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日本の旅
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柴宿本陣跡
しばじゅくほんじんあと
群馬県伊勢崎市柴町
Tel 0270-24-0966 伊勢崎市教育部文化財保護課
 日光例幣使街道は、中山道倉賀野宿から分岐して壬生通りの楡木 宿に至るまでの13宿で、柴宿はこの3番目の宿場であり、関根家が代々本陣を務めました。文化12年(1815)に再建された例幣使道に残る数少ない本陣遺構でしたが、昭和46年(1971)に主屋、翌年に長屋が解体されてしまいました。
 本陣は元来、高級武士や公卿の 宿泊休憩施設として設置されたものです。構造は近世の武家住宅 を基本として、これに、店舗的要素を加えて発達した一種独特の機能を有する建物で、柴宿本陣も概ねこの例にならっています。本陣当時の文書類、調度品が数多くのこされています。



華蔵寺公園
けぞうじこうえん
群馬県伊勢崎市華蔵寺町1
Tel 0270-25-4478
 華蔵寺公園は伊勢崎市の華蔵寺町と堤西町にまたがる公園です。公園名にもなっている華蔵寺と、公園、遊園地、各種運動施設があります。
 市内を一望できる大観覧車「ひまわり」は園内のシンボルです。他にはジェットコースターや急流すべり、フライングカーペットなど大型遊具もあります。
 園内では桜、つつじ、ハナショウブなど季節の花がたくさん植えられています。公園内の水生植物園はハナショウブの名所にもなっています。
 遊園地は平成20年(2008)に開催される全国都市緑化フェアの際に開催地となる伊勢崎市波志江町に移転するそうです。



華蔵寺
けぞうじ
群馬県伊勢崎市華蔵寺町6ー1
Tel 0270-26-2370
 華蔵寺は智証大師により建立された天台宗のお寺です。正式名は「丘林山浄土院華蔵寺」。 現在の堂宇は天保8年(1837)に再建されたものだそうです。
 本堂向拝破風には大きな彫り物があります。伊勢崎、佐波の観音霊場めぐりの18番になっています。
 昭和12年(1937)に天然記念物に指定された樹齢約400年の「華蔵寺のキンモクセイ」は台風の被害により倒れてしまったそうです。



玉村八幡宮
たまむらはちまんぐう
群馬県佐波郡(さわぐん)玉村町下新田
Tel 0270-65-2305
 玉村八幡宮は、玉村町下新田に鎮座します。祭神は、誉田別命(応神天皇)、気長足比売命(神功皇后)ほか16柱を合祀しています。
 源頼朝が三原(吾妻郡嬬恋村)へ行く途中で角淵(つのぶち)に立ち寄ったところ烏川が由比ヶ浜によく似ていたため建久6年(1195)上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の分霊を勧請奉安させたそうです。
 のち、関東郡代伊奈忠次が前橋の総社まで引かれていた天狗岩用水をはるばる玉村まで延長する新田開発にあたり事業の加護を神前に祈りました。そして無事事業の完了させました。
 慶長15年(1610)神助の報賽と新田の守護として上新田、下新田境の現在地に移築修造しました。これが現在、国指定重要文化財に指定されている本殿です。
 玉村八幡宮はその後、関東管領畠山満家、白井城主長尾左衛門尉憲景などの尽力で再建修造しています。
 境内には御神木の楠木の大木があります。夫婦楠木と呼ばれています。
夫婦楠木
 祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)は宇佐八幡を本源としています。武神として武士に崇放され、特に源義家以来、源氏の氏神とされていました。
 境内には力石があります。玉遊と刻まれたこの力石は重さが48貫(180kg)あるそうです。弘化4年(1847)武蔵国神奈川の徳次郎と同じ岩槻の長次郎が世話人たちの前で見事にこの石を担ぎ上げたと刻まれています。
力石

 本殿は永正4年(1507)に造営され、慶長15年(1610)の修造と伝えられています。室町様式と江戸初期様式とを併せ持つ建造物として、明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。
玉村八幡宮本殿
 本殿は三間社流造(ながれづくり)高欄付柿(こけら)板葺です。海老虹梁(こうりょう)および木鼻、柱を結合している頭貫(ぬき)、蟇股(かえるまた)などには、安土桃山時代の作品と考えられる部分が多いそうです。
玉村八幡宮本殿
 本殿は、拝殿と連結して権現造(ごんげんづくり)のような外観を呈しています。寛文7年(1667)以後の修理の時に、流行の様式を取り入れたと推察されます。
玉村八幡宮本殿

 境内には承応の石燈篭があります。この一対の石燈篭は承応元年(1652)に、上茂木の田口所左衛門廣次が奉納したものだそうです。高さ195cmで玉村町ではもっとも古い燈篭だそうです。
承応元年の石燈篭
  町文化財に指定されている竹内勇水の句碑があります。

 啼きすてて 
  思いなげなる雉かな
竹内勇水句碑
 竹内勇水は、下新田出身の、江戸時代中期から後期にかけての俳人で、代々宿役人を務めた役だったそうです。弟子も多く、この地方を代表する俳人で、書も巧みだったということです。



世良田東照宮
せらたとうしょうぐう
群馬県太田市(旧尾島町)世良田3119−1
Tel 0276-52-2045
 世良田東照宮は長楽寺住職天海僧正の発願により、日光から長楽寺境内に寛永21年(1644)創建されました。この場所は新田氏の開祖新田義重の居館があった所といわれています。
 創建の時、社殿は日光東照宮の奥社の拝殿や宝塔などを移築しました。桃山時代の建築様式をよく遺す入母屋造りの拝殿、巣籠もりの鷹が有名な一間社流造りの本殿は唐門とともに国の重要文化財に指定されています。
 家康の先祖の新田義季(よしすえ)はここ上野国世良田荘徳川郷(現在の尾島町世良田)に住んでいました。そして徳川義季と改名して徳川姓を名乗ったのです。
 その後、8代目の徳川親氏(ちかうじ)は三河国加茂郡松平郷に移り、郷主であった松平太郎左衛門の娘婿となり松平姓を名乗るようになったそうです。そして家康は、松平氏8代目、岡崎城主広忠の嫡男として生まれたのです。
 世良田東照宮は幕府の手厚い保護を受け、社殿の修復は幕府の財政により行われたそうです。「お江戸見たけりゃ世良田へござれ」という歌も残っています。石燈篭は宝暦13年(1763)前橋藩の松平朝矩などが寄進しています。
石燈籠
 鉄燈篭竿陽刻銘には元和4年(1618)7月吉日、秋元越中守藤原長朝が造らせ、明暦4年(1658)長朝の曽孫喬朝が奉納したと記されています。
  明治維新に発令された神仏分離令により長楽寺から離れ、世良田東照宮として独立したそうです。
日本一の鉄燈籠
 境内には御黒門といわれる門があります。江戸時代には正月と4月の祭礼日に開かれたそうです。地覆長押(じふくなげし)をまたいで参拝すると良縁が成就するといわれ「縁結び門」ともいわれています。
御黒門



長楽寺
ちょうらくじ
群馬県太田市(旧尾島町)世良田3119−1
Tel 0276-52-2045
 長楽寺の開基は新田義重の子である新田義季(よしすえ)です。のちに徳川義季と徳川姓を名乗った人物です。臨済宗の祖である栄西の高弟釈円房栄朝を開山として承久3年(1221)に創建されました。東日本で最初の禅寺です。
長楽寺三仏堂
 東国の禅文化発祥の寺として創建当時は500人を超える僧が修行に励んでいたそうです。入宋した僧も多く、日本仏教史に多大な影響を与えたようです。

  慶長8年(1603)征夷大将軍となった家康は、祖先の建立した寺として長楽寺に寺領を寄進しました。天海僧正を住職に任じて寺の復興にあたらせたのです。臨済宗から天台宗の寺にして荒廃した堂塔を修理しました。そして末寺七百余ヶ寺を擁する大寺院となったのです。
開山堂
 元和2年(1616)家康は駿府で75年の生涯を閉じました。遺体は一旦久能山に葬られ、翌年日光に改葬されました。20年後、3代将軍家光により日光の東照宮が完成しました。
新田家累代墓
 天海は日光東照宮の輪王寺の住職も兼ねていたことから寛永17年(1640)日光東照宮の旧宮を境内に移築して東照宮を勧請したのでした。寛永21年(1644)遷座式が行われましたが天海は前年に没したため立ち会えなかったそうです。
徳川義孝墓所
 長楽寺には国の重要文化財に指定されている宝塔があります。ここは長楽寺の開基の徳川義孝をはじめとする徳川氏累代の墓所です。前方後円墳の後円部にあたり古くから文珠山と呼ばれていたそうです。
 この宝塔は凝灰岩製で相輪は失われていますが現存部の高さ1m65cmです。屋蓋、軒口の切り方、軒反りなどに鎌倉時代の特色を出している優美な石造宝塔です。
 新田公並一族従臣忠霊供養塔です。
 昭和16年に世良田の有志の建立です。
 蓮池は承久3年(1221)長楽寺創建当時の遺構を残しています。別名「心字池」ともいわれ心の字をかたどって造られています。
長楽寺蓮池
 蓮池の中央にかかる弧状の橋は渡月橋と呼ばれています。後鳥羽上皇より下賜された五面の勅願の中に出てきます。元は木の橋でしたが寛政8年(1796)石の橋になりました。
長楽寺渡月橋



山上多重塔(山上塔婆)
やまかみたじゅうとう(やまかみとうば)
群馬県桐生市新里町山上
 赤城山東南の山麓地帯の丘陵に山上多重塔は建っています。ガラス張りの立派な建物の中に3層の石塔があります。銘により延暦20年(801)、道輪という僧侶が法華経を安置するために建立した石製の塔です。塔の四面には、朝廷・神祇・父母・衆生の供養のために建てたとする旨の碑文が刻まれています。
山上多重塔
 山上多重塔は昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されています。正式の名称は、「塔婆(石造三重塔)」です。地元では歯の患いに霊験があるとされ、歯仏様として崇め立てられていたそうです。
 塔婆を建てた人が建てた目的を文字で刻んであるという日本ではめずらしい石製三重塔です。
 高さは1.85mです。下層は幅が48cmだそうです。中層と上層は「八」の字状に造られています。  
 朝廷や衆生(しゅじょう)などのため、小師の道輪が法華経を安置する塔を建てたそうです。これで、無間(むげん)(八大地獄のうちの阿鼻地獄)の苦難より救われ、安楽を得て彼岸(悟りの境地)へ行けるという内容だそうです。

 近くにある「山上城跡公園」にはローラー滑り台やアスレチック、広い芝生があります。1月中旬から2月中旬にかけてはロウバイの花が黄色に咲き誇ります。
山上城跡公園



彦部家住宅
ひこべけじゅうたく
群馬県桐生市広沢町6−877
Tel 0277-52-6596
 彦部氏住宅は室町時代に武士の屋敷として作られたもので、主屋、長屋門、冬住み、穀倉、文庫倉が国の重要文化財に指定されています。
 彦部家は7世紀後半天武天皇の皇子高市親王を祖とする旧家だそうです。永禄4年(1561)に足利将軍の直参であった彦部信勝がここに屋敷を構えたそうです。
 屋敷構えは背後を戦時の砦となる手臼山、残る三方を堀や土塁で固めています。中世武士の館のたたずまいを残しているのです。
 屋敷の規模は東西130m、南北110mのほぼ方形でその中の約100m四方部分が堀と土塁に囲まれた内郭となっているのです。
 虎口(出入口)は南面の大手口(正門)と裏側の東北面の搦め手口(裏門)の2つです。大手口は正面16.2m・奥行き3.8mという細長い大きいものです。屋根は茅葺き・寄棟造りとなっています。
 主屋は入母屋造り・茅葺きで、正面約18m、奥行き約11mあって規模が大きいものです。建築年代は江戸前期で全国的にも古く貴重な遺構です。当時の上層農家の姿を今に伝えています。



桐生倶楽部会館
きりゅうくらぶかいかん
群馬県桐生市仲町2−9−36
Tel 0277-45-2755
 赤瓦の屋根が印象的な桐生倶楽部会館です。木造2階建てで大正8年(1919)に建てられたそうです。織物の輸出で活況を呈した桐生の名士の社交場として使われました。
 玄関の列柱のポーチはモダンなコロニアル様式の造りで国の有形文化財に指定されています。現在も使われていて桐生の企業家の伝統を受け続けています。



桐生明治館(旧群馬県衛生所)
きりゅうめいじかん(きゅうぐんまけんえいせいじょ)
群馬県桐生市相生町2−414ー6
Tel 0277-52-3445 明治館写真
 桐生明治館は、明治11年(1878)に建てられた擬洋風の建物です。前橋・県庁前の群馬会館の場所に「群馬県衛生所兼医学校」として建築されたそうです。
 その後「県立女学校」「師範学校付属小学校」「物産陳列館」「県農会」と使用者は変わりました。昭和3年(1928)、現在の群馬会館を建設するため相生村に移築され「相生村役場」となったのだそうです。
 相生村が桐生市と合併したため昭和57年(1982)まで「相生公民館兼市役所相生出張所」として使われたそうです。
 昭和59年(1984)1月から昭和61年(1986)3月まで半解体修理が行なわれ、建築当初の姿に復元されたたということです。
 「白い洋館」と呼ばれ、明治の初期洋風建築のさまざまな特徴をそなえています。左右ほぼ対称の形と優美な色彩は素晴らしさを感じさせます。
 昭和51年(1976)に国の重要文化財の指定を受けました。築後98年目の指定だったそうです。1階の正面右側の部屋は喫茶室になっています。重要文化財の一角でコーヒーも飲めるのです。



桐生織物会館旧館(桐生織物記念館)
きりゅうおりものきねんかんきゅうかん
群馬県桐生市永楽町5−1
Tel 0277-43-7272
 絹物業は明治、大正、昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、桐生市内には多くの織物工場が作られました。昭和恐慌の混乱からもいち早く立ち直り、昭和10年前後には織物産業の全盛期を迎えたのです。
 好況期の頂点の昭和9年(1934)に桐生織物会館は建設されました。スクラッチタイル張りの外壁のモダンな建物です。
 会館には織物関係の各組合の事務所が置かれ、まさに桐生織物業界の前線基地的な場所になったそうです。
 現在でも、事務所や会議室、催物などに使われているそうです。「織匠の間」には桐生織物が紹介されていて展示販売も行っていました。
 桐生織物記念館旧館は国の登録有形文化財にも指定されています。桐生周囲には同じスクラッチタイル張りの事務所や住宅など見受けられ、景気のよかったことを偲ばせます。



金谷レース工業事務所及び鋸屋根工場
かなやれーすこうじょうじむしょおよびのこぎりやねこうじょう
群馬県桐生市東久方町1−1−55
Tel 0277-45-2104
 金谷レース工業株式会社の鋸屋根工場は大正8年(1919)に8連の鋸屋根工場として建てられたそうです。レンガ造りでスクラッチタイルを貼ってあります。機械刺繍の新工場建設などで現在は4棟になっています。
 事務所の方は昭和初期に建設された洋風建物です。鋸屋根工場とともに国の有形文化財に指定されています。
 鋸屋根の織物工場は、明治中期から昭和40年(1965)の前半まで、桐生で盛んに建てられたそうです。桐生市内にもかなり見受けられますがレンガ造りのものはここだけだそうです。



群馬大学工学部同窓記念会館
ぐんまだいがくこうがくぶどうそうきねんかいかん
群馬県桐生市天神町1−5−1
Tel 0277-30-1111
  大正5年(1916)に建てられた旧桐生高等染織学校本館の講堂です。染織と紡織の二科を専門とする学校だったそうです。平成10年(1998)に国登録有形文化財に指定されました。
 大正5年(1916)の創立時に建てられた本館玄関の一部と講堂が、この同窓記念会館として残されています。その後、桐生工業専門学校になり、昭和24年(1949)群馬大学工学部となっています。
 木造2階建で瓦葺きの教会のような建物は厳粛な雰囲気を漂わせています。講堂の中はハンマービームと呼ばれる独特な造りになっています。



旧桐生高等染織学校正門
きゅうきりゅうこうとうせんしょくがっこうせいもん
群馬県桐生市天神町1−5−1
 群馬大学工学部同窓記念会館の前に建つ旧桐生高等染織学校の正門です。この門も国登録有形文化財に平成10年(1998)指定されています。レンガの門柱の上にはゴシック風のポーチが設けられ、その先端には門灯があります。 



群馬大学工学部守衛所
ぐんまだいがくこうがくぶしゅえいじょ
群馬県桐生市天神町1−5−1
Tel 0277-30-1011
 この守衛所は旧桐生高等染織学校の創立当時の門衛所だったものです。同じく平成10年(1998)に国登録有形文化財になっています。
 大正5年(1916)に建てられた小さな建物です。現在も人が常駐し現役で活躍しています。



桐生市立西公民館機械室(旧水道倉庫)
にしこうみんかんきかいしつ(きゅうすいどうそうこ)
群馬県桐生市永楽町2−16
Tel 0277-22-6637
 桐生市の上水道は、昭和7年(1932)から給水が開始されました。この時、事務所と同時に建てられた水道倉庫です。
 旧事務所の北方に隣接して建ち、現在は公民館の機械室として使われています。この土蔵のような建物は土蔵ではなく鉄筋コンクリート造りの土蔵風倉庫なのです。
 国の有形文化財に西公民館本館とともに指定されています。



桐生市水道山記念館
きりゅうしすいどうやまきねんかん
群馬県桐生市堤町1ー5ー7
Tel 0277-46-1111 桐生市水道局総務課
 昭和7年(1932)に水道山記念館は「配水場事務所」として建設されました。木造平屋建て洋風建築で平成9年(1997)国の有形文化財に登録されました。
 桐生市内に水道の給水を始めたとき高区配水池の一隅にこの洋風建築の配水事務所が誕生し昭和47年(1972)までの40年間使用されました。
  昭和60年(1985)から昭和61年(1986)にかけて改修工事を行い昭和63年(1987)3月に「桐生市水道山記念館」として開館しています。
 現在は会議や研修等に利用されています。桐生の近代化遺産として誇れる美しい建物です。



大川美術館
おおかわびじゅつかん
群馬県桐生市小曽根町3−69
Tel 0277-46-3300
 平成元年(1989)水道山記念館のすぐ近くに財団法人大川美術館が開館しました。桐生出身の大川栄二氏が約40年にわたって収集したコレクションを中心に、国内外の近代洋画約6500点を収蔵しています。
 昭和10年代に活躍し日本近代洋画史に大きな功績を残した松本竣介や野田英夫などの絵が中心になっています。海外のコーナーではピカソやミロなどの作品も展示されています。
 純白の建物は桐生市街地を一望できる水道山の斜面に建っています。なんでもある会社の社員寮を改修して作られたものだそうです。



関の磨崖仏
せきのまがいぶつ
群馬県桐生市新里町関67−1
Tel 0277-74-4151
 関地区の、鏑木川にかかる不動橋のたもとに、凝灰質の集塊岩があります。この大きな岩を船型に彫り込んだ中に、阿弥陀三尊像が刻まれています。高さ128cm、幅80cm、奥行き約80cmです。
 巨大な赤城熔岩の壁面を彫りくぼめて、三尊を浮彫りにしています。三尊像は阿弥陀如を中心に、脇侍として右に観音菩薩、左に瀬至菩薩が半肉掘りされています。 
 この磨崖仏は一光三尊型式の善光寺三尊仏の形をとっています。中尊の顔の線、肩の線、足の形、蓮華座の様式が、鎌倉時代の銘をもつ像とよく似ていますので、その頃のものと推定されています。
 関磨崖仏は昭和47年(1972)に県の重要文化財に指定されています。群馬県において磨崖仏の遺例はきわめて少なく、赤城南麓における中世仏教信仰の形態を知る資料として貴重なものです。



阿久沢家住宅
あくざわけじゅうたく
群馬県前橋市柏倉町604
Tel 027-231-9875
 旧宮城村の阿久沢家住宅は北関東の平地における典型的な中規模民家です。江戸時代には名主や組頭をつとめた旧家だったそうです。
 17世紀末頃の建築と伝えられ古い農家形式を残しています。昭和45年(1970)に国の重要文化財に指定されています。
 茅葺き寄棟造りで桁行8間(15.3m)、梁間4間半(8.2m)です。間取りは中央の3本の上屋柱を境にして土間と座敷が半々の広さです。
 この地方では茅葺き屋根の平側の一部を切り上げて養蚕のための通気と採光を図った「赤城型民家」が多く見受けられます。
 しかしこの阿久沢家住宅は単純な平面形で開口部が極めて少ない造りになっています。土間には独立柱が立つ等古民家特有の特色を備えています。
 養蚕が普及する以前の民家の形式を残している貴重な民家であることが推測できます。
 入口の右手(住宅東側)に馬屋が設けられています。当時、馬が住宅の中にいたわけです。
 考えてみるとかなり不潔な環境だったわけです。臭いもするでしょうし大変だったと思われます。



ぐりーんふらわー牧場・大胡
ぐりーんふらわーぼくじょう・おおこ
群馬県前橋市滝窪町1369 ー1
Tel 027-283-5792
 国道353沿いにある牧場は道の駅です。赤城山南面の裾野に位置し、高さ22mもある北関東一のオランダ型風車がシンボルになっています。
 子供たちに人気があるのがローラーすべり台とアスレチックです。動物ふれあいゾーンでは、ポニーや羊、鹿、うさぎなどとのふれあいが楽しめます。
 また眼下を一望できる展望塔もあります。約1000本の桜が並ぶ遊歩道や広い芝生が広がっています。



群馬会館
ぐんまかいかん
群馬県前橋市大手町2−1−1
Tel 027-226-4850
 昭和5年(1930)11月に昭和天皇の即位を記念して建設された県内最初の公会堂が群馬会館です。平成8年(1996)に国の登録有形文化財に指定されました。
 群馬県庁の昭和庁舎と道一つ隔てた場所にあり、設計も昭和庁舎と同じ佐藤功一氏です。ルネッサンス様式の鉄筋コンクリート造りで地上4階、地下1階、建築面積 1319平方mの豪奢な建物です。
 昭和58年(1983)あかぎ国体を契機に1年がかりの大改修が行われ外観は昔のままで内部をリフォームしたそうです。レンガとクラシックな時計が時代を感じさせます。地下には「群馬会館食堂」があり天皇家の方達も利用されるそうです。



群馬県庁昭和庁舎
ぐんまけんちょうしょうわちょうしゃ
群馬県前橋市大手町1−1−1
Tel 027-226-2120
 群馬県庁の昭和庁舎は群馬会館と道一つ隔てた場所にあり、設計も群馬会館と同じ佐藤功一氏です。 昭和庁舎は、昭和3年(1928)に建設され、新庁舎が完成した平成11年(1999)まで県庁本庁舎として親しまれてきました。
 昭和初期の典型的洋風建造物の昭和庁舎は平成13年(2001)11月に国民文化祭の会場と決定したため平成12年大改修が行われました。そして平成14年4月1日からは昭和庁舎としてオープンしています。
 鉄筋コンクリート造り、地上3階建て、地下1階で建築面積は2019平方mです。1階の外壁は石張りで、上の階はレンガ色のタイルを張ってあります。ルネサンス風の左右対称の建物と半円アーチの車寄せは重厚な感じです。
 平成8年(1996)に国の登録文化財に指定されています。関東では、最も先進的な建築技術を駆使した県庁で有名でした。現在も近代的なタワー新庁舎やドーム型庁舎と調和して群馬県の顔となっています。
 群馬県庁のタワー新庁舎は地上33階建てで32階の展望室からは、上州の山並みが見渡せます。直下には前橋公園があります。31階には展望レストランもあり夜景が見事だそうです。



敷島公園
しきしまこうえん
群馬県前橋市敷島町66
Tel 027-234-9338 敷島公園管理事務所
 前橋にある敷島公園は、利根川と広瀬川に接していて約37ヘクタールもある広大な公園です。約3千本の松林は100年前に利根川の洪水を防ぐために植えられたものだそうです。
 スポーツエリアには昭和58年(1983)あかぎ国体の主会場となった陸上競技場があります。野球場、サッカー・ラグビー場、テニスコート、屋内水泳場なども設けられています。
 松林に囲まれたレクリエーションエリアには水の広場、芝生のなかよし広場、フィールドアスレチック、ボート池、バラ園、熱帯植物温室などがあります。特に200種2千本のバラが咲き乱れるバラ園は人気があります。
  バラ園側の公園入口付近に「林間学校発祥の地」という石碑が建てられています。大正10年、ここで虚弱な児童を集めて林間学校をしたのだそうです。
 前橋で生まれた詩人、萩原朔太郎の生家も記念館として敷島公園の一画に移築復元されています。

 明治45年(1912)に落成した国立原蚕種製造所の本館も前橋市蚕糸記念館として敷島公園のバラ園内に移築保全されています。
前橋市蚕糸記念館
 国立原蚕種製造所という研究施設は日本の蚕糸業の振興に、また前橋の蚕糸業の発展に大きな役割を果たしてきたそうです。蚕業試験場、蚕糸試験場養蚕部などと改称され、昭和55年(1980)茨城県筑波学園都市へ移転したそうです。
前橋市蚕糸記念館



萩原朔太郎記念館
はぎわらさくたろうきねんかん
群馬県前橋市敷島町262 敷島公園内
Tel 027-235-8011
 萩原朔太郎は明治19年(1886)、北曲輪町(現在の千代田町)の医師の家に生まれました。この生家を現在の敷島公園の一画に移築復元し、記念館として一般に公開しています。
 朔太郎は北原白秋に師事し、26歳のときに「夜汽車」などの詩で中央詩壇にデビューしたそうです。大正6年(1917)処女詩集「月に吠える」を発表しました。
 昭和49年(1974)現在地に移築された土蔵のほか、書斎が昭和53年(1978)、離れ座敷が昭和54年に移築されたそうです。
 書斎は朔太郎が29歳の独身時代だった大正3年(1914)から8年まで書斎兼音楽室として愛用したそうです。朔太郎はこの部屋をゴンドラクラブと愛称してマンドリンやギターの演奏、作曲に耽ったそうです。ゴンドラ洋楽会(のちの上毛マンドリ倶楽部)も組織し、詩人として、音楽家として暮らしたそうです。



臨江閣
りんこうかく
群馬県前橋市大手町3−15ー3
Tel 027-231-5792
 中央児童遊園地の正面入口前にある数寄屋風の重厚な和風木造建築が臨江閣です。県の重要文化財に指定されている本館と茶室、市の重要文化財の別館があります。
 本館は明治17年(1884)9月、当時の群馬県令(県知事)の揖取素彦(かとりもとひこ)や有志によって迎賓館として建てられたそうです。
  明治26年(1893)には明治天皇の行在所となったそうです。また明治34年(1091)には伏見宮が滞在なさったそうです。その後は、結婚式の披露宴会場などに広く使われたそうです。
 別館は明治43年(1910)に共進会の貴賓館として建てられた木造2階建ての入母屋建築です。安中市にあった旧中山道の杉並木の樹齢200年の大木が30本も柱に使われたそうです。
  
 茶室は明治17年(1884)11月に京都の宮大工今井源兵衛によって造られた草庵茶室です。 



上野総社神社
こうずけそうじゃじんじゃ
群馬県前橋市元総社町1−31−45
Tel 027-252-0975
 総社町の近辺は奈良時代に上野国府が置かれていたそうです。東国の奈良といわれ、崇神天皇の皇子で、上毛野・下毛野の国を開いた豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の墓だという二子山古墳もあります。
 この豊城入彦命が国土平定に貢献された經津主命の御武勇を敬愛し軍神として奉祀、武運の長久を祈願し、親神である盤筒男命・盤筒女命をも合祀してこの総社神社を創ったともいわれています。
 平安時代に上野国内549社の諸神を国府近くの一か所に合祀し、国司の遥拝所となったのが総社神社だといわれています。
 永禄9年(1566)10月の北条氏と武田氏との戦禍で、社殿をはじめ摂社、末社、宝物などことごとく灰燼に帰しました。かろうじて神明帳と御神鏡だけは難を免れそうです。
 群馬県の重要文化財に指定されている本殿は慶長年間(1596-1614)に総社城主秋元氏によって再建造営されたそうです。桃山時代の流造の様式をのこした立派な建築です。 
 また拝殿は天保14年(1843)の再建です。氏子であった関谷出雲正平貞許、出雲丞平貞義父子により造られたそうです。前橋市の重要文化財に指定されています。
 境内には他にも神楽殿や神庫があります。 宝物殿に納められている社宝の「正一位護国霊験惣社大明神」と書かれた額は清和天皇の勅額だといわれています。御神体である総社本上野国神名帳や懸仏、雲版は群馬県の重要文化財です。
  神社を形成している樹木のうち、特に大きなケヤキ6本が社叢ケヤキとして前橋市の天然記念物に指定されています。また特殊神事が多く行われることでも有名です。



前橋市水道資料館
まえばししすいどうしりょうかん
群馬県前橋市敷島町216
Tel 027-231-3095
 前橋市水道資料館は給水開始した昭和4年(1929)からの60周年を記念して平成元年(1989)に敷島浄水場の管理事務所を改修して開館しました。
 隣にある配水塔は昭和4年(1929)に竣工されたもので今でも現役の水道施設として稼働しています。直径10m、高さ17mで避雷針をあわせると37mの巨大なものです。銅板を張った鋼鉄製の円筒型水槽を鉄骨の支柱で支えています。「水道タンク」の愛称で市民に親しまれています。
 昭和60年(1985)浄水構場事務所(現在の水道資料館)、配水塔が全国近代水道百選に選ばれています。
 水道資料館の床面積は、1階が182.58平方m、2階が125.09平方mで床総面積307.67平方mです。鉄筋コンクリート造りで、屋根は小屋組み木造、エメラルドグリーンの瓦葺きです。採光のための半円形天窓が明るい感じを出しています。
 設計は、当時の建築界で高名な野田俊彦氏です。建物の外観、内部、庭などに昭和初期の雰囲気が漂います。 
 敷島浄水場の敷地は約800万平方mもあります。場内には約40種のツツジがあり館林のツツジに次ぐ有名なツツジの名所となっています。


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