殿は文化11年(1814)の建築です。
国祖社及び額殿
 基礎は本社・幣殿・拝殿と同じ高さにつくられ、入母屋造りで向拝や欄間の彫刻がみられますが、全体的に装飾は控えめになっています。国祖社及び額殿は国の重要文化財に指定されています。
国祖社及び額殿
 榛名神社神楽殿脇の鉄灯篭には、灯身部に198字の銘文が残っています。元享3年(1323)に造られた群馬県内最古の古鉄灯篭です。群馬県の重要文化財に指定されています。
鉄灯篭
 神楽は神に奉納するために舞われるので、神楽殿は本殿に真向かう位置に建てられています。明和元年(1764)の再建です。国の重要文化財に指定されています。
神楽殿



榛名湖
はるなこ
群馬県高崎市榛名湖町
Tel 027-374-9408 榛名湖レストハウス
 榛名湖は美しい榛名の山並みに囲まれた標高1100mの別天地、榛名火山のカルデラに水がたまってできた湖です。
 東西約1km、南北1.3kmの勾玉型で、周囲は約5kmです。のんびりと歩くトテ馬車も人気があります。榛名富士を湖面に映した姿は絶景のひとことです。
 四季を通じてたくさんの観光客で賑わう榛名湖の一帯は県立榛名公園として整備されています。榛名湖は古くは伊香保沼と呼ばれていたそうです。
 湖畔は高峰三枝子が歌った湖畔の宿のモデルになったことろです。伊香保温泉も近いので避暑地として人気があります。



旧官営富岡製糸場
きゅうかんえいとみおかせいしじょう
群馬県富岡市富岡1−1
Tel 0274-64-0005
 安政6年(1859)の開港により、日本の生糸は、品が不足していた欧米各国に輸出され活況を呈しました。横浜には、各国の貿易商社が軒を並べました。
 ところが品質のよくない粗悪な生糸が出回り不評を買いました。明治新政府は欧米の生糸に劣らない製品を生産するため創設責任者に尾高惇忠を任命し、洋式の製糸の機械の導入して近代的な生産方式を確立しようとしました。
 フランス人ポール・ブリュナに指導され、家内生糸生産が盛んであったこの富岡に官営の製糸工場が建設されました。明治5年(1872)7月工場完成し10月から操業が開始されたそうです。
 ブリュナなどの外国人が赤ワインを飲んでいるのを若い娘の血を飲んでいるなどと噂され、工女が思うように集まらなかったそうです。
 政府命令によって士族などの子女が集められ軌道に乗ったそうです。そしてここで修行した子女が自分の地方に戻った時には機械式生糸生産の指導者として活躍したそうです。



龍光寺
りゅうこうじ
群馬県富岡市富岡1093
Tel 0274-62-0528
 龍光寺の墓地には、数カ所に分散されて48人の旧官営富岡製糸場工女の墓があります。明治6年(1873)6月には全国から集められた工女はは550人を上回ったそうです。
 富岡製糸場は官営の模範製糸工場として、明治5年(11872)10月に操業を開始しました。そして機械による製糸の技術習得のため多くの女性が集められたのです。
 明治26年(1893)までに不幸にして病気などで亡くなった者女性は64人ほどいて、大半は遠い異境の地から富岡にきた人たちでした。この龍光寺と海源寺に埋葬されたそうです。
 龍光寺で有名な物は板碑 (いたひ)と梵鐘です。緑泥片岩という青石を材料とした、高さ140cm、幅45.5cmの長方形の板碑は群馬県の有形文化財に指定されています。
 胎蔵界大日真言とその鏡文字を五輪塔形に組み合わせてあるのだそうです。胎蔵界大日の報身真言を示す種子(ア、ビ、ラ、ウーン、ケン)を五輪塔形に組み合わせて薬研彫りで刻んであるのです。
 貞治三年(1364)申辰卯月日」「逆修」「聖書」の銘があります。欠けたところやすり減った所など見あたりません。綺麗に彫られた板碑です。
 浄土宗の龍光寺は慶長17年(1612)宮崎宿(現富岡市宮崎)にありました。新田開発のためこの地に移ったそうです。その時の中興開山は寂誉道楽で、第2世はのちに太田の大光院の開山となった呑龍(どんりゅう)上人だったそうです。
 龍光寺の梵鐘(ぼんしょう)は総高約112cm、口径約65cmで室町時代の鋳造と推定されています。昭和26年(1951)県指定重要文化財になっています。



宮崎公園
みやざきこうえん
群馬県富岡市宮崎329
 「しののめ堂」と呼ばれる六角堂が見下ろせる宮崎公園です。明治20年(1879)宮崎の富豪であった鈴木城作氏が造ったものです。ツツジとモミジを中心植えられています。
 昭和30年(1955)に富岡市に移管され、宮崎公園となりました。園内には重要文化財の旧茂木家が移築されています。句会や茶会なども催されているそうです。



旧茂木家住宅
きゅうもてきけじゅうたく
群馬県富岡市宮崎329
Tel 0274-62-1511
 この家はもとは市内神農原に建てられていたものです。板ぶき屋根の民家としては全国的にも最も古い建築方式で戦国時代の大永7年(1527)の建築だそうです。
 柱材に残された後世の墨書に大永7年の建築と記されていたそうです。この所有者であった茂木家の先祖が、戦国時代に神農原にあった大山城の城主であったという古文書も伝えられています。 
 切妻造りの板葺石置屋根の民家で桁行15.152m、梁間7.576mあるそうです。柱材の組み方は雄大で力強く中世の特徴をよく残しています。
 昭和45年(1970)6月、国の重要文化財に指定されました。昭和52年に宮崎公園に移設、保存修理のうえ一般に公開されています。



貫前神社
ぬきさきじんじゃ
群馬県富岡市一ノ宮1535
Tel 0274-62-2009
 貫前神社は千年余を経た古木に囲まれた荘厳な静けさの中にあります。鳥居から長い階段を下ったところに建立しています。
 貫前神社の唐銅製燈籠(からかねせいとうろう)は高さ395cmの一対の銅製燈籠です。慶応元年(1865)に制作され慶応2年にここに建てられました。地元の養蚕農家をはじめ上州、江戸、横浜の生糸、絹商人などから4790両もの献納金が集まったそうです。富岡市指定重要文化財です。
唐銅製燈籠
 貫前神社は531年に武神である経津主神 (ふつぬしのかみ) と農耕の神、比売大神 (ひめおおかみ) を祀ったのが始まりで、1500年近くの歴史があります。
 現在の社殿は3代将軍徳川家光の命によって建てられたそうです。江戸時代初期の漆塗りで極彩色の社殿は国の重要文化財に指定されています。
 醍醐天皇の時代に編纂の始まった延喜式の神名帳には明神大社として列せられていて古にしえの時代からの名社です。上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。 
 本殿・拝殿・楼門は寛永12年(1635)3代将軍家光が再建し、その後元禄11年(1698)に5代将軍綱吉の時代の大がかりな修理をしたということです。
 天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)があったそうです。奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていた事が推察できます。
 社伝には鷺宮(さぎのみや)(安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおかあやめがたに)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531)とされ、これが創建とされています。

 境内には藤太杉(とうたすぎ)とよばれる大杉があります。樹齢1200年といわれています。天慶2年(939)下野国唐沢山(現佐野市)の城主藤原秀郷(俵藤太秀郷)が平将門討伐の際、ここに参拝して自分と同じ年の36本奉納した内の一本だといわれています。
藤太杉



七日市藩邸跡
なのかいちはんていあと
群馬県富岡市七日市1425
Tel 0274-63-0053 富岡高校
 七日市藩邸跡は群馬県立富岡高校の中にあります。七日市藩は上州前田氏が治めていました。敷地内には、天保13年(1843)に建てられた藩邸の一部が残り「御殿」と呼ばれています。
 富岡高校のシンボルとなっている門は「黒門」と呼ばれ「御殿」の中門です。現在も生徒の通用門として使用されています。
 「黒門」という呼び名は加賀宗主家江戸屋敷の赤門(東大)に対して使ったそうです。
 七日市藩主は加賀の前田家の分家が当っていました。上州には幕府の蔵入り地や小藩がたくさんあり、小幡藩織田家 (明和事件後は松平氏)などもありました。
 七日市藩の藩祖は、加賀藩の藩祖・前田利家57歳の時の庶子、五男の前田利孝です。大坂の陣で利孝は徳川秀忠に属して出陣しその功により、元和2年(1616)、上州甘楽で1万石を与えられ、七日市に陣屋を構えました。
 小藩で、天保の大飢饉などの天災も相次ぎ、本家である加賀前田藩の財政的援助を受けて、ようやく存続していたような小さな藩だったようです。
 以後、七日市藩は一家支配で、上州前田家12代の陣屋として明治維新まで存続しました。



妙義山
みょうぎさん
群馬県富岡市妙義町
 妙義山は赤城山・榛名山とともに上毛三山とよばれ群馬県を象徴する山の一つです。大分県の耶麻渓、香川県の寒霞渓とともに日本三大奇勝の一つにも数えられています。
 この妙義山は、白雲山(相馬岳1104m)、金洞山(1104m)、金鶏山(856m)の3峰からなる表妙義と、烏帽子岩(1117m)、谷急山(1162m)などからなる裏妙義とに分かれています。
 石門群のある表妙義は県立妙義公園になっています。妙義山は妙義荒船佐久高原国定公園に指定されています。
 妙義山は火山噴出物で構成される古い火山体といわれ、長年にわたる風化、浸食によって岩石の堅い部分が残り、今日見られるような奇岩軽岩の山容になったようです。
 そのような特徴は第1から第4の石門、カニの横ばい、大砲岩やろうそく岩などがある石門群によく表れています。
 白雲山の左側にある三角形の鋭い岩が1104mの相馬岳です。右側の山腹に妙義神社の奥の院があります。その下に大の字があります。左端はバラ尾根です。
 856mの金鶏山は、まさに日本版シギリアロックです。この右に1104m金洞山が続きさらに右が白雲山です。



妙義神社
みょうぎじんじゃ
群馬県富岡市妙義町妙義6
Tel 0274-73-2119


 妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあります。入口にあたる妙義神社の石碑のまわりには、樹齢200年余りになるシダレ桜が春には咲き乱れるそうです。
 妙義神社の創建は宣化天皇2年(537)と社記に記されているそうです。現在妙義神社には国指定重要文化財の絵巻物などが多数所蔵されています。

 入口には国の重要文化財に指定されている総門が建っています。江戸時代には白雲山石塔寺の仁王門だったそうです。神仏分離により総門に改められたということです。
総門
 3間2間単切妻造りの立派な大きな門です。安永2年(1773)に建てられています。屋根は最近まで檜皮葺でしたが、昭和60年から平成元年(1989)の修理により創建時の銅板葺に改められました。
総門

 老杉の生い茂る境内に県の重要文化財に指定されている青銅の大鳥居と燈籠があります。歴史と信仰を語りかけているようです。
燈籠

 大鳥居の神額裏には、寛文八戌申年十二月吉日、前天台座主二品親王良尚書之と書かれているということです。
大鳥居

 大鳥居の近くに国の天然記念物に指定されている妙義神社の大杉の子孫があります。昭和8年(1933)に天然記念物に指定された大杉は老木のため衰弱し昭和46年(1971)1月の台風により倒壊したそうです。
妙義神社の大杉
 茨城県の国立関東林木育種場にこの杉の健全な穂がつぎ木で保存されていました。これを群馬県林業試験場がもらい受け大杉の子孫を作り植栽したものだそうです。
妙義神社の大杉


波己曽社
はこそしゃ
 県の重要文化財である旧本社の波己曽社(祈祷殿)です。本殿、合の間、拝殿の構成です。300年以上も前の建造です。
波己曽社祈祷殿
 最近まで本殿は波己曽社に、拝殿は神楽殿になっていました。先年新材を補足して合の間を入れ移築大修理し、旧態に復したそうです。
波己曽社
 妙義神社は古代は波己曽(はこそ)神社と呼ばれていたようです。「三代実録」の貞観元年(859)の条に「授上野団正六位上波己曽神従五位下」とあるのが最も古い記録だそうです。
波己曽社
 もとは波己曽の大神といい、後に妙義と改めたと伝えられています。江戸時代においては歴代徳川将軍から厚い崇拝を受けるなど、古くから格式の高い神社として武士や民衆から信仰されてきたそうです。
波己曽社

唐 門
 長い石段の上には唐門が待ち構えています。この建物も国の重要文化財に指定されています。
唐門
 桁行1間・梁間1間・妻部は唐破風の平入の門で、貫頭の木鼻は菊花の籠彫、戸の板面は薄肉彫の鳳凰の彫刻などが施されています。
唐門
 世良田東照宮の唐門とともに、県内では最も優れた唐門との評判です。
唐門
 これらの社殿は江戸時代の宝歴2年(1752)に大改築され、昭和60年から平成元年(1989)に4億円の費用をかけて昭和の大修理が行われたそうです。
唐門

本殿、幣殿、拝殿
 本殿、幣殿、拝殿は代表的な権現造で国の重要文化財に指定されています。本殿は入母屋造りで、桁行3間、梁間2間、1重のあでやかな社殿です。
本殿、幣殿、拝殿
 特に本殿の板壁部、欄間、蟇股内、小天井、柱頭、拝殿では向拝部とのつなぎの海老虹梁に手のこんだ龍が彫られています。
本殿、幣殿、拝殿
 欄間や蟇股内、脇障子などには松に鳳凰、松に雉の透彫、菊花葉の籠彫など日光東照宮を造形した彫刻師の技術がわかります。
本殿、幣殿、拝殿
 内部は折上格天井(おりあげごうてんじょう)になっていて、各間毎に菊花の極彩色が施されています。
本殿、幣殿、拝殿
 本殿、拝殿と共に黒漆塗銅葺入母屋造りです。拝殿は正面に千鳥破風をおき、その前に唐破風の向拝屋根を張り出しています。
本殿、幣殿、拝殿
 拝殿の龍には上り龍と下り龍が対をなしています。鶴の彫刻、鷹ととんび、脇障子の竹林に七賢人向拝の柱の根巻金具の彫刻も見事です。
本殿、幣殿、拝殿
 棟梁は飯村杢允藤原久敬、松本播磨藤原住房と記されているそうです。江戸から彫物師、塗物師、錺(かざり)工、鋼屋根職人など来たそうです。
本殿、幣殿、拝殿
 本殿裏にある天狗社です。お参りすると心願成就するそうです。
天狗社

旧宮様御殿
 妙義神社は江戸時代、上野東叡山寛永寺の座主輪王寺宮御代々御兼帯の神社となり、歴代将軍や諸大名より篤い崇敬を受けていました。
妙義神社御殿
 妙義町の指定重要文化財の妙義神社御殿です。俗に宮様御殿といわれ、嘉永5年(1852)に再建されています。
妙義神社御殿
 寛永13年(1636)以来、輪王寺宮の隠居所となり、御登山の折には、この御殿に泊ったそうです。
妙義神社御殿

 旧宮様御殿の入口には群馬県指定天然記念物の妙義神社のウラジロガシがありました。
ウラジロガシ



ふるさと美術館
ふるさとびじゅつかん
群馬県富岡市妙義町妙義1−5
Tel 0274-73-2585
 妙義山を背景としたすばらしい景観に抱かれた美術館「ふるさと美術館」があります。道の駅みよぎの隣りにある美術館で平成6年(1994)にオープンしました。昭和58年(1983)から続いている「妙義山を描く絵画展」の秀作を一堂に展示しています。
 1階に常設展示室・企画展示室、2階に展示ギャラリー、3階に展望写生室があり、絵画を通して妙義山の四季に触れることが出来ます。新しい文化の拠点として妙義の風景と芸術を愛するすべての人々のために解放されています。



中之嶽神社
なかのたけじんじゃ
群馬県甘楽郡下仁田町上小坂1246
Tel 0274-82-5671
 中之嶽神社は妙義山の中腹に位置し、寿永元年(1182)欽明天皇の時代に創建された古社で日本武尊を祀っています。大黒尊天霊場でもあります。
中之嶽神社鳥居
 第52代嵯峨天皇の勅命により、弘仁9年(819)大納言藤原冬嗣卿と弘法大師が登嶽し、大国主神出雲大社の分社として創設されたそうです。
中之嶽大国神社鳥居
 階段手前に中之嶽大国神社があります。関東の出雲として世に知られています。だいこく様は普通は木槌を持っていますがここのは剣を持っています。剣が厄や悪霊を祓うといわれているそうです。
中之嶽大国神社
 中之嶽神社は古くから妙義山信仰の社として参拝されています。社殿の後方には轟岩という奇岩が空を突き刺す様にそびえています。
中之嶽神社社殿
 中之嶽神社はその轟岩を御神体としているので拝殿・幣殿のみで本殿がない珍しい様式となっています。 大和時代の第29代欽明天皇(在位539-571年)の御代に妙形氏が社殿を建立したそうです。平安末期、第82代後鳥羽天皇の寿永2年(1183)藤原祐胤卿が神剣を奉納しています。
 江戸時代、第108代後水尾天皇の元和2年(1616)加藤長清(道士)が登厳し中興の開山主として神器を守り奉斉し、諸大名が崇敬を寄せるようになりました。
 奇岩怪石が屹立する妙義の金洞山(1104m)には戦国時代から江戸時代初期にかけて実在したとされる「長清」道士の天狗伝説が残っています。
 加藤長清は戦国時代小田原の北条氏に仕えていた武士の家に生まれたそうです。道士の父親は殺されてしまったそうです。
 自分の未熟な剣の腕では仇討ちなど到底無理であることを悟り、剣術の修行のため数年間、金洞山に篭りました。そして厳しい修行を積み、ついには剣の極意を究めたそうです。
 父親の仇を探し出し一撃のもとに相手を斬り見事に宿願を果たした道士は仏門に入りました。そして名を「長清」と改めました。そして金洞山に戻ると悟りへの修行に没頭し、病気を治すという奇跡などもしたといわれています。
 死後、道士は妙義山に棲息する天狗の頭領となり、大勢の天狗を率いて今でも山岳仏教の修行者や山中の神社の崇敬者を見守っているといわれているのです。



荒船湖
あらふねこ
群馬県甘楽郡下仁田町南野牧
Tel 0274-82-2111 下仁田町役場商工観光課


 戦国時代の伝説が残る、山に抱かれたダム湖です。親水公園は家族連れに人気があります。山間の静かな湖畔を散策できるようになっています。
 湖畔には、親水公園と子供たちに人気のローラーすべり台がある農村公園があります。
 荒船湖には周遊コースができています。ここから湖岸を上がり右岸の親水公園へ行き、向こう岸を周り農村整備公園、左岸親水公園をまわってこれるのです。
 近くには阿唱念の滝など自然景勝地もあって自然を満喫できます。 



神津牧場
こうづぼくじょう
群馬県甘楽郡下仁田町南野牧250
Tel 0274-84-2363
 明治20年(1887)創設の日本初の洋式牧場です。 長野県北佐久郡志賀村出身の神津邦太郎氏によって開設されたそうです。
 長野県境の標高1000mの物見山東斜面に総面積350ヘクタールの牧場が広がっています。遊歩道や草広場なども整備されています。
 アルプスの高原牧場を思わせるとんがり屋根の牧舎が印象的です。動物と触れあえるふれあい広場なども人気です。
 日本では珍しい品種のジャージー牛が茶色い毛並みをして草をはんでいます。山羊やポニーなども放牧されています。
 ホルスタイン牛より脂肪含有量が多いジャージー牛乳と、その牛乳からつくるソフトクリームやバターは行列ができるほどの人気です。



桜山公園
さくらやまこうえん
群馬県藤岡市鬼石235
Tel 0274-52-2214 桜山公園管理棟
 桜山公園は群馬県南部の藤岡市鬼石(おにし)地区にある山間の公園で、冬桜が有名です。ここには7000本の冬桜が咲いています。紅葉と、桜を同時に見ることができます。
 御荷鉾(みかぼ)の山々を背景に、1500トンもの三波石を用いて大きな池と清流を組み合わせた本格的な池泉廻遊式庭園もあります。
 桜山公園のあるは鬼石は埼玉県との県境近くにあり、昭和29年(1954)の町村合併により三波川村から鬼石町になり、平成18年(2006)の平成の大合併で藤岡市になりました。
  明治41年(1908)当時の三波川村長が、日露戦争の戦勝を記念して村の住民の協力で桜を1000本植栽したのが始まりです。たまたまこの中に冬桜の苗が400本ばかり混ざっていて、11月上旬から12月中旬までの紅葉の時期と花見の季節、年間2度にわたって咲き誇ったのです。
 当時は、冬桜はほとんど知られていませんでした。冬に桜が咲いたと大変な評判になったそうです。冬桜が1カ所にまとまって咲く桜山は、昭和12年(1937)に国の名勝・天然記念物の指定を受けました。
 冬桜と寒桜は名前が似ていますが、寒桜は淡紅色一重の花が1月から2月に1回だけ咲き、冬桜のように変わった咲きかたはしません。
 冬桜のなかに2度咲きの十月桜というのがありますが、これはコヒガン(小彼岸)系の桜で10月に開花します。花弁が約17枚と不規則で八重咲きのものが多く、色は冬桜より濃いピンクです。
 寒い北風に吹かれると、つぼみは開かずに冬を越し、春になって暖かくなってから花がまた咲きます。1本の木で2度花が咲くことになります。冬桜の2度咲きです。
 寒さに向かって咲くので、咲き始めてから1ヵ月ぐらい咲き続けます。一輪また一輪と冬の光を受けて咲くので、散るときも花吹雪になって散ることはありません。寒気が強くなると、木に貼りつくように花びらがしぼんでいきます。
 冬桜は秋になって葉が落ちて、一度寒さにあわないと花がよく咲きません。秋から初冬の気候の変化による、寒さにより咲きはじめます。ですから、11月中旬から12月初旬が見頃です。

 冬桜で名高い桜山の山麓では、みかん狩りも楽しめます。 群馬県で唯一、日本最北限の観光みかん園だそうです。



旧黒澤家住宅
きゅうくろさわけじゅうたく
群馬県多野郡上野村楢原200−9
Tel 0274-59-2657 上野村教育委員会
 上野村楢原の国道299号沿いに旧黒澤家住宅があります。上野村が徳川幕府の天領下だった山中領(奥多野)の18世紀中頃の大庄屋の建築です。
 黒沢家はまた御林守として、御鷹狩り用の鷹を飼育する御巣鷹山の管理にもあたっていたそうです。

 大規模な切妻造りの建築です。間口22m、側面16mの総2階建、大きな玄関も2つもそなえています。屋根は板葺きで石が置かれています。
 座敷や玄関などの意匠は素晴らしく大名主としての格式を誇っています。代官を迎えるための「おしらす」があり、村の行事に利用された部分、台所も3カ所もあります。

 客座敷は4部屋あり、囲炉裏のある茶の間は31畳半もの広さがあります。上の階は昔は養蚕に使われていた所です。現在は上野村の民俗資料が展示されています。  
 由緒ある旧家の生活を伝える大庄屋の住宅です。昭和45年(1970)国の重要文化財に指定されています。

 


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