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日本の旅
日本の旅          千葉・房総・成田

千葉ポートタワー
ちばぽーとたわー
千葉県千葉市中央区中央港1丁目
Tel 043-241-0125
 千葉ポートパークのシンボルです。高さは125.1mあります。ハーフミラーの外観がマリンブルーに映えます。4面ガラス張りの展望室から360度の大パノラマが満喫できます。
 千葉県民500万人を突破したことを記念して昭和59年(1984)年6月に着工し、昭和61年(1986)6月15日にオープンしました。周囲は千葉ポートパークとして芝生広場や人工砂浜などが整備されています。夏の花火大会、冬のクリスマスイルミネーションも綺麗です。



東京ディズニーランド
とうきょうでぃずにーらんど
千葉県浦安市舞浜1−1
 東京ディズニーランドは子供から大人まで、あらゆる世代の人々が楽しめるメルヘンの世界です。シンデレラ城はディズニーランドのランドマークです。映画「シンデレラ」に登場する城をモチーフにしています。シンデレラのフェアリーテイル・ホールというアトラクションが近々オープン予定です。
 真っ白なマークトウェイン号は3階建ての蒸気船です。1580年代にミシシッピ川を往来していた外輪船の再来です。
 ワールドバザールはシンデレラ城を中心にして、ヴィクトリア王朝時代の町並みでショッピングが楽しめるところです。
 アドベンチャーランドはカリブの海賊、ジャングルクルーズ、ウエスタンリバー鉄道など、熱帯植物が生い茂る冒険とロマンの世界です。
 西部開拓時代の香りがただようウエスタンランドは蒸気船マークトウェイン号、ブックサンダー・マウンテンなどのアトラクションがあります。
 ディズニー映画「南部の唄」に登場するかわいいクリッター(小動物)たちの郷クリッターカントリーにはスプラッシュ・マウンテンやビーバーブラザーズのカヌー探検があります。ディズニー・キャラクター総出演のファンタジーランドや、ミッキーと仲間たちのすむ街のトゥーンタウンも人気です。
 宇宙と未来の世界を味わえるトゥモローランドには、スター・ツアーズ、スペース・マウンテン、スタージェットなどわくわくドキドキです。
 東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード・ドリームライツの先頭は大きな青い羽根を広げた妖精です。全長700mも続くフロートたちはただ光るだけでなく色を変えたり煙を出したりで迫力満点です。 
 突然、光が消えたり、目玉がギョロギョロ回ったり仕掛けがいっぱいです。モンスターズ・インクやファインディング・ニモのキャラクターたちも加わって、ますます豪華なラインアップで、東京ディズニーランドの光輝く夜を演出します。
 30台のフロートと100名の人たちが色とりどりの光をまとい、輝きながら夜のパークをパレードします。眩い光とディズニーミュージックがパークの夜を彩ります。



東京ディズニーシー
とうきょうでぃずにーしー
千葉県浦安市舞浜1−1
Tel 0570-00-8632
 東京ディズニーシーは、オリエンタルランドが浦安市舞浜地区に展開している東京ディズニーランドとともに運営する海をテーマにしたディズニーパークです。
 園内はコンセプトごとに「テーマポート」と呼ばれる7つのエリアに分かれています。それぞれのテーマに合わせたアトラクションやレストランが置かれていていて、ビールやワインなども飲める大人もターゲットにしたテーマパークです。
 ミッキーマウス、ミニーマウス、ドナルドダック、プルートなどディズニーキャラクターの他、リトル・マーメイドやアラジンなど、ディズニーシーのディズニーキャラクターの出迎え(キャラクターグリーティング)があります。
 メディテレーニアンハーバーは南ヨーロッパの港町をテーマとしています。地中海の大きなポルトに面した南ヨーロッパの街で、陽気で華やかな雰囲気が漂います。ヴェネツィアン・ゴンドラが楽しめます。
 謎の科学者ネモ船長の秘密、今も活発に活動する活火山のカルデラにある謎の研究所など謎に満ちたミステリアスアイランドです。センター・オブ・ジ・アース、海底2万マイルなどがあります。
 アメリカンウォーターフロントはアメリカの港をテーマとしています。20世紀初頭のニューヨークの街と、のどかな港町ケープコッドを舞台にしています。タワー・オブ・テラーがあります。
 ロストリバーデルタは、1930年代の古代文明の遺跡発掘現場をモチーフにした、中央アメリカの熱帯雨林地域をテーマとしています。古代遺跡が立ち並ぶ神秘的なゾーンです。クリスタルスカルの魔宮、レイジング・スピリッツなどが楽しめます。
 ポートディスカバリーは20世紀初頭のSF小説世界をモチーフにした、未来都市の港をテーマとしています。ストームライダーがあります。
 マーメイドラグーンは、映画「リトル・マーメイド」の世界をモチーフにした、人魚の海底王国をテーマとしています。マーメイドラグーンシアターがあります。
 アラビアンコーストは、映画「アラジン」に登場する魔人ジーニーが作り出したアラビアンナイトの世界です。中世アラビア文明風の都市をテーマとしています。シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ、マジックランプシアターなどがあります。



成田山新勝寺
なりたさんしんしょうじ
千葉県成田市成田1
Tel 0476-22-2111
 成田山新勝寺は、京都広沢遍照寺の寛朝大僧正によって、平安時代の天慶3年(940)に開創されました。千年以上にわたり、真言宗智山派の大本山として、また「成田のお不動様」として広く人々に親しまれています。
 天慶2年(939)平将門が乱をおこすと、時の帝・朱雀天皇は朝敵降伏の密勅を寛朝大僧正にくだしました。京都高雄山の不動明王尊像と宝剣を持って平定させました。下総国公津ケ原に尊像を奉じ安置していたのですが、大任を果たした大僧正が尊像を奉じて京都に帰ろうとした時動きませんでした。
 合掌し祈りますと、「我が願いは、尽きることなし。永くこの地に留まりで、無辺の衆生を利益せん」との声を授かりました。天皇に奏上したところ、深く感動され、お堂を建てさせました。新たに勝った因縁にちなんで「新勝寺」の寺号を授与したのでした。

仁王門
 成田山の正面の門をくぐって最初に見上げる建物が仁王門です。門の左右に金剛力士が配され、境内を守る伽藍守護の役割を果たしています。文政13年(1830)に建立されていて、国の重要文化財に指定されています。
 仁王門の中の向かって左側の密迹(みっしゃく)金剛です。裏仏には「広目天」、「多聞天」が奉安され、境内入口にあって伽藍守護の役目を果たしています。
 向かって左側の那羅延(ならえん)金剛です。仁王門中央には成田山の大提灯が掲げられています。「仁王門」を抜けると「仁王池」があり、その上に本堂などのいくつもの伽藍があります。

三重塔
 正徳2年(1712)に建立されました。宝暦7年(1757)、享和元年(1801)、安政5年(1858)に大修理が行われています。昭和58年(1983)に現在の姿に復元されています。塔の高さは相輪まで25mあります。国の重要文化財に指定されています。
 塔内には金剛界大日如来の「五つの智慧」をあらわす五智如来を奉安し、周囲に「十六羅漢(らかん)」の彫刻がめぐらされた塔です。雲水紋の彫刻をほどこした各層の垂木(たるき)は一枚板でつくられた珍しいものです。

大本堂
 石段を登り切った正面に大本堂があります。左右に翼殿を持つ重層入母屋造り大本堂の雄姿が視界に入ってきます。
 ここには弘法大師が彫ったという本尊の不動明王と四大明王が祀られています。参拝客は年間1200万以上といわれていて初詣客は全国でベスト5に入ります。
 この大本堂は昭和43年(1968)に建立されました。成田山で最も重要なお護摩ご祈祷を行う道場です。内陣は畳296枚分もあります。内陣中央に焚かれている護摩の香煙は1日も絶えたことがありません。

西翼殿
 西翼殿は大本堂の左側に建っています。御護摩御祈祷札お渡し所です。

東翼殿
 東翼殿は大本堂の右側に建っています。西翼殿と同じように御護摩札やお守りなどを取り扱い、受け渡し所になっている。

鐘楼
 元禄14年(1701)成田山中興の第一世の照範上人によって建立されました。梵鐘は新大本堂建立の際鋳造されました。
 成田山不動明王に信仰のあつい初代市川団十郎が「成田屋」の屋号を名乗り不動明王を主題とする歌舞伎を上演しました。団十郎との仏縁が評判となり、江戸中に成田山の名が知れわたったそうです。

一切経蔵
 一切経蔵は一切経全巻を納めた巨大な八角形の回転式経蔵です。その基部に10匹の鬼神がいます。
 台を回せば一切経全巻を唱えたのと同じ功徳があるそうです。現在は保護のため回せませんが、願いごとを唱えながら3回まわすと願いごとがかなうといわれています。
 入口の扁額「一切経蔵」は白河楽翁公つまり松平定信の筆です。

聖徳太子堂
 平成4年(1992)建立されました。仏教興隆の祖として崇められる聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の理念に基づいています。

釈迦堂
 前の本堂であった釈迦堂です。安政5年(1858)に建立されています。本尊は釈迦如来で文殊菩薩、普賢菩薩、千手観世音菩薩、弥勒(みろく)菩薩が奉安されています。
 総ケヤキ造りの御堂で周囲の板壁には、五百羅漢などの江戸時代末期の特色ある彫刻が見事に彫られています。国の重要文化財に指定されています。

額堂
 信徒から奉納された額や絵馬を懸ける建物で、文久元年(1861)に建立されています。中央に7代目市川団十郎の石像があります。
 昔使われていた梵鐘が置かれていたり、青銅製の大地球儀があります。

 奉納された額は奧の「平和の大塔」の1階にある霊光殿に展示されています。

開山堂
 開山堂は開山寛朝大僧正の像を安置しているお堂です。堂内には歴代先師の御影 が掲げられています。
 成田山開基1000年記念事業として昭和13年(1938)建立された総桧作りのお堂です。

三社
 左から白山明神、金比羅大権現、今宮神社の三社を祀っています。

光明堂
 釈迦堂が本堂になる前の本堂であった総ケヤキ造りの建物です。元禄14年(1701)に建立された貴重な建物です。国の重要文化財に指定されています。
 本尊は真言密教の教主の大日如来です。周囲の壁は朱漆が塗られ鮮やかです。入母屋(いりもや)造りの江戸時代中期の建物です。
 安政年間の移築の際に回り縁と外陣部の床を撤去して吹放しの土間としたので珍しい形になっています。現在は開運厄除けお祓いの祈祷所になっています。

清瀧権現堂
  清瀧権現堂と妙見宮です。享保17年(1732)に建立されています。
 天明8年(1788)、安政5年(1858)に修理されています。清瀧権現と地主妙見を合祀した成田山の鎮守です。

平和大塔
 昭和59年(1984)に弘法大師1150忌を記念して建立された仏塔です。高さは58m、二重基壇(きだん)、内部五層という巨大なものです。
 一層が「霊光堂」、二層が「明王堂」、三層が「経蔵堂」、四層が「法蔵堂」、五層が「金剛堂」となっています。真言密教の教えの根本である相互礼拝、相互供養の曼陀羅(まんだら)世界を表しています。
 金剛殿には、大日如来、阿しゅく如来、宝生(ほうしょう)如来、阿弥陀如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の五智(ごち)如来が安置されています。ここには写経道場も併設されています。
 不動明王御真言
ノウマクサンマンダバザラダンゼンダ
マカロシャダソワタヤウンタラタカンマン

成田山公園
 成田山公園は鬱蒼と樹木が茂る公園で、成田山の大本堂裏にあります。16万5千平方mという広い公園で昭和3年(1928)に開園されています。
 公園内には遊歩道があり散策をすることができます。園内中央にある一の池、二の池、三の池の3つの池の周囲は、春はウメにサクラ、初夏の新緑、秋の紅葉と四季折々の表情を見せてくれます。
 園内には成田山書道美術館が、公園に隣接して成田山霊光館、成田山仏教図書館があります。

成田山書道美術館
なりたさんしょどうびじゅつかん
 書の総合美術館として成田山公園内、龍智の池のほとりに建つ書道美術館です。幕末から現代までの書が収蔵品の中心ですが、折に触れ、絵画や工芸品も交えて展示活動を行っています。
 ここには 中国山東省の石刻碑の拓本「紀泰山銘」があります。玄宗皇帝が中国五岳の一つ泰山を封ずる時に書いたもので、字数は1000字にもなるものです。

二宮尊徳開眼修行の地
 尊徳は天明7年(1787)、現在の小田原市栢山(かやま)で生を受け、金治郎と名づけられました。小田原藩家老、服部十郎兵衛の屋敷に住み込み努力により信用され財政再建に成功しました。弱冠35才で、藩主・大久保忠真公に見込まれ文政4年(1821)野州桜町(栃木県二宮町)復興の命を受けました。
 当時の桜町は、小田原藩主大久保家の分家で旗本の宇津家の所領でした。石高4000石といっても 実質は1000石にも満たない弱小藩でした。人心は荒廃して、田畑は荒れていました。尊徳は心血をそそいで桜町の再建に尽くしました。
 百姓出身の尊徳の改革を快く思わない人々の妨害などで43才の時、成田山で21日間にわたる命がけの断食修行を行ないました。そして遂に開眼するのです。開眼後、その誠意ある努力は次第に実を結び、桜町は実収3000石を超える豊かな村に生まれ変わったのでした。



成田国際空港
なりたこくさいくうこう
千葉県成田市成田国際空港(古込字古込1−1)
Tel 0476-34-8000
 成田国際空港は昭和53年(1978)開港以来4億人近く、年間3400万人の旅行客が利用する日本の空の玄関口です。 第1・第2の2つの旅客ターミナルがあり、約300軒のショップやレストランを備えています。
 かつての正式名称は「新東京国際空港」でしたが平成16年(2004)、成田国際空港に改称されています。平成22年(2010)の航空旅客数はおよそ3386万人です。国際線の貨物取り扱い量は世界第8位です。
 国際的空港としての役割をにない、日々出会いと別れの様々な思いを見守っています。展望デッキからは飛行機の発着を見学することができます。



伊能忠敬銅像
いのうただたかどうぞう
千葉県香取市佐原イ771
Tel 0478-54-1118
 桜の名所で知られる佐原公園の一角に、測量器具をかかげる伊能忠敬の像が立っています。この銅像は 台座の高さ約5.5m、像の高さ約3.3mあり、測量中の伊能忠敬を伝えています。
 伊能忠敬は延享2年(1745)、千葉県九十九里町で生まれました。17才で佐原の伊能家の跡継ぎになり、30年佐原で暮らしました。50才になってから江戸に出て西洋流の天文学を学びました。55才になってから測量旅行を実施し、幕府の命もあり全国の海岸線を17年もかけて測量して精密な地図を作りました。
 文政元年(1818)、江戸のおいて73才で亡くなりましたが、日本全図は弟子達の協力により3年後に完成したそうです。この銅像は大正8年(1919)に当時の佐原町有志により建てられました。作者は日本近代彫刻の先駆者として著名な大熊氏広氏によるものです。



佐原の町並み
さわらのまちなみ
 千葉県香取市佐原イ
 北総の小江戸と呼ばれる佐原は古くから利根川の水運と周辺地域の商業中心地として栄えました。川の両岸には、蔵造りの家や千本格子の家が立ち並んでいます。
 黒漆喰塗の土蔵造りで、重厚な瓦屋根の建物が 江戸時代にタイムスリップさせてくれます。そして今でも商売を続けているのです。江戸期以来おそば屋を続けている小堀屋本店です。天明2年(1782)の創業で初代が昆布を練り込んだ真っ黒なそば「黒切そば」を考案し八代目の現在まで引き継がれているそうです。
 江戸時代の佐原は「小江戸」と呼ばれていました。この周辺の町並みには、国指定史跡の伊能忠敬旧宅や県指定有形文化財の小堀屋本店店舗、正文堂書店店舗など土蔵造りの古い商家が建っています。
 関東3大祭りの一つ「佐原まつり」も有名です。豪華絢爛を競い、山車で奏される佐原囃子(ばやし)は県指定無形民俗文化財で水郷情緒を彷彿させてくれます。
 町の北に流れる利根川へ流れこむ小野川が運河の役目をし、この川沿いに古い町屋が並んでいます。蛇行しながら流れる小野川沿や、香取神宮 に向かう香取街道沿いの町並みには柳や小舟が彩りを添えています。
 これらの町並みは平成8年(1996)12月10日に、文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けました。関東地方では初めての指定地区となります。



伊能忠敬記念館
いのうただたかきねんかん
千葉県香取市佐原イ1722−1
Tel 0478-54-1118
 伊能忠敬記念館は江戸時代に佐原で育った伊能忠敬の人生と、忠敬が実測して作った日本地図を存分に紹介しています。
 50才を過ぎてから日本を踏破した精神力には頭が下がります。
 記念館の外観は、忠敬の時代背景と周囲の 歴史ある町並み にマッチしたもので、町屋・土蔵造り風の建物となっています。
 最初の日本地図を作り上げた忠敬の地図と現在の日本地図を、それぞれフィルムに模写して重ねた図は見物です。忠敬の高度な測量技術を実感できます。小野川沿いには伊能忠敬の旧宅(国史跡)も残っています。



香取神宮
かとりじんぐう
千葉県香取市香取1697ー1
Tel 0478-57-3211
 香取神宮は式内社、下総国一宮で日本全国に約400社ある香取神社の総本社です。同県神栖市にある息栖神社、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮と合わせて東国三社の一つにも数えられています。
 創建は神武18年に神武天皇により造られたと伝えられる大社で、伊勢神宮が上参宮と呼ばれるのに対し下参宮といわれました。平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)によると、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけでした。
 祭神は出雲の国譲りの神話に出てくる経津主大神(ふつぬしのおおかみ)です。「香取さま」と呼ばれ、家内安全、心願成就、縁結び、安産の神として信仰されています。他に武甕槌命・比賣神・天兒屋根命を祀っています。
 経津主大神は出雲の国譲り神話で鹿島の武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)と一緒に大国主神を説得した神様です。その後国内を巡り、東国、東北の各地を鎮定し、この地に留まったといわれています。
 香取神宮は鹿島神宮と共に、北方の蝦夷に対する護りの要であり、国土鎮護の宮でした。武神として朝廷や、武将たちの尊信を集め、源頼朝や足利尊氏の寄進状なども現存しています。室町中期には日本兵法中興の祖と呼ばれる飯篠家直が創始した天真正伝香取神道流が、この地で生まれました。
 彼は兵法とは平和の法なりと説き、彼の流派から塚原卜伝、剣豪将軍足利義輝や、上泉信綱の新陰流、柳生新陰流、幕末長州の桂小五郎、新撰組芹沢鴨が学んだ神道無念流、勝海舟が修めた直心影流などが生まれたそうです。

 元禄13年(1700)、徳川5代将軍綱吉は本殿や楼門を造営し、寄進しています。約4万坪の境内には、本殿、幣殿、拝殿、祈祷殿、楼門、宝物館、神徳館、弓道場、社務所などがあります。
 境内の神社には、奥宮、鹿島新宮、又身神社、桜大刀自神社、匝瑳神社、向栄神社ほか9社が奉られています。武将らの崇敬篤く、江戸時代には祭神の事跡を慕う武道家が参篭して武技を練る者が大勢いたそうです。
 明治には官幣大社、昭和17年(1942)には勅祭社に定められるなど各時代で最高の社格を有しました。現在も皇室からの崇敬が最も篤く、元旦早朝に天皇陛下が東方を向き、香取・鹿島両神宮に手を合わせるそうです。
 香取神宮では12年に1度、水上で御船祭が執り行われます。鹿島神宮の祭神である武甕槌大神と、香取神宮の祭神である経津主大神の武神が水上で再会するというお祭りで、平安絵巻さながらに古式の船を行列に組む祭だそうです。


 香取神宮の楼門は元禄13年(1700)、徳川5代将軍綱吉によって造営されたものです。朱塗りで三間一戸の純和様、入母屋造り、銅板葺きです。楼門内の右側には、大和朝廷初期の大臣「竹内宿弥」、左側には大化の改新を成し遂げた「藤原鎌足」の像が置かれています。
香取神宮楼門
 本殿の前に建つ楼門に掲げられている額は大日本帝国海軍大将「東郷平八郎」の筆によるものです。楼門は昭和58年(1983)国の重要文化財に指定されています。
香取神宮楼門

 拝殿は元禄13年(1700)に本殿や楼門などと一緒に造営されました。昭和13年(1938)に現在の拝殿が新築され、それまでの拝殿は旧拝殿として移築されています。(市指定文化財)檜皮葺き、黒漆権現造りの社殿です。
香取神宮拝殿

 香取神宮の本殿は、平安時代には伊勢の神宮と同様に20年ごとに建て替えられていました。現在の本殿は、元禄13年(1700) 徳川5代将軍綱吉によって造営されたものです。
香取神宮本殿
 桃山様式を取り入れた正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造りで桧皮葺きとなっており、神社建築を代表する建物です。現在屋根は桧皮葺ですが、もとは柿葺でした。規模も大きく、また建築様式も近世前期の正統的な手法を用いていて、昭和52年(1977)国の重要文化財に指定されています。
香取神宮本殿

 宝物館は、昭和41年(1966)式年大祭を記念して建設され多くの文化財が展示されています。県の工芸品で唯一の国宝となっている白銅質の円鏡「海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)」、重要文化財の阿吽(あうん)一対の古瀬戸黄釉狛犬、双竜鏡、「香取大禰宜家文書」、源頼朝の寄進状、徳川家康寄贈の太刀一振り、天真正伝香取神道流の奥義書や古文書などがあります。
宝物館

 鹿島神宮にもあった要石が香取神宮にもあります。直径30cmの自然石です。地中で暴れ地震を起こす大ナマズを鎮めるために香取と鹿島の神様が地中に石棒を差し込み、鹿島の神様はオオナマズの頭を押さえ、香取の神様は尻尾を押さえていると伝えられています。徳川光圀(水戸黄門)が参拝の折、この石を掘らせましたが根元をみることができなかったといわれています。
要石

  香取神宮社殿の周囲には、古代以来、守り続けられた社叢林が残されています。香取の森と呼ばれ、そこには幹周り3mを超す杉の巨木が林立しています。御札所前にある御神木は、樹齢1000年以上といわれ幹周り約10mの巨木です。
御神木

 神徳館表門は香取市指定文化財に指定されている江戸末期の建物です。香取神宮の広大な敷地には数々の摂社や末社が鎮座しています。大鳥居から神殿まで樹齢数百年の杉の大木が続いています。
神徳館表門



屏風ヶ浦
びょうぶがうら
千葉県銚子市三崎町
 銚子から飯岡町刑部岬(ぎょうぶみさき)まで、延々10キロにわたる海岸の絶壁は、東洋のドーバーと呼ばれています。英仏海峡のドーバーに匹敵する荒削りで雄大なスケールで素晴らしい眺めです。
 フジテレビ系の奥菜恵主演「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか」の舞台になっていて、現在もファンが訪れています。
 海抜40mから50mの高さを誇り、その勇壮な景色は迫力満点です。太平洋の波や海風に浸食された壁面は、まさに圧巻!自然の力強さと大きさを実感できます。天気の良い日には、地層の研究に訪れる人も多いそうです。



飯岡灯台
いいおかとうだい
千葉県旭市上永井1309−11
Tel 0479-62-5338 旭市商工観光課
 飯岡灯台は、刑部岬の上永井公園内に有ります。昔は飯岡灯台先にまだ地面が続いていて「佐貫城」というお城があったそうです。展望は犬吠崎に匹敵しますが交通の便は良くないようです。
 昭和31年(1956)10月31日に初点灯の灯台です。西には飯岡漁港から九十九里浜、東(崖下直下)は屏風ヶ浦と、雄大な太平洋のパノラマが一望できます。
 水郷筑波国定公園にあり、ここからの景観は、「日本の朝日百選」「日本の夕陽百選」「日本夜景遺産」「日本の夜景百選」「関東の富士見百景」に選ばれています。



飯沼観音(圓福寺)
いいぬまかんのん(えんぷくじ)
千葉県銚子市馬場町293
Tel 0479-22-1741
 飯沼観音は銚子漁港近くにある観音様で、正式名は「飯沼山円福寺飯沼観音」というお寺です。古来より信仰をおおいに集めました。銚子の町は観音様の門前街として発展したのです。
 神亀5年(728)漁師の網にかかった十一面観音をお堂に祀ったのが起源とされ、開基は弘法大師です。坂東33ヶ所第27番目札所でもあります。
 十一面観世音を拾い上げた漁夫・清六と長蔵は後に出家して観清(清六)・音長(長蔵)と称しました。弘仁年間(810-24)に弘法大師が巡錫したとき、連座を作って開眼したそうです。
 仁王門をくぐると4mはありそうな大仏が本堂を守るかのように座っています。本堂は鮮やかな朱色と黄色の柱のコントラストが荘厳で美しいお堂です。
 飯沼観音は海上氏一族の庇護によって発展し、天正6年(1578)に8間4方の観音堂が、安永2年(1773)に10間4方の銅葺に改築され、仁王門、鐘楼、多宝塔、太子堂などの大小さまざまな建物が整備されました。
 太平洋戦争のためにすべてを焼失しました。昭和46年(1971)に再建し、平成11年(1999)に修復工事を完了しました。現在は三重塔を建てようと浄財を募っています。
 江戸日本橋小網町の俳人・古帳庵が、天保12年(1841)に詠んだ句が圓福寺本坊の庭に句碑として建っています。

 このほどは よろずのことを 飯沼に
  きくもならはぬ 波のおとかな



銚子ポートタワー
ちょうしぽーとたわー
千葉県銚子市川口町2−6385
Tel 0479-24-9500
 銚子ポートタワーは銚子半島北端、利根川河口近くに建つ展望タワーです。海抜57、7mあり、総ガラス張りのツインタワー構造で、3階と4階が展望室になっています。平成3年(1991)6月に竣工されました。
 展望ロビーからは、眼下に銚子漁港と行き交う漁船の風景、利根川河口、そして陽光に輝く太平洋の雄大な景観を一望することができます。日本でいちばん早い初日の出が拝める銚子でのビュースポットでもあります。



ウオッセ21
千葉県銚子市川口町2
 銚子ポートタワー併設して、海産物即売所「ウォッセ21」もあり、水揚げされたばかりの魚介類や水産加工品を販売しています。レストランでは漁港直送の新鮮な海の幸を満喫できます。



とんび岩



犬吠埼灯台
いぬぼうさきとうだい
千葉県銚子市犬吠埼9576
Tel 0479-22-0244
 太平洋の荒波が押し寄せ、岩に砕け散る豪快な風景を見ることができる犬吠埼です。ここは水郷筑波国定公園に属しています。
 太平洋に面した海岸線は断崖絶壁です。複雑な地質構造を示す古生層・中生層からなっています。岬の突端には、犬吠埼灯台があります。
 白亜の灯台から眺める荒波砕け散る海の風景です。西方に位置する屏風ヶ浦は高さ30mから40mの断崖です。延長6kmの海食崖が形成され犬吠埼地域の海岸線と並んで雄大な景観を作り上げています。
 灯台は明治7年(1874)、英国人技師ヘンリー・プラントンの設計、施工、監督のもとに完成されました。地上31m白亜のれんが造りの西洋型第1等灯台が建てられたのです。れんが造りの灯台としては、青森県の尻屋埼灯台に次いで2番目の高さがあるそうです。光度は 200万カンデラあり、日本一を誇っているそうです。
 雄大な景色が眺望できる最上階までは99段のらせん階段です。九十九里浜にちなんだ段数といわれています。
 この灯台には霧信号所が併置されています。圧縮空気を利用したエアーサイレンです。30秒を間隔で5秒間鳴るということです。明治43年(1910)から取り入れていることに驚きました。
 犬吠埼の地層は、中世紀の砂岩で、昔は砥石を切り出していたところから石切鼻と呼ばれました。この付近一帯は、小島・岩礁が多く、昔から海の難所でした。
 慶応4年(1868)8月官軍に追われた榎本武楊の率いる幕府の軍艦美加保丸は、江戸から函館に回航途中、 この海岸の黒生(くろはえ)の岩礁に乗り上げ、13名が死亡したそうです。
 犬吠埼遊歩道が波打ち際まで続いています。奇岩や怪石などが多くあります。そこに太平洋の荒波が押し寄せて岩を砕かんばかりの迫力は豪快そのものです。

 犬吠埼は澪つくしの舞台です。陸者(おかもの)と海者(うみもの)。相入れぬ二つの世界の壁を越え、秘かにはぐくまれた恋。しょうゆ醸造の旧家の運命と絆の中では波瀾万丈の人生水路をゆくヒロインかをるの愛の物語です。
 “澪つくし”とは通行する船に、通りやすい水路を知らせるため、水路に立てた杭のことだそうです。



君ケ浜
きみがはま
千葉県銚子市君ケ浜
Tel 0479-24-8932
 犬吠埼君ケ浜海岸は平成8年(1996)7月、「日本の渚・百選」に選ばれています。若者や家族連れなどの憩いの場となっていて大勢の人が来ています。
 君ケ浜は、犬吠埼に隣接した約1キロの海岸線で、白砂青松と豪快な太平洋が眺望できます。別名「関東舞子」の愛称で文人墨客に愛されました。



尾張穂草歌碑
おわりすいそう

 大正4年(1915)出された処女歌集「白砂集」の中の一首で22歳のときの作品です。昭和36年(1961)古希を記念して、郷里である銚子市の犬吠埼に歌碑が建てられました。講談社顧問のほか日本出版クラブ常任理事など歴任しました。
わかれても 故郷の海の あゐいろか 目にあり秋よ さびしくあるかな


佐藤春夫詩碑
さとうはるお
 明治44年(1911)与謝野門下一同と銚子を訪れました。同年雑誌「スバル」にこの「犬吠岬旅情のうた」を発表しています。
ここに来て をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ
みづからの影踏むわれは
仰がねば 燈台の高きを知らず
波のうねうね ふる里のそれには如かず
ただ思ふ 荒磯に生ひて
松のいろ錆びて黝きを
わが心錆びて黝きを



犬吠埼マリンパーク
いぬぼうさきまりんぱーく
千葉県銚子市犬吠埼9575−1
Tel 0479-24-0451
 犬吠埼マリンパークは犬吠埼灯台の近くにある水族館です。この水族館では約230種、2500匹の魚がそれぞれの水槽で泳ぐ姿を見ることができます。イルカやアシカのショーも行われていて一番人気になっています。。
 1階には熱帯系の淡水魚・大型魚、2階では銚子近海の魚を展示、恐竜ロボットも吠えて歓迎してくれます。



養老渓谷
ようろうけいこく
千葉県夷隅郡(いすみぐん)大多喜町(おおたきまち)
Tel 0470-80-1146
 房総の秘境といわれる養老渓谷は、千葉県夷隅郡大多喜町から市原市を流れる養老川によって形成された渓谷です。中心は養老川上流、蕪来(かぶらい)川と合流する付近にあります。県立養老渓谷奥清澄自然公園の中にあり、麻綿原(まめんばら)高原や清澄山(きよすみやま)と結ぶハイキングコースが整備されています。
 渓谷両岸には、樹木が生い茂り、春はツツジ、フジ、秋は見事な紅葉に彩られます。平成19年(2007)、養老渓谷・黒滝不整合として日本の地質百選に選定されています。

 粟又の滝は養老川上流の大多喜町粟又にあります。高滝(たかたき)、養老の滝とも呼ばれていて、養老渓谷を代表する名所になっています。新緑や紅葉の季節には、道幅が狭いことから大渋滞になるそうです。
粟又の滝
 千葉県随一の名瀑で、ゆるやかな岩肌を流れ落ちています。落差は約30m、幅は約30m、長さは約100mです。滝壺付近から下流にある小沢又の滝付近までの約2kmにかけて「粟又の滝自然遊歩道」が整備されています。
粟又の滝



大多喜県民の森
おおたきけんみんのもり
千葉県夷隅郡(いすみぐん)大多喜町大多喜486−21
Tel 0470-82-3110
 大多喜県民の森は大多喜町の北西に位置し、房総丘陵の緑豊かな森林の一角にあります。面積は61ヘクタールで、尾根沿いに施設されている遊歩道や展望台からは、大多喜城と周囲の山並、大多喜平野が一望できます。
 園内にはフィールドアスレチックやキャンプ場、野鳥観察舎など自然と触れ合うための施設が整備されています。 大多喜町は竹林で有名で、古くからタケノコや竹ホウキなどの竹加工品の盛んな所です。「竹をテーマ」とした県民の森としても整備されています。
 大多喜県民の森の周辺には千葉県立総南博物館(大多喜城)、千葉県薬草園、大多喜町総合運動広場、町営野球場、テニスコート、海洋センタ-、町立図書館、大多喜町中央公民館や物産センターなど文化、体育施設が整備されています。



大多喜城(総南博物館)
おおたきじょう(そうなんはくぶつかん)
千葉県夷隅郡(いすみぐん)大多喜町大多喜481
Tel 0470-82-3007
 上総大多喜城本丸跡に建設された天守閣づくりの建物は総南博物館です。「房総の城と城下町」を主題として、古代から近世までの武器、武具、武家の社会に関する資料などを展示しています。
 ここは江戸時代、大多喜藩が置かれていました。大多喜城は、平山城で、初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていたそうです。上総大多喜城は戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、天正18年(1590)に本多忠勝が入城しました。
 本田氏3代のあと、阿部、青山、稲垣氏が治めました。元禄16年(1703)大河内松平氏が入り9代続きました。松平正質(まさただ)が最後の城主となり、明治維新を迎えました。
 明治3年(1870)12月に城は取り壊され、その後本丸も姿を消しました。本丸、二の丸、三の丸の城構えでしたが、現在、県立大多喜高校の敷地になっている二の丸跡に薬医門、大井戸が残っています。



八幡岬
はちまんみさき
千葉県いすみ市大原
 八幡岬は勝浦にもありますが、房総半島東端の犬吠埼と南端の野島崎のほぼ中間にあり、大原漁港を見下ろすように突き出たリアス式海岸美の岬です。
 岬は断崖絶壁で、南方向には丹ヶ浦の断崖が見え絶景です。崖上にはかつて岐氏一族の小浜城があった小浜八幡神社があります。八幡岬の名もこの神社に由来しているようです。大原では9月に行われる大原はだか祭りが勇壮で、有名です。
 八幡岬は、別名を鳶岬(とんびざき)とも呼ばれています。南側は湾になっていて、おだやかで美しい砂浜です。海岸沿いに岬の突端に向かう遊歩道もあり美しい海岸線を眺めながら散歩できます。



メキシコ塔
めきしことう
千葉県夷隅郡(いすみぐん)御宿町(おんじゅくまち)岩和田702
Tel 0470-68-2513
 スペイン船がメキシコに帰る途中、嵐に遭い岩和田海岸沖で難破、村民が総出で救助しました。この友好関係を記念し昭和3年(1928)に高さ17mのメキシコ搭(日西墨三国交通発祥記念碑)が建てられました。
 慶長14年(1609)、フィリピン諸島総督ドン・ロドリゴは任期を終え、帆船サンフランシスコ号でメキシコに帰国の途中でした。嵐に遭って岩和田・田尻海岸で座礁してしまいました。御宿の村人たちは総出で救助にあたり、乗組員373人のうち317人を助け出しました。一行は翌年、三浦按針の建造した船で無事メキシコにたどりついたそうです。
 遭難当時のメキシコはスペインの属領でした。日本とスペイン、メキシコ修好の契機になりました。御宿は昭和53年(1978)にアカプルコ(メキシコ南部ゲレロ州)とこれが縁で姉妹都市協定を結んでいます。

 メキシコ塔へ向かう石段の入口にはロペス・メキシコ大統領来訪記念碑が建てられています。昭和53年(1978)11月1日。国賓として来日したホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領は、日西墨交通発祥の地である御宿町を訪れ、御輿に乗り、日の丸の扇を高くかざし「エルマーノ(兄弟よ)!」を連呼したそうです。
ロペス大統領来訪碑



御宿海岸
おんじゅくかいがん
千葉県夷隅郡(いすみぐん)御宿町(おんじゅくまち)
 御宿海岸は2kmの白砂ビーチが続く千葉県で人気の高い美しいビーチです。また童謡「月の沙漠」は御宿海岸をモチーフにして作られました。昭和44年(1969)美しい御宿の砂丘に、「月の沙漠記念像」が建てられています。
 抒情画家でもあり作詞家でもある「加藤まさを」氏は大正12年(1923)に童謡「月の沙漠」を発表しました。この詩は「ラクダ」に乗った「王子様」と「お姫様」が月下の沙漠を往く情景を描いています。学生時代に結核を患った加藤氏が、保養のために訪れた御宿海岸の海岸風景から発想したので、「砂漠」とせず「沙漠」としたそうです。
 御宿という名の由来は、御宿町須賀にある最明寺に北条時頼が宿泊し、その時に「御宿(おんやど)せしそのときよりと人とはゞ網代の海に夕影(ゆうがひ)の松」と詠んだのが始まりだと伝えられています。また、この地方の方言で本宿(ほんじゅく)がなまったものという説もあります。



月の砂漠記念館
つきのさばくきねんかん
千葉県夷隅郡(いすみぐん)御宿町(おんじゅくまち)六軒町505ー1
Tel 0470-68-6389
 月の砂漠記念館は詩人、抒情画家「加藤まさを」の功績を讃え、その作品を収集し、永久に保存するとともに、広く公開することを目的として、昭和44年(1969)、「月の沙漠」誕生の舞台となった御宿海岸前ににオープンしました。
 記念館には、加藤まさをの絵本の原画やスケッチ、ピアノやバイオリンなどが展示され、御宿にゆかりのあった文人、画家の作品の展示、ギャラリーともなっています。また、文化活動ができるようにもなっています。



勝浦城址
かつうらじょうし
千葉県勝浦市浜勝浦221
Tel 0470-73-1211 勝浦市観光商工課
 八幡岬公園の八幡岬の先端三方海に臨んだ断崖に勝浦城址があります。真里谷城主武田信興は里見氏の上総侵略に備えて夷隅郡に小田喜城(大多喜城)を築きました。そして最前線である勝浦にも砦を築きました。
 天文13年(1544)里見方の家臣正木時茂によって上総武田氏が滅亡し、時茂が小田喜城に入城すると弟の時忠は勝浦に入り城郭を築きました。勝浦城は時忠、時通、頼忠と続きました。天正18年(1590)小田原・北条氏が滅亡します。
 これにより関東が徳川家康の支配下になりました。本多忠勝や植村泰忠らの軍勢に攻められ落城、正木頼忠は安房に逃れたそうです。その後、城には植村泰忠の陣屋が置かれましたが、万治2年(1659)泰忠が串浜に館を移してからは、廃城になりました。



八幡岬公園
はちまんみさきこうえん
千葉県勝浦市浜勝浦221
Tel 0470-73-1211 勝浦市観光商工課
 八幡岬公園は、室町から江戸初期まで続いた、勝浦城主・正木氏の居城跡地に整備された自然公園です。約4700平方mの公園には、遊歩道、子供の広場、子供用アスレチック、展望広場などが設けられています。
 勝浦湾の東側に突き出た細長い半島の八幡岬の上に広がる公園から、勝浦湾や太平洋を一望することができます。園内の一角の高台には養珠夫人(お万の方)の像があります。
 天正18年(1590)、後北条氏が秀吉に攻略され、滅亡すると、勝浦城も本多忠勝などの軍勢に攻められて落城しました。この時、お万布晒しの伝説が生まれています。城主正木頼忠の娘のお万は、落城の折り、松の根方に白布をさらし、それを伝わって洋上に逃れたという話です。
 伝説の真偽はわかりませんが、お万は、のちに家康の側室となり、「養珠夫人」と称され、8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる紀伊徳川家藩祖・徳川頼宣と、 水戸黄門(光圀)の祖父になる水戸徳川家藩祖・徳川頼房を産んでいます。



官軍塚
かんぐんづか
千葉県勝浦市川津1394
Tel 0470-73-6641 勝浦市観光商工課
 官軍塚は戊辰(ぼしん)戦争の末期、函館五稜郭に向かう熊本藩船が市内川津沖で難破し、130数人の死者を埋葬供養した場所です。
 明治新政府と旧幕府勢力との間で戦われた戊辰戦争で、旧幕府の海軍副総督榎本武揚は北海道に渡り、函館の五稜郭に立てこもりました。新政府からの命令で津軽藩主・津軽承昭(つぐあきら)は五稜郭を攻めますが、激しい抵抗を受けて、攻めあぐねていました。 
 承昭の兄で熊本藩主の細川韶邦(よしくに)が援軍を送ることを決断し、明治2年(1869)1月2日、藩士約350人を軍艦に乗せ、横浜港から兵士を送り出しました。ところが翌日夜、勝浦沖で航行中、暴風雨に遭い艦は沈没しました。 
 勝浦の村人たちは、救助にあたりましたが、200余人が犠牲になりました。このときの遭難者を埋葬供養したのが官軍塚です。県の史跡に指定されています。



勝浦灯台
かつうらとうだい
千葉県勝浦市川津
Tel 0470-73-6641
 勝浦灯台は、外房でもっとも東に突き出た海抜70mの「ひらめヶ丘」に建てられています。大正6年(1917)3月1日に初めて光が灯りました。
 地上から塔頂までの灯塔高は21.2m、光度14万燭光、光達距離は40kmあります。 第4等フレネル式レンズを使っています。眼下に広がる風景は荒々しく迫力があります。
 第2次世界大戦ではアメリカ軍艦載機から20数回の攻撃を受けて相当の被害を出しました。その後幾度か修理され、昭和58(1983)3月には灯塔が改築され現在の姿になっています。



勝浦海中公園
かつうらかいちゅうこうえん
千葉県勝浦市吉尾174
Tel 0470-76-2955
 海蝕性のリアス式海岸の自然美あふれる勝浦市鵜原地先は寒流と暖流の合流地点にあたり、魚や貝、海草などが豊富です。この一帯14.5ヘクタールは昭和49年(1974)勝浦海中公園に指定されています。その中央部に海中展望塔があります。
 海中展望塔は、高さ24.4m、水深8.5mと非常に大きく東洋一の規模を誇っています。らせん階段で降りた海中展望室では、イシダイをはじめとする魚や貝類など、年間約90種以上の海の生物を見ることができます。

 勝浦海中公園内には海の博物館もあります。正式には千葉県立中央博物館分館といいます。展示室は「房総の海」「さまざまな海の姿」「博物館をとりまく自然」「海と遊ぼう」の4つのコーナーに分かれています。
海の博物館
 「房総の海の自然」をテーマとしていて、房総の海に棲息する魚の標本や海底のジオラマを展示しています。海の生き物や自然を紹介したマリタイムシネマを上映のほか、野外での自然観察を主体とするイベントも数多く開催しています。
海の博物館



鵜原理想郷
うばらりそうきょう
千葉県勝浦市鵜原
Tel 0470-73-6641
 外房の鵜原は太平洋の荒波に浸食された、典型的なリアス式海岸です。深い入江を覆うように木々や植物が、岬の先まで続いています。大正時代「鵜原理想郷」という名前で別荘地として開発されたところです。
 この美しい土地は多くの文人や画家に愛されました。与謝野晶子は、昭和11年(1936)の4月から5月に友人達と滞在し、76首もの歌を詠んでるそうです。三島由紀夫は、鵜原・理想郷にある明神岬を頭に入れながら「岬にての物語」という小説を書いています。
 戦時中には、入り江の漁港が特攻隊の訓練基地となったそうです。飛行予備学生が鵜原に集結し、毎日、特攻訓練を繰り返したそうです。



誕生寺
たんじょうじ
千葉県鴨川市小湊183
Tel 04-7095-2621
 小湊山誕生寺は日蓮聖人の生家跡地に建てられたという由緒ある寺で建治2年(1276)に日蓮聖人の弟子・日家上人によって建立されました。敷地内には国指定天然記念物の千年杉や、1200年前の井戸が残っています。
 誕生寺はその後、明応7年(1498)、元禄16年(1703)の2度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転されました。26代日孝が水戸光圀の協力を得て七堂伽藍を再興しましたが宝暦8年(1758)の大火でほとんどの諸堂は焼失しました。ただ一つ、仁王門だけは焼失をまぬがれました。
 天保13年(1842)に49代目闡が現在ある祖師堂を再建しました。江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため天台宗に改宗されそうになりましたが、身延山が日蓮誕生地の由緒ある寺であるところから一本山に格下げて引き取りました。昭和21年(1946)には大本山に復帰しています。
  誕生寺の寺宝には、県の有形文化財に指定されている「富城殿女房尼御前御書」があります。日蓮が下総の富木常忍の妻に宛てた真筆です。本堂と祖師堂に安置されている中世期の「木造日蓮聖人坐像」2体は、市の有形文化財に指定されています。
  祖師堂の鬼瓦は畳、21畳分もあり世界一の大きさです。誕生寺境内に漂う線香と近くの海岸から来る磯風の香りは環境省認定「かおり風景百選」にも選ばれています。日本で一番早く初日の出を拝めるお寺で、境内の旭が森からは水平線から昇る朝日を見ることができます。

 仁王門は宝永3年(1706)に建立されました。宝暦8年(1758)の大火で焼け残った誕生寺最古の建造物です。間口8間で、楼上の般若の面は左甚五郎作と伝えられています。
仁王門
 仁王門の両側にある仁王尊は上総の仏師松崎右京大夫法橋作です。県内でも最大規模の仁王門で、創建時の様子をとどめている貴重な建造物として、平成9年(1997)に県の有形文化財として指定されました。
仁王門

 誕生寺の祖師堂は日蓮聖人像を安置するお堂です。49代日闡上人が、10万人講により10数年の歳月をかけて天保13年(1842)に建立されました。総欅(けやき)造り雨落ち18間4面、高さ95尺あります。
祖師堂
 祖師堂の堂内には52本の欅の柱と用材が使われています。これらは江戸城改築用に伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中難破して流れたものを譲りうけたそうです。後藤三治郎恒俊作の欄間は大変見事です。また祖師堂は世界最大の鬼瓦を擁しています。
祖師堂



清澄寺
せいちょうじ
千葉県鴨川市清澄322−1
Tel 04-7094-0525
 千光山清澄寺は、日蓮が出家した寺として有名で、日蓮宗の大本山です。久遠寺、池上本門寺、誕生寺とともに日蓮宗四霊場と呼ばれています。日蓮が出家して修業をつみ、後に法華宗の開宗宣言をしたお寺でもあります。
 清澄寺は宝亀2年(771)、天台宗の寺として開創されました。不思議法師(ふしぎほっし)という僧が千光を発する柏の木で虚空蔵菩薩の仏像を彫り、その仏像の前で21日間修行をしたことが創起との事です。
 承和3年(836)、比叡山延暦寺の慈覚大師が訪れ仏像の前で21日間修行をし、天台密教を伝え、不動明王を祀り、僧坊・堂宇を建立して中興します。以来、天台宗の大寺となりました。嘉保3年(1096)焼失しますが、安房の国司・源親元によって再建されました。
 日蓮は12歳の時の天福元年(1232)この清澄寺に入り、住持の道善法師に師事しました。16歳で出家して是聖坊蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名のりました。勉学修行に励んだ日蓮は諸国に出て、各宗の奥義を学び、建長5年(1253)、32歳の時、帰山しました。そして旭が森で南妙法蓮華経と唱え立教開宗の第一声をあげました。
 清澄寺はその後衰退しますが、元和2年(1616)徳川秀忠が寺領177石を与え、真言宗に改宗させられます。住持は京都智積院の僧・頼勢になりました。
 徳川家の帰依が厚く、10万石の格式を与えられて寺運は隆盛し、幕末頃には安房・上総の総氏寺と称せられました。明治の廃仏毀釈で荒廃しましたが、次第に回復し昭和24年(1949)に日蓮宗に帰属して今日に至っています。
 境内には「清澄の大杉(千年杉)」、きよすみしだれ桜、モリアオガエルなどの天然記念物があります。旭が森からの朝日は「日本の朝日百選」に選定されています。

 清澄寺の境内に入って右手にそびえているのが、国指定天然記念物「清澄の大杉」です。「千年杉」とも呼ばれ、1千年をこえる清澄寺の歴史を物語る霊木とされています。根回り約17.5m、幹周り約14m、高さ約47mと巨大な古木です。
清澄の大杉

 参篭殿には鎮火牛(ちんかぎゅう)があります。火防・鎮火の守護神として左甚五郎が彫ったそうです。
鎮火牛



鴨川シーワールド
かもがわしーわーるど
千葉県鴨川市東町1464−18
Tel 04-7093-4803
 鴨川シーワールドは東条海岸と国道128号の間にある総合海洋レジャーセンターです。5.5ヘクタールに約800種、11000点のかわいい海の生物に出会える房総エリアの海の顔で、日本で唯一、シャチのファミリーに出会えます。
 シャチ、イルカ、アシカ、べルーガ(シロイルカ)の4つのパフォーマンスはとても人気があります。南の海を再現した「トロピカルアイランド」は熱帯の珊瑚環礁を再現しています。アザラシやペンギン、ラッコたちの楽園「ロッキーワールド」も楽しめます。
 鴨川シーワールドは昭和45年(1970)10月に八洲観光株式会社によって開かれ、現在はグランビスタ ホテル&リゾートが運営しています。様々な生物の繁殖においても世界的な功績を残し、学術的にも存在価値の極めて高い水族館です。



仁右衛門島
にえもんじま
千葉県鴨川市太海浜445
Tel 04-7092-3456
 仁右衛門島は太海浜から200m沖合いに浮かぶ約3万平方mの島で、千葉県の名勝と、新日本百景の地に選ばれています。金銀針茄子(きんぎんはりなす)という珍しい植物も自生している島です。
 昔から島の所有者である平野仁右衛門が住んでいることから仁右衛門島と呼ばれています。治承4年(1180)源頼朝が石橋山の合戦に破れ安房へ逃れました。平家方の長狭常伴の探索・追手は厳しく、この島に身を隠したそうです。
 この島の住人であった初代平野仁右衛門は身を挺して頼朝を守りました。のちに頼朝はこの功績により島と付近の漁業権を与えたそうです。この島は日蓮聖人の伝説もあり、松尾芭蕉などの句碑や歌碑もあります。



鴨川オーシャンパーク
かもがわおーしゃんぱーく
千葉県鴨川市江見太夫崎浜田22
Tel 04-7096-1911
 鴨川オーシャンパークは鴨川から和田方面に向かう、国道128号線沿いにあります。以前は太海フラワーセンターが運営していましたが、平成16年(2004)より、鴨川市農林業交流協会が運営している道の駅です。
 この建物は、扇形のピラミッドを連想させる独特な形をしています。アワビをイメージしているそうです。階段状の表面全体に滝のように水が流れ落ちています。内部は3階建てになっていて、1階が物産館、2階がレストラン、3階には展示室と展望テラスがあります。
 物産館の横には、「千年磯」といって、かつての磯を再現した人工の潮だまりが作られてて、親子で磯遊びなどが楽しめます。鴨川の美しい海を堪能できるテラスから望む朝日、夕日はまさに絶景です。



ローズマリー公園
ろーずまりーこうえん
千葉県南房総市白子1501
Tel 0470-46-2882
 ローズマリー公園は、イギリスの風が香る公園で、道の駅でもあります。シェイクスピア・カントリー・パーク、ローズマリーガーデン、リバーサイドプラザの3つの公園を中心に、和泉流宗家記念館、丸山交流・体験センター、ときめきプラザ農産物直売所などがあります。
 ローズマリーガーデンではチャペルスタイルのローズマリーホールを中心に、左右対称の通路や花壇が配されたヨーロッパの伝統的なノット式ガーデンです。季節の花々とローズマリーがさわやかに香るシンボルガーデンです。
 シェイクスピア・カントリー・パークは劇作家ウィリアム・シェイクスピアのテーマパークです。実際の建築で再現されたシェイクスピアゆかりの建物、芝生広場や粉挽きの風車、美しく手入れされたガーデンなど、中世のイギリスを旅しているような風情があふれています。
 ニュープレイス、バースプレイス、フォーマルガーデンは有料です。ハーブの香りと四季折々の草花が咲いています。交流体験センターでは田舎の楽しさ豊かさを知ることができます。



高家神社
たかべじんじゃ
千葉県南房総市千倉町南朝夷164
Tel 0470-44-5625
 高家神社は谷津(やつ)という集落にあり、日本で料理の神様を祀る唯一の神社です。毎年10月17日(神嘗祭)と11月23日(新嘗祭)には包丁式が奉納され、多くの料理人や見物客で賑わいます。
 高家神社境内で執り行われる包丁式は包丁と箸を用いて手を触れずに鯛、鯉、真魚鰹などを調理します。烏帽子を被り、裃を着用し、調理人、立会人などにより執り行われる古式ゆかしいものです。
 元和6年(1620)、高木吉右衛門は桜の木の下から木像と2面の鏡を発見し、それを神体として「神明社」として神社を創建しました。その200年後、この鏡に「御食津神、磐鹿六雁命」と書かれていることが判明しました。所在不明であった高家神社の神体であろうと、文政2年(1819)、京都の吉田御所に届け出て、神明社から高家神社に改称しました。
 祭神の磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)は景行(けいこう)天皇が安房に立ち寄ったとき、勝山沖の浮島でハマグリを料理し献上したと伝えられています。「料理の祖神」を祀る神社として料理関係者や醤油醸造業者などから崇敬されています。



潮風王国
しおかぜおうこく
千葉県南房総市千倉町千田1051
Tel 0470-43-1811
 水がきれいなことで定評のある千倉の海、季節を問わずサーファーが訪れ、潮風に吹かれながらの散策にもうってつけの砂浜です。その傍らに道の駅・ちくら潮風王国があります。
 桟橋に見学の出来る本物の漁船が係留されています。房総の近海で取れるいわし、カワハギな新鮮な海産物を扱っています。芝生広場、じゃぶじゃぶ池などで遊ぶ事もできます。



野島埼灯台
のじまざきとうだい
千葉県南房総市白浜町白浜630
Tel 0470-38-3231
 野島埼灯台は、房総半島の最南端野島崎に立つ、白亜の八角形をした大型灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれています。周辺は、南房総国定公園に指定されていて、雄大な太平洋のパノラマが展開しています。
 この灯台は、明治2年(1869)にF・L・ヴェルニーを首長とするフランス人技師によって造られた西洋式灯台です。内部にあるらせん階段を上れば、雄大な太平洋が見渡せます。灯台資料展示室「きらりん館」も併設されています。
 慶応2年(1866)徳川幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名、江戸条約)によって建設することを約束した重要拠点の灯台の一つです。それは観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬の8ヶ所でした。
 明治2年(1870)12月、観音埼灯台に続いて、日本の洋式灯台では2番目に初点灯しました。野島崎は東京湾に出入りする船舶に とっては、非常に重要な地点でしたので、他に先立って建設されました。
 大正12年(1923)9月1日、関東大震災で、地上6mの所で折れ、大音響とともに倒壊しました。その後、大正14(1925)8月に、現在の白色塔形(八角形)コンクリート造りで、再建されました。昭和20年(1945)太平洋戦争の攻撃で大きな被害を受けましたが、翌年、復旧しています。



白浜野島崎公園
しらはまのじまざきこうえん
千葉県南房総市白浜町白浜
Tel 0470-38-3231
 白浜野島崎公園は、南房総国定公園の中にあり、房総半島最南端の一角に突出している公園です。昔から房総の荒波が造り出した景色に文人墨客が訪れ、多くの詩歌や伝説が残されてきた名勝の地です。.
 ここは昔は海に浮かぶ一つの島でした。元禄16年(1703)の大地震で陸続きとなったそうです。野島崎の東方海上にある江ノ島にのびる岩礁は国定公園第一種特別地区に指定されています。
 白浜野島崎公園には野島崎灯台、房総半島最南端の碑、若い海女の像、里見公上陸の碑、朝日と夕陽の見える岬の碑などがあります。
 近くには野島西港から出航する野島崎海底透視船があります。野島埼灯台西海岸沿いの海上を20分かけて回る観光船です。強化ガラス張りの船底から、メジナやクロダイなどの泳ぐ姿が見られます。



白浜海洋美術館
しらはまかいがんびじゅつかん
千葉県南房総市白浜町白浜628−1
Tel 0470-38-4551
 白浜海洋美術館は海にちなんだ資料の中から、美的要素を基準にして選抜した資料100点を常設展示している美術館です。房総半島発祥の大漁半纏、万祝(まいわい)コレクションは充実しています。
 万祝は漁師の晴れ着として作られてきた和服の一種で、江戸時代から漁師の間で広まった民俗的衣装です。江戸時代の房総半島の船主や網元が大漁祝いの引き出物として漁師に配った祝い着です。その後、広く太平洋岸の漁村にも広まりました。



白浜厳島神社
しらはまいつくしまじんじゃ
千葉県南房総市白浜町白浜629
 白浜厳島神社は野島崎灯台のすぐ下の、松林の中にあります。境内に祀られた七福神は、安房出身の石工武田石翁によって安永8年(1779に作られたものです。表情の豊かさと精巧な作りは、見事です。
 紫の布の中には平和の愛鍵と銘打った木製の男性のシンボルと、貝殻の女性のシンボルがあり子宝に恵まれるという祠があります。



白浜フラワーパーク
しらはまふらわーぱーく
千葉県南房総市白浜町根本1454
Tel 0470-38-3555
 白浜フラワーパークは風光明媚な房総半島の最南端に位置する花の楽園です。800坪の大温室と3棟の温室には、バナナを始め熱帯果樹や熱帯花木が生い繁り、お花畑や花壇には四季の花が咲き競います。海を見渡せる天然温泉のガーデンプールもあります。
 フラワーパークのシンボルの「熱帯ドーム」ではバナナツリーや熱帯の花など、ちょっとしたジャングルムードを味わうことができます。色鮮やかな花が咲く園内では12月から5月上旬までポピーやストックの花摘みも楽しめます。
 冬から春には、ポピー・菜の花・キンセンカ・矢車草・水仙・パンジー・デイジー・ガーベラ・金魚草・マーガレット・松葉菊・ナデシコなど。 夏はマリーゴールド・サルビア・ペチュニア・ダリア・ひまわり・百日草・あじさいなど。秋はペチュニア・サルビア・マリーゴールド・ガーベラ・百日草・カンナなど咲き競います。



南房パラダイス
なんぼうぱらだいす
千葉県館山市藤原1495
Tel 0470-28-1511
 平砂浦海岸の砂丘地帯に広がる145000平方mもの広大な敷地に熱帯の植物を中心に約5000種を保有する千葉県最大の植物園です。ハワイから導入した大輪のハイビスカスやブーゲンビリア、プルメリアなど、トロピカルフラワーでハワイ気分を味わえます。
 昭和45年(1970)に開園した老舗の植物園で、シンガポール国立植物園の姉妹園にもなっています。提携を記念して造られた「シンガポールらん館」にはマーライオン像を中心に、パ フィオペディルム、バンダ、カト レアなど美しいランが咲き誇ります。
 巨大な温室の中には、滝が流れ、10m以上はあるタビビトの木をはじめとした熱帯の巨木が生い茂っています。芝生広場やふれあい動物広場もあります。平成18年(2006)から「オーシャンヴェール・リゾート」に管理委託され、道の駅にもなっています。



館山ファミリーパーク
千葉県館山市布沼1210
Tel 0470-28-1110
 平砂浦沿いの小高い丘に位置する館山ファミリーパークは、家族連れで一日楽しめる花のテーマパークです。4万坪もある園内で花摘み・パークゴルフ・パターゴルフ・釣堀・バーベキュー・楽焼・いちご狩りなどが楽しめます。
 黄やオレンジ色のジュータンを敷いたような10万本のポピーの花摘み広場があります。キンギョソウ、ストック、キンセンカなども楽しめます。「トロフルガーデン」では、ドラゴンフルーツをはじめ、バナナ・マンゴー・パッションフルーツなど珍しい南国フルーツの生育を見ることができます。
 体験工房や陶芸施設で摘んだ花を使ったリースやハーブの香水づくり、またオリジナル陶芸づくりなど、手軽に体験工作が楽しめます。オーシャンヴェール・リゾートが運営しています。



洲崎神社
すのさきじんじゃ
千葉県館山市洲崎1344
Tel 0470-29-0713
 洲崎神社は神武天皇の時代、安房の開拓にあたった天富命(あまのとみのみこと)が、祖母であり、洲神と呼ばれた天比理刀当ス(あめのひりのめのみこと)を祀ったのが始まりといわれています。
 寿永元年(1182)、安房に逃がれた源頼朝が、妻の政子の安産を祈願しています。また、太田道灌が江戸城を築いたとき、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請し、それが東京にある神田明神といわれています。
 戦国時代の初め、房総里見氏も洲崎神社を尊崇して、7代義弘は神領5石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下しています。文化9年(1812)老中松平定信は「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納しています。
 神社の鎮座する御手洗山(みたらしやま)はスダジイ、クロマツなどが茂り、自然林としての景観がよく保たれています。貴重な林として千葉県天然記念物に指定されています。安産・航海安全・豊漁・五穀豊穣や 厄除開運の守護神として人々の信仰を集めています。

 洲崎神社本殿は延宝年間(1673-1681)に改築された建物です。三間社流造りで三方に木口縁をめぐらし、銅板葺・千木勝男木を置き、唐様三手先組で外部は丹塗仕上げ、木鼻欄間等に彫刻が施されています。
洲崎神社本殿



洲崎灯台
すのさきとうだい
千葉県館山市洲崎1043
Tel 0470-22-3346
 洲崎灯台は館山湾の南西端に建っています。神奈川県の剱崎灯台とともに東京湾の入口にあり、大正8年(1919)に点灯されました。
 円筒形のコンクリートで、高さは15mで、海上からの高さにすると約45mになります。光達距離は約35kmです。、右手に東京湾、正面に相模湾、やや左手に大島、遠くには富士山が一望に見えます。付近は霜が降りない所で、冬でも花が咲いています。



水中観光船たてやま号
すいちゅうかんこうせんたてやまごう
千葉県館山市波左間1009ー10
Tel 0470-29-1800
 水中観光船たてやま号は波左間港から出ています。冷暖房完備の半潜水式の水中観光船です。ゆったりした水中展望室からは三次元の立体的な海中散歩が楽しめます。
 沖合400mにある波佐間島周辺を周遊します。メジナ、メバル、クロダイ、ソラスズメダイ、ツノダシなど黒潮にのって南の海から来た魚や、サンゴの北限である館山の海に生息する魚が泳ぐ海の世界を眺められます。



館山城址(城山公園)
たてやまじょうし(しろやまこうえん)
千葉県館山市館山351−2
Tel 0470-23-5212
 里見氏の居城・館山城址は城山公園となり、花の公園として親しまれています。約280本の梅、1400本の椿、約600本の桜、約1万本のツツジが植栽され、館山市立博物館や日本庭園などがあります。
 里見氏は清和源氏新田氏の末流といわれ、新田義重の子・義俊が上野国(群馬県)碓井郡里見郡で里見氏を称したのが始まりです。里見家基のとき常陸国(茨城県)小原に移り、関東公方足利持氏に仕えましたが、永享12年(1440)の結城合戦で戦死します。
 その子・義美は相模国(神奈川県)三浦に逃れ、やがて三浦氏の援助により安房白浜に上陸すると安房一国を平定し領土にしました。上総、下総にも勢力を伸ばし、6代目里見義尭(よしたか)の時は57万石を領し、隆盛をきわめました。
 天文7年(1538)、里見義尭は小田原の北条氏康に敗れ、里見氏7代義弘も永禄7年(1564)、北条氏康・氏政父子と再び国府台で戦って敗れました。しかし同年、北条氏は豊臣秀吉によって滅亡しました。里見義康は小田原への遅参を咎められ、秀吉によってその領地は安房一国9万2千石に減封されてしまいました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の役では徳川秀忠に従い3万石の加増となり、里見氏10代忠義も当初は徳川幕府に重んじられました。慶長19年(1614)、妻の祖父である小田原城主・大久保忠隣の改易に連座して、伯耆(鳥取県)倉吉3万石に減封され、館山城は破却されてしまいました。



那古寺(那古観音)
なごじ(なごかんのん)
千葉県館山市那古1125
Tel 0470-27-2444
 補陀洛山(ふだらくさん)那古寺は那古山の中腹にある真言宗智山派のお寺です。坂東33番札所納めの観音で、養老元年(717)元正天皇の勅願により行基が創建し、承和14年(847)慈覚大師円仁の中興と伝えられています。
 源頼朝は平家の追討を祈願し、建久年間(1190-1199)に七堂伽藍を建立しています。室町時代には里見義実は出家して那古寺の住持にもなり、隆盛をきわめました。徳川家康の頃には、鶴谷八幡宮の別当を兼ね、末寺15寺、280石を領しました。
 元禄16年(1703)の大震災で堂塔が全壊し、奉行岡本兵衛を中心にして、現在の場所に下げ、宝暦9年(1759)再建しました。明治の廃仏毀釈で一時寺勢は衰えました。大正11年(1922)本堂を修理しましたが、翌年の大震災で半壊し、大正13年(1924)に再び再建しています。
 那古寺は桜の名所としても有名です。本尊の木造千手観音立像(市指定有形文化財)、青銅千手観音立像(国の重要文化財)、木造阿弥陀如来坐像(県指定有形文化財)、繍字法法華経普門品(県有形文化財)、境内裏山の自然林(市天然記念物)が文化財として指定されています。

 那古寺の本堂(観音堂)は、宝暦9年(1759)の建立で、正面15.1m、側面14.4mの朱塗り本瓦葺きです。平成の大修理が平成20年に終了し落慶法要が営まれました。中には、国の重要文化財に指定されている銅造千手観音立像が納められています。像高1.05mで、鎌倉時代のものです。本尊の像高1.5mのクスの一木造り・千手観音立像も安置されています。
那古寺本堂(観音堂)
 阿弥陀堂には、藤原期の作と伝えられている木造阿弥陀如来の座像が祀られています。この坐像は、千葉県の有形文化財に指定されています。
那古寺阿弥陀堂
 多宝塔は、宝暦11年(1761)、住僧憲長が伊勢屋甚右衛門らと力を合わせ、万人講を組織勧進して建てたものです。3間4方、銅板瓦棒葺きで、下層4面に切目棟をめぐらせ、和様高欄を付けています。尾垂木には、江戸中期以降の建築によく見られる竜鼻が用いられています。那古寺多宝塔は千葉県の有形文化財に指定されています。
那古寺多宝塔



大福寺(崖の観音)
だいふくじ(がけのかんのん)
千葉県館山市船形835
Tel 0470-27-2247
 船形山大福寺は真言宗智山派のお寺で、船形山の中腹にあります。この寺の境内には磨崖仏の十一面観音を本尊とする懸崖造りの観音堂があり、崖の観音(崖観音)と呼ばれています。
 養老元年(717)に僧行基が、東国巡歴の途中ここに立ち寄り、神人の霊を受け、船形山中腹に、漁民の海上安全を祈願して十一面観音像を刻んみ開基としたと伝えられています。その後天台宗の慈覚大師円仁が来山して中興したとされています。江戸時代には、江戸幕府から朱印状が与えられていました。
 江戸時代の正徳5年(1715)旗本石川氏により懸崖造り(けんがいづくり)の観音堂に整えられたといわれています。急峻な崖や山の斜面にへばりつくように建てられた寺院建築を、懸崖造り又は懸造り(かけづくり) といいます。
 大福寺は安房国観音巡礼札所第三番の霊場として、また、風光明媚な館山湾(鏡ヶ浦)を一望のもとに見渡せる観音堂のあることから、多くの人々が参詣に訪れます。 本尊の麿崖十一面観音立像は市の指定文化財となっています。



伏姫籠穴
ふせひめろうけつ
千葉県南房総市合戸269
Tel 0470-33-1092 南房総市商工観光課
 伏姫の籠穴は富山(とみさん)中腹付近にあります。滝沢馬琴の名作「南総里見八犬伝」の冒頭で語られる、 伏姫(ふせひめ)と八房(やつふさ)が一緒に住んでいたとされる洞窟です。八房が眠るという「犬塚」もあり、辺りは木々がうっそうと茂り、幻想的な雰囲気です。
 安房の城主・里見義実が敵に攻め込まれ、敵の首を持ってきた者に伏姫を嫁がせる」と言い放ちました。それを聞いた犬の「八房」が敵の首をとってきます。伏姫は約束だからと八房と一緒に穴に篭ります。この穴が伏姫籠穴といわれています。
 その後、八房は里見家の家臣に殺害されますが、伏姫は子を宿し、自害しようとお腹を切った所、中から8つの珠が出てきて、それが八方に飛び散りました。不思議な力でつながった「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」を持つ八犬士たちが里見のために忠義をつくし活躍する物語です。



きみさらずタワー
きみさらずたわー
千葉県木更津市太田2−16
Tel 0438-23-7111 木更津市都市整備課
 きみさらずタワーは「恋の森」の異名をもつ太田山公園山頂に建つ、高さ28mのタワーです。日本武尊(やまとたけるのみこと)、弟橘姫(おとたちばなひめ)のブロンズ像が向かい合って立っています。 神代のころ東征の際に日本武尊は、この山から海を見つめながら、波間に身を投じた妃の弟橘媛を偲んだそうです。
 ここからの眺めは格別で、木更津市街や東京湾も見下ろせ、360度の眺望がひらけています。 夜間にはライトアップされ、二人の像が夜空に浮かび上がります。
 展望台のデザインは、江戸と木更津間の物資輸送などに活躍した木更津船をイメージしたものです。「きみさらず」とは日本武尊が妃弟橘姫命を惜しんで読んだ句の中の一節「君不去 (きみさらず)」からきています。木更津の名の元になっています。



鐙誠寺
しょじょじ
千葉県木更津市富士見2−9−30
Tel 0438-22-2018
 護念山鐙誠寺は慶長年間(1596-1615)に創建された浄土真宗本願寺派のお寺です。萩・ヤマブキの名所ですが、昔は狐狸の遊ぶ寂しいところだったそうです。「しょっ、しょっ、しょじょじ、しょじょじのにわは」の狸囃子で有名なお寺なのです。
 ある仲秋の名月の夜、鐙誠寺の和尚さんがふと目を覚ますと、外がどうも騒がしい。月明かりで見てみると、なんと数十匹の大ダヌキや小ダヌキが踊り狂っていました。あまりにも面白いので一緒になって踊り出しました。
 連日、タヌキと和尚さんは競争して踊りましたが、4日目にタヌキの姿が急に見えなくなってしまいました。不思議に思った和尚さんが翌朝、本堂のそばの川べりに出てみると、腹の皮の裂けた一匹の大ダヌキが死んでいました。
 この民話をもとにして、大正13年(1924)、野口雨情が作詞し、中山晋平が曲をつけて出来上がったのが「鐙誠寺の狸ばやし」です。その歌詞を刻んだ童謡碑と、大ダヌキを葬って築いたという狸塚が境内にあります。



光明寺・与三郎の墓
こうみょうじ・よさぶろうのはか
千葉県木更津市中央1−3−5
Tel 0438-22-3603
 吉祥山光明寺は建武2年(1335)日輪上人によって開創された日蓮宗のお寺です。参拝客のなかには歌舞伎役者の姿があるそうです。与三郎という男のモデルが木更津の紺屋で修業していたことから、このお寺が有名になりました。
 しがねえ恋の情が仇 命の綱の切れたのを どうとりとめてか 木更津から・・・このセリフで有名な「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)。歌舞伎で人気のこの物語は木更津が舞台の与三郎とお富の恋物語です。その切られ与三郎のモデルとなった人物の墓が光明寺にあります。
 与三郎は小間物屋の若旦那(だんな)です。博徒の妾のお富との密会を知られ、全身に切り傷を負いました。,お富は海に飛び込みました。3年後無頼漢となった与三郎は源氏店で,死んだはずのお富と再会します。
 日本橋呉服問屋の主人に助けられ、二人は夫婦になりますが長唄で身を立てた与三郎は芸の恨みから水銀を飲まされ喉が潰れてしまいます。家元4代芳村伊三郎の情痴事件をもとに脚色されました。



木更津市郷土博物館 金のすず
きさらづしきょうどはくぶつかん きんのすず
千葉県木更津市太田2丁目16-2
Tel 0438-23-0011
 木更津市郷土博物館金のすずは、金鈴塚古墳出土品を展示する施設として昭和31年(1956)に開館した金鈴塚遺物保存館を前身とし、平成20年(2008)4月に千葉県立上総博物館の移譲を受け、新たに市立博物館として同年10月にオープンしました。
 国指定重要文化財「上総木更津金鈴塚古墳出土品」を中心に、高部古墳群、手古塚古墳など全国的に著名な古墳とその文化を展示紹介しています。また、旧安西家住宅を移転・公開しています。
 旧安西家住宅は、太田山公園内に昭和57年(1982)に移築、復元された江戸時代中期の代表的な大型の民家です。構造は間口13間、奥行き5間の平入りで寄棟造りの茅葺きです。間取りや建築構造など江戸時代中期から後期へ移行する過渡的な構造を残しており上総地方の建築史上貴重な資料となっています。
旧安西家住宅



鋸山日本寺
のこぎりやまにほんじ
千葉県安房郡鋸南町(きょなんまち)元名184
Tel 0470-55-1103
 乾坤山日本寺は神亀2年(725)に聖武天皇の勅詔により行基によって開かれた曹洞宗の関東で最も古い勅願所です。南房総国定公園の中にあり、奇岩・名勝の地として知られる鋸山山頂に位置しています。
 日本寺には慈覚大師や弘法大師などの名僧も修行に訪れ、最盛期には7堂12院100坊を数え、隆盛をきわめたそうです。本尊の薬師瑠璃光如来坐像をはじめ百尺観音、東海千五百羅漢が点在しています。
  本尊は高さ31.05m・御丈21.3mの石の大仏で、磨崖仏としては日本一の大きさを誇ります。ちなみに鎌倉の大仏が高さ13.35m・御丈11.312m、奈良の大仏が高さ18.148m・御丈14.85mです。
 天明3年(1783)に大野甚五郎英令が門弟27名と3年をかけて完成させました。当時は御丈8丈、台座を合わせ9丈2尺あり、天下にその偉観を知られていましたが、江戸時代末期になって、自然の風蝕による著しい崩壊があり荒廃していました。
 昭和44年(1969)に4年に渡り復元工事が行われ本来の姿を取り戻しました。しかし本堂は粗末な仮本堂です。昭和14年(1939)に登山者の失火によって国宝仏像と堂宇のすべてを焼失してしまい、まだ再建されていないのです。

 日本寺の梵鐘は国の重要文化財に指定されています。この鐘は、はじめ下野国佐野庄掘籠郷(栃木県佐野市掘栄町)の天宝寺(現称天応寺)の鐘として寄進され、60年を経て鎌倉五山の一である浄妙寺の鐘となり、のち江戸湾を渡って日本寺に移ったそうです。最初に寄進された年は、元亨元年(1321)だそうです
日本寺の梵鐘

 鋸山の山頂近くの切り立った岩場には、百尺観音が鎮座しています。鋸山の石を切り出したところに彫りあげた観音様です。戦後、戦没者と交通事故の犠牲者の供養のために造られた観音像で、航海、航空、陸上交通の安全を守る本尊として崇められているそうです。昭和41年(1966)に6年の歳月を費やして完成された磨崖観音です。
百尺観音

 東海千五百羅漢は、江戸時代、寺の曹洞第9世の発願により、上総の名工大野甚五郎英令が門弟27名とともに、生涯をかけて、1553体もの石仏を刻み、この鋸山に安置したものです。 その規模の大きさから、日本寺は、世界第一の羅漢道場として知られています。 しかし明治維新の廃仏毀釈の中で破壊され、無残な姿の石仏もたくさんありました。
東海千五百羅漢



富津公園
ふっつこうえん
千葉県富津市富津
Tel 0439-80-1291
 富津公園は東京湾に突き出た富津岬先端の海浜公園です。半島先端に立つ「明治百年記念展望塔」からは、東京湾の向こうに三浦半島が見渡せます。五葉松を形どったこの展望塔は関東の富士見100景に選ばれています。
 富津公園には砲台跡があります。明治14年(1881)、富津岬に富津元洲砲台が築かれました。明治32年(1899)砲台には守備隊が置かれ歩兵中隊446名が守備につき、戦争に備えました。大正4年(1915)、陸軍技術研究所富津試験場となり兵器の命中試験などが行われたそうです。
 富津公園にあるジャンボプールには、流水プール・スライダープールなど5つのタイプのプールがあります。また一年中利用できる温水プールもあります。25mプールと水深80cmの児童プールがあり、室温は約30度、水温は約29度に保たれ、快適にご利用できます。
 広い園内には、コンサートやイベントが行われる「野外劇場」や、アウトドア・ライフを楽しむ「キャンプ場」、「テニスコート」、そして宿泊施設までも整っています。



東京湾観音
とうきょうわんかんのん
千葉県富津市小久保1588
Tel 0439-65-1222
 東京湾観音は富津市のほぼ中央、大坪山の山頂(海抜120m)に東京湾の入り口に向かって建てられた高さ56mの観音様です。昭和36年(1961)に宇佐美政衛が平和祈念と戦没者の慰霊を目的として建てました。
 東京湾観音の原型の作者は、国際グランプリを受賞した彫刻家の長谷川昴(こう)氏です。天上界までラセン階段で324段あり、胎内は20階より成り、十三沸や七福神を祀ってあります。
 観音建立には1億円も費やしたそうです。顔の長さだけでも11mもあり、腕、肩、冠に展望窓が付いています。また、冠には1万燭光のライトが付いていて、浦賀水道を往来する船の灯台の役目も果たしています。



マザー牧場
まざーぼくじょう
千葉県富津市田倉940−3
Tel 0439-37-3211
 マザー牧場は鹿野山の隣の鬼泪山(きなだやま)の山頂付近にある牧場のテーマパークです。東京タワーを経営する日本電波塔グループが運営しています。馬や牛、羊、アルパカなどが2.5平方kmの広い園内にはたくさんの動物が飼育され、触れ合える観光牧場です。
 牛の牧場で行われる乳牛の手しぼり体験、気まぐれなこぶたを追い立ててゴールを目指すこぶたのレース、アグロドームで開催される羊の毛刈りショーなど動物ふれあいイベントは毎日開催されています。
 菜の花・黄花コスモス・サルビアなど季節の草花が咲き揃う広い花畑があります。イチゴ・ブルーベリーなど季節の味覚狩りと、シーズンごとの楽しみもいっぱいです。
 巨大迷路、ゴーカート場、馬場、ハイキングコースのほか、東京湾が一望できる観覧車、21mのバンジージャンプなど、様々なアトラクションも揃い、1日たっぷり遊ぶことができます。



神野寺
じんやじ
千葉県君津市鹿野山324−1
Tel 0439-37-2351
 鹿野山(かのうざん)神野寺(じんやじ)は、真言宗智山派のお寺です。1400年前、聖徳太子によって開かれた房総の古刹で、初詣には約40万人もの参詣客が訪れます。春には桜、夏にアジサイ、秋に紅葉で有名です。
 本尊の薬師如来、軍荼利明王は、聖徳太子により安置されたとつたえられています。鹿野山は、古来より霊山として崇められ、鋸山、清澄山と並んで房総の三名山に数えられています。
 天安元年(857)慈覚大師円仁、嘉録年間(1225-1227)には親鸞の入山が伝えられています。永正年間(1504-1521)に真言宗の僧弘範により中興されました。徳川家康も復興に力を入れ、十万石の格式を与えていたそうです。
 本堂の南東に、軍茶利塔、江戸中期に建てられた鐘楼、六角堂造りの観音堂があり、その東に四脚門があります。境内には徳川家康ゆかりの石灯篭が並び、高浜虚子、芭蕉の句碑などもあります。
 奥の宝物殿には、左甚五郎作と伝わる白蛇や運慶作の仁王面が展示されています。江戸時代の名仏師の貴重な彫刻・仏像・寺宝などが数多く展示されていて、中にはモンゴルの恐竜の卵などもあります。

 四脚門は、背後の客殿、庫裏、宿坊に入る表門で永正年間(1504-1521)に改築されたものです。釘を一切使っていない均整のとれた禅宗様式の表門で、切妻造りで茅葺き屋根です。表門は国の重要指定文化財に指定されています。
神野寺表門
 本堂は県指定の文化財で、桁行・梁間とも5間、重層、入母屋造りで銅板瓦棒葺きです。正面に唐破風造りの向拝を付けています。堂内の格天井には狩野派の絵が描かれ、厨子、須弥壇の構造も優れています。
神野寺本堂
 奥の院は飯縄宮殿ともいわれています。元禄16年(1703)の造営で、桁行4間、梁間5間で内陣には宮殿が設けられています。本尊は飯縄大権現です。これは白狐の乗った烏天狗だそうです。
奥の院


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